432 / 503
第5章
5.過去からのトロフィ(2)
しおりを挟む
「…伊吹さん」
病院の一室に、有沢は薄緑の寝間着のようなものを着て横たわっていた。窓が開け放されていて、晴れ上がった空を眺めていたらしい。気配に振り向いた顔が微かに笑う。風に乱れもしないしっとりとした髪の毛が長患いを予感させる。
「…大丈夫ですか」
「もう退院できないそうです」
さっくりと答えた。
「…」
「昨日のことでしたよね……あなたに手がかりを頂いたのは」
なんだか急に時間がすごく速く経っていく気がする。
呟きながら有沢は、もう一度彼方へ視線を投げる。空を見ていたのではなく、右手に繋がれた点滴を見上げていたのだと気づいた。
ポトリ、ポトリ、ポトリ。
明るい日差しの中、一定間隔で刻まれる時間、じりじりと減っていく袋の中身。
「もうちょっと居たかったな、外界に」
軋るような声で唸る。
「倒れられたんですね」
「苦しいのはいつもだったから、見くびりました」
自嘲する声音だった。
「…檜垣は?」
「車を置いたらすぐに来るとおっしゃってましたが」
「…話は聞きましたか?」
「はい」
目線で促されて近くのパイプ椅子に座る。枕元にナースコール、触れるものかと言いたげに放り出されたボタンのオレンジもまた明るい。ベッドの上には緊急時に使うものか、二つの器械が取り付けられている。
「おそらく、真崎大輔には実刑判決が出ます」
明後日の方向を向いたまま、他人事のように有沢が言った。
「…はい」
「家族からの訴えもあって、DVに関しても情報が集められている。守秘義務はあるが…」
難しい顔で美並を振り向いた。用心深くことばを継ぐ。
「有る事無い事、かなり酷い事を話している、真崎京介さん、に関して」
「…」
有る事無い事。
もちろん、大輔のことだから、自分に都合よく事実を脚色し捻じ曲げているだろう。恵子からも情報は集められているだろうが、恵子もまた不利な事を隠し、正当化することだけを話しているだろう。
ただ、それだけではなく。
有沢の頭の中に、欲望のためだけに弟の体を蹂躙し続ける兄という存在はあり得るのだろうか。成長しても過去に捕まり囚われて、自分から体を差し出し続ける被害者は想像できるのだろうか。
有る事無い事、の中には、大輔恵子の嘘だけではなく、有沢の想像外と言うこともある。
「…伊吹さんはご存知ですか」
「…はい」
頷いた美並に有沢が目を見開いた。
「知っていても?」
「知ったことから、知り合ったんです」
「……そう…なのか…」
苦い笑みが広がった。
「そういう、繋がりなのか」
同情なのかと聞こえた。同情もまたあっただろう、けれど今はもう、背中を守るただ一人の人としか思いつかない。
「そういう繋がりです」
にっこり笑うと、有沢は大きく息を吐いた。
「…勝てないわけだ」
少し押し黙った後、
「檜垣は遅いですね」
身を震わせた有沢に立ち上がって窓を閉める。椅子に戻ろうとした時、微かに動いたドアに気づいた。檜垣は戻って来ているが、部屋に入らないつもりらしい。
ふと、何か懐かしいような、悲しいような気がして、美並は戸惑った。ベッドに寝ている有沢、落ちる点滴、閉めた窓、ドアの外に立つ人の気配。
「…過去から届いた褒美、ってなんですか?」
ドアを見たまま尋ねた。
「え?」
「来る途中、檜垣さんがそこまで話して止めました」
「あいつ……」
苦笑した有沢が座るよう促して、もう一度腰を下ろす。
「実は先日のホテルの近くにコンビニがあるんです」
有沢が話し出して注意を戻した。
「周囲には他に店がなく、ホテルを利用する人間もコンビニに入る。そして、コンビニにはカメラがあります」
「でも…5年以上前です、映像は」
確か一定期間ごとに上書きするように保存されると聞いたことがあるのだが。
「普通ならば」
有沢が目を細めて皮肉な笑みで振り向く。
「残っていないはずなんですが」
そのコンビニには残っていたんですよ。
「なぜですか」
「過去からの、褒美」
有沢が頷いた。
病院の一室に、有沢は薄緑の寝間着のようなものを着て横たわっていた。窓が開け放されていて、晴れ上がった空を眺めていたらしい。気配に振り向いた顔が微かに笑う。風に乱れもしないしっとりとした髪の毛が長患いを予感させる。
「…大丈夫ですか」
「もう退院できないそうです」
さっくりと答えた。
「…」
「昨日のことでしたよね……あなたに手がかりを頂いたのは」
なんだか急に時間がすごく速く経っていく気がする。
呟きながら有沢は、もう一度彼方へ視線を投げる。空を見ていたのではなく、右手に繋がれた点滴を見上げていたのだと気づいた。
ポトリ、ポトリ、ポトリ。
明るい日差しの中、一定間隔で刻まれる時間、じりじりと減っていく袋の中身。
「もうちょっと居たかったな、外界に」
軋るような声で唸る。
「倒れられたんですね」
「苦しいのはいつもだったから、見くびりました」
自嘲する声音だった。
「…檜垣は?」
「車を置いたらすぐに来るとおっしゃってましたが」
「…話は聞きましたか?」
「はい」
目線で促されて近くのパイプ椅子に座る。枕元にナースコール、触れるものかと言いたげに放り出されたボタンのオレンジもまた明るい。ベッドの上には緊急時に使うものか、二つの器械が取り付けられている。
「おそらく、真崎大輔には実刑判決が出ます」
明後日の方向を向いたまま、他人事のように有沢が言った。
「…はい」
「家族からの訴えもあって、DVに関しても情報が集められている。守秘義務はあるが…」
難しい顔で美並を振り向いた。用心深くことばを継ぐ。
「有る事無い事、かなり酷い事を話している、真崎京介さん、に関して」
「…」
有る事無い事。
もちろん、大輔のことだから、自分に都合よく事実を脚色し捻じ曲げているだろう。恵子からも情報は集められているだろうが、恵子もまた不利な事を隠し、正当化することだけを話しているだろう。
