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第4章
4.プシュカ(7)
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「あー、疲れた」
美並は深く溜め息をついて駅のホームにへたり込む。
「慣れないことはするもんじゃないって?」
ずっと避けてきた、人目につくこと、目立つこと、興味を引くこと、魅きつけること。
けれどあそこでは、出来る限り有沢を煽るしかなかった。
有沢が絶望しているのはわかる、残りの命を恨みと呪いで生きていかねないことも。
そのまま突っ込んでどろりとした傷みに潰されてしまうことが、どれほど簡単で快いのかも、よく知っている。
「簡単なんだ」
自分が一番辛いと思い込むことなんて。
「簡単なんだ」
誰もわかってくれないと天を仰いで嘆くなんて。
「でもそんな方法じゃ」
真崎は守れない。
孝は殺され、真崎は生きている、その差異が何だったのか、それを確かめたくて、それを確かめたくなくて、真崎は今必死にもがいている。
そしておそらくは、今死に向かいつつある有沢も。
自分が信じた太田の姿は真実なのか幻なのか、それを本当は確かめたくて、確かめたくなくてもがいている。
けれど今受けた傷は深すぎて、もう一度同じように傷つくと回復できそうにないから、人は進みたいという自分の願いから目を塞いで踞る、回復できる術がないならなおさら。
たぶん有沢は優しい男だ。
本当ならば人を裁くことも追い詰めることもよしとしない男。
その弱みを太田は見抜いていた。その弱さ、恋人を故郷に置き去ってこなくては自分の望みを全うできないような弱さが刑事には不向きであることも。
だからこそ構い、面倒を見、自分の支配下に置いていた。
だがその意図は何だろう?
有沢が不安がっているように、有沢を利用し『羽鳥』の仲間として警察の中で暗躍するためだったのか。有沢の好意と敬愛をただただ自分の野望のために踏みにじっていたのか。
もしそうだとしたら、なぜ太田は殺されなくてはならなかったのか。
裏切られたという衝撃に、有沢はその事実を忘れてしまっている。
太田の真意はもうわからない。そこで何があったのか、それも解明しきれないかもしれない。
だが、太田は殺されたのだ、誰かに。それは確かな事実、そしてそれは一つの結論を示している。
太田は生きているべきではない、そう考えた誰かがいるということだ。
もし有沢が刑事であるなら、刑事として自分の人生を全うすることを選ぶのなら、誰かの命をまるで物のように始末していいと考える、その発想にこそ抵抗するべきだ。
なぜなら、それは、有沢自身の命を始末することに繋がってしまうから。
「?」
ふ、と間近に立つ人の気配に気づいて視線を上げると、そこに有沢が立っていた。
「……」
無言で見下ろしてくる顔は依然表情がない。見開いた目も虚ろで生気がない。敵意も悪意も感じられないが、善意や好意もない、あらゆる類の意思が欠けてしまった顔だ。
電車が滑り込んできた。
ラッシュアワーは過ぎていて、吐き出される人の数はかなり減っているが、それでもホームのベンチで睨み合うように向かい合っている有沢と美並に物珍しそうな視線を向けて通っていく。電車の中から吐き出された熱が柔らかく美並の周囲を取り巻き、やがて人波と一緒に引いて消え去っていく。
ざわざわとホームから消えていく人々を見送っていると、改札口の外で不愉快そうな顔で腕を組みながら横目でこちらを見ている檜垣が見えた。
「……死にそうだ」
ぼそりと有沢が唸って視線を戻す。
「なぜあなたは、人の気持ちを引っ掻き回すんです」
もういいじゃないですか、私は死ぬんだから。
「もういいでしょう、ずいぶん頑張ってきたんだから」
このまま安らかに死なせてやって下さい。
声には既にあちらの世界に足を踏み入れているような危うさがある。
これからひどいことを言う。
それは十分わかっている。
緊張感に指先がなお冷たく凍える。
『みなみ……だめ……そんなキスされちゃうと止まらなくなる』
喘ぎながら抵抗する真崎の唇を思い出す。
繰り返し嬲る舌を必死に求めてきながら揺れている体を、押し付けてきていた熱を、冷えていたシャツの下の肌が緩やかに柔らかく潤む気配を。
『気持ち…いい』
訴えてくるようになったのはいつからだっただろう。はじめは触れてもどこかに怯えが混じっていて、快感に流される自分を怖がって、それでも堕ち込む体を憎むような切なさで声を上げていたのに、今伝えてくるのは美並の指や声や唇がどれほど欲しいかという渇望だけで。
『もっと……』
玄関先で抱き締め合ってキスを交わす、それだけのこと、それだけの愛撫にも真崎はまっすぐ一番高いところまで駆け上がろうとする。
このまま、ねえ、お願い、もっと僕を。
ことばにならない懇願が、今どれほど美並を励ましてくれるだろう。
美並はゆっくりと息を吐き、大きく吸った。
あの場所で京介が待っている。
美並の帰還を信じて。
ならば神経を研ぎすませて、一番最短で最大の効果を上げる道を選ぶ。一番早く京介の元に戻れる道を。
「ご自由に」
有沢が口をつぐんだ。
「あなたの人生です」
私がどうこうできるものじゃない。
「このまま安らかに死ねるものなら、どうぞ」
あなたを大切にして下さってるあの方に支えられて、残り時間を過ごして下さい。
美並は深く溜め息をついて駅のホームにへたり込む。
「慣れないことはするもんじゃないって?」
ずっと避けてきた、人目につくこと、目立つこと、興味を引くこと、魅きつけること。
けれどあそこでは、出来る限り有沢を煽るしかなかった。
有沢が絶望しているのはわかる、残りの命を恨みと呪いで生きていかねないことも。
そのまま突っ込んでどろりとした傷みに潰されてしまうことが、どれほど簡単で快いのかも、よく知っている。
「簡単なんだ」
自分が一番辛いと思い込むことなんて。
「簡単なんだ」
誰もわかってくれないと天を仰いで嘆くなんて。
「でもそんな方法じゃ」
真崎は守れない。
孝は殺され、真崎は生きている、その差異が何だったのか、それを確かめたくて、それを確かめたくなくて、真崎は今必死にもがいている。
そしておそらくは、今死に向かいつつある有沢も。
自分が信じた太田の姿は真実なのか幻なのか、それを本当は確かめたくて、確かめたくなくてもがいている。
けれど今受けた傷は深すぎて、もう一度同じように傷つくと回復できそうにないから、人は進みたいという自分の願いから目を塞いで踞る、回復できる術がないならなおさら。
たぶん有沢は優しい男だ。
本当ならば人を裁くことも追い詰めることもよしとしない男。
その弱みを太田は見抜いていた。その弱さ、恋人を故郷に置き去ってこなくては自分の望みを全うできないような弱さが刑事には不向きであることも。
だからこそ構い、面倒を見、自分の支配下に置いていた。
だがその意図は何だろう?
有沢が不安がっているように、有沢を利用し『羽鳥』の仲間として警察の中で暗躍するためだったのか。有沢の好意と敬愛をただただ自分の野望のために踏みにじっていたのか。
もしそうだとしたら、なぜ太田は殺されなくてはならなかったのか。
裏切られたという衝撃に、有沢はその事実を忘れてしまっている。
太田の真意はもうわからない。そこで何があったのか、それも解明しきれないかもしれない。
だが、太田は殺されたのだ、誰かに。それは確かな事実、そしてそれは一つの結論を示している。
太田は生きているべきではない、そう考えた誰かがいるということだ。
もし有沢が刑事であるなら、刑事として自分の人生を全うすることを選ぶのなら、誰かの命をまるで物のように始末していいと考える、その発想にこそ抵抗するべきだ。
なぜなら、それは、有沢自身の命を始末することに繋がってしまうから。
「?」
ふ、と間近に立つ人の気配に気づいて視線を上げると、そこに有沢が立っていた。
「……」
無言で見下ろしてくる顔は依然表情がない。見開いた目も虚ろで生気がない。敵意も悪意も感じられないが、善意や好意もない、あらゆる類の意思が欠けてしまった顔だ。
電車が滑り込んできた。
ラッシュアワーは過ぎていて、吐き出される人の数はかなり減っているが、それでもホームのベンチで睨み合うように向かい合っている有沢と美並に物珍しそうな視線を向けて通っていく。電車の中から吐き出された熱が柔らかく美並の周囲を取り巻き、やがて人波と一緒に引いて消え去っていく。
ざわざわとホームから消えていく人々を見送っていると、改札口の外で不愉快そうな顔で腕を組みながら横目でこちらを見ている檜垣が見えた。
「……死にそうだ」
ぼそりと有沢が唸って視線を戻す。
「なぜあなたは、人の気持ちを引っ掻き回すんです」
もういいじゃないですか、私は死ぬんだから。
「もういいでしょう、ずいぶん頑張ってきたんだから」
このまま安らかに死なせてやって下さい。
声には既にあちらの世界に足を踏み入れているような危うさがある。
これからひどいことを言う。
それは十分わかっている。
緊張感に指先がなお冷たく凍える。
『みなみ……だめ……そんなキスされちゃうと止まらなくなる』
喘ぎながら抵抗する真崎の唇を思い出す。
繰り返し嬲る舌を必死に求めてきながら揺れている体を、押し付けてきていた熱を、冷えていたシャツの下の肌が緩やかに柔らかく潤む気配を。
『気持ち…いい』
訴えてくるようになったのはいつからだっただろう。はじめは触れてもどこかに怯えが混じっていて、快感に流される自分を怖がって、それでも堕ち込む体を憎むような切なさで声を上げていたのに、今伝えてくるのは美並の指や声や唇がどれほど欲しいかという渇望だけで。
『もっと……』
玄関先で抱き締め合ってキスを交わす、それだけのこと、それだけの愛撫にも真崎はまっすぐ一番高いところまで駆け上がろうとする。
このまま、ねえ、お願い、もっと僕を。
ことばにならない懇願が、今どれほど美並を励ましてくれるだろう。
美並はゆっくりと息を吐き、大きく吸った。
あの場所で京介が待っている。
美並の帰還を信じて。
ならば神経を研ぎすませて、一番最短で最大の効果を上げる道を選ぶ。一番早く京介の元に戻れる道を。
「ご自由に」
有沢が口をつぐんだ。
「あなたの人生です」
私がどうこうできるものじゃない。
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