ただ、それだけではなく。
有沢の頭の中に、欲望のためだけに弟の体を蹂躙し続ける兄という存在はあり得るのだろうか。成長しても過去に捕まり囚われて、自分から体を差し出し続ける被害者は想像できるのだろうか。
有る事無い事、の中には、大輔恵子の嘘だけではなく、有沢の想像外と言うこともある。
「…伊吹さんはご存知ですか」
「…はい」
頷いた美並に有沢が目を見開いた。
「知っていても?」
「知ったことから、知り合ったんです」
「……そう…なのか…」
苦い笑みが広がった。
「そういう、繋がりなのか」
同情なのかと聞こえた。同情もまたあっただろう、けれど今はもう、背中を守るただ一人の人としか思いつかない。
「そういう繋がりです」
にっこり笑うと、有沢は大きく息を吐いた。
「…勝てないわけだ」
少し押し黙った後、
「檜垣は遅いですね」
身を震わせた有沢に立ち上がって窓を閉める。椅子に戻ろうとした時、微かに動いたドアに気づいた。檜垣は戻って来ているが、部屋に入らないつもりらしい。
ふと、何か懐かしいような、悲しいような気がして、美並は戸惑った。ベッドに寝ている有沢、落ちる点滴、閉めた窓、ドアの外に立つ人の気配。
「…過去から届いた褒美、ってなんですか?」
ドアを見たまま尋ねた。
「え?」
「来る途中、檜垣さんがそこまで話して止めました」
「あいつ……」
苦笑した有沢が座るよう促して、もう一度腰を下ろす。
「実は先日のホテルの近くにコンビニがあるんです」
有沢が話し出して注意を戻した。
「周囲には他に店がなく、ホテルを利用する人間もコンビニに入る。そして、コンビニにはカメラがあります」
「でも…5年以上前です、映像は」
確か一定期間ごとに上書きするように保存されると聞いたことがあるのだが。
「普通ならば」
有沢が目を細めて皮肉な笑みで振り向く。
「残っていないはずなんですが」
そのコンビニには残っていたんですよ。
「なぜですか」
「過去からの、褒美」
有沢が頷いた。
0
お気に入りに追加
79
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
【R-18】クリしつけ
蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。
性欲の強すぎるヤクザに捕まった話
古亜
恋愛
中堅企業の普通のOL、沢木梢(さわきこずえ)はある日突然現れたチンピラ3人に、兄貴と呼ばれる人物のもとへ拉致されてしまう。
どうやら商売女と間違えられたらしく、人違いだと主張するも、兄貴とか呼ばれた男は聞く耳を持たない。
「美味しいピザをすぐデリバリーできるのに、わざわざコンビニのピザ風の惣菜パンを食べる人います?」
「たまには惣菜パンも悪くねぇ」
……嘘でしょ。
2019/11/4 33話+2話で本編完結
2021/1/15 書籍出版されました
2021/1/22 続き頑張ります
半分くらいR18な話なので予告はしません。
強引な描写含むので苦手な方はブラウザバックしてください。だいたいタイトル通りな感じなので、少しでも思ってたのと違う、地雷と思ったら即回れ右でお願いします。
誤字脱字、文章わかりにくい等の指摘は有り難く受け取り修正しますが、思った通りじゃない生理的に無理といった内容については自衛に留め批判否定はご遠慮ください。泣きます。
当然の事ながら、この話はフィクションです。
【R18】淫乱メイドは今日も乱れる
ねんごろ
恋愛
ご主人様のお屋敷にお仕えするメイドの私は、乱れるしかない運命なのです。
毎日のように訪ねてくるご主人様のご友人は、私を……
※性的な表現が多分にあるのでご注意ください
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
【完結】殿下、自由にさせていただきます。
なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」
その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。
アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。
髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。
見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。
私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。
初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?
恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。
しかし、正騎士団は女人禁制。
故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。
晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。
身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。
そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。
これは、私の初恋が終わり。
僕として新たな人生を歩みだした話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる