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第4章
4.プシュカ(5)
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その日、仕事を手早く済ませて、美並は真崎が課室に戻ってこないうちに会社を出た。
今朝の甘いキスの後のやりとりを思い出すだけで、胸の中に強くて温かな光が灯る。その光をしっかり抱えて、向かったのは向田署だった。
相変わらず目の前でぴしゃりと扉を閉ざすような威圧感、もちろんまっすぐ入った表の受付に座った女性はにこやかに笑みを浮かべている。
「何か御用でしょうか」
明るく親しみやすい警察、皆様のお力になります、そう言いたげににっこり美並を見上げて微笑んだが、
「有沢さんはおいででしょうか」
用件を切り出すと微かに目元をひきつらせた。
「お約束されてますか?」
「いえ、でも、ご存知だと思います。伊吹美並と申します」
自分の所属する場所を名乗らないのは女性特有の癖と聞いたことがある。男性ならばまず自分の所属を明らかにして相手の対応を促す、しかし女性は社会の中で「女性」でしかないからだ、そういう説もあるらしい。
所属する場所がないのは後ろ盾がないこと、社会の中に居場所がないこと、確かにそう言えるかもしれないが、逆手にとればしがらみがないということでもある。その緩やかな場所を美並は最大限に活用するつもりだ。
「伊吹、美並さま、ですね」
事件の関係者かそれともプライベートな知り合いか。
もっと詳しく相手について聞くべきだろうかと好奇心が相手の瞳に動いたが、
「そちらでお待ち下さい」
相手は微笑を浮かべ直してソファを示し、内線を取り上げた。頷いてソファに下がる美並を視界の端で丁寧に観察しつつ、有沢警部補をお願いします、と先方に告げる。
まもなく、重苦しい足音が背後からゆっくりと階段を下りてくるのがわかった。
ごと、ごと、ごと、ごと。
先日の苦しげではあるが覇気のある動きとは全く違う。腹の痛みは腰にも響いているのだろうか、わずかに左右のリズムと重さに差があった。引きずっているのは左足、くじけて倒れそうな気持ちを現実の仕事で紛らわせているということか。
「……何の用です」
ぼそりと唸った声に美並は立ち上がり振り返る。
背後で受付の警官が興味津々で耳をそばだてているのに気づいたのだろう、有沢がうっとうしそうに顔を歪めて、出ますか、とのろのろと顎で外を指し示した。
「いいえ」
美並は首を振って、有沢の側へ歩み寄った。
「時間がありません」
「はあ、そうですか、で、ここで何を?」
有沢はうんざりした顔で顎を上げる。
「見せてくださいますか?」
「え?」
「先日見せて下さるとおっしゃったものを」
「………必要ないでしょう」
有沢は眉を寄せた。
「もうよくわかったことですし」
「何がですか」
「何もかも。あなたが暴いたんでしょう」
吐き捨てるような声音に美並は一瞬目を閉じた。
思い出したのは今朝の真崎との会話。
『きゅうりとトマト切ろうか?』
きゅうりとトマト。
真崎はちゃんとした朝食を食べない。
きゅうりとトマトどころか、トーストもろくに食べない時もあるのに、準備されていたのはスープ、目玉焼き、トーストとコーヒー、それにきゅうりとトマト。冷蔵庫の中にはベーコンブロックとレタス、加えてマヨネーズと種類の違うドレッシング。
一緒にはいないはずの朝に、美並と食べることを思い描いて買い整えられた朝食。
その全てが語ってくれる、真崎が美並の存在を待ち望んでいてくれること。
だから、こんな罵倒に怯んでいる暇はない。
今朝の甘いキスの後のやりとりを思い出すだけで、胸の中に強くて温かな光が灯る。その光をしっかり抱えて、向かったのは向田署だった。
相変わらず目の前でぴしゃりと扉を閉ざすような威圧感、もちろんまっすぐ入った表の受付に座った女性はにこやかに笑みを浮かべている。
「何か御用でしょうか」
明るく親しみやすい警察、皆様のお力になります、そう言いたげににっこり美並を見上げて微笑んだが、
「有沢さんはおいででしょうか」
用件を切り出すと微かに目元をひきつらせた。
「お約束されてますか?」
「いえ、でも、ご存知だと思います。伊吹美並と申します」
自分の所属する場所を名乗らないのは女性特有の癖と聞いたことがある。男性ならばまず自分の所属を明らかにして相手の対応を促す、しかし女性は社会の中で「女性」でしかないからだ、そういう説もあるらしい。
所属する場所がないのは後ろ盾がないこと、社会の中に居場所がないこと、確かにそう言えるかもしれないが、逆手にとればしがらみがないということでもある。その緩やかな場所を美並は最大限に活用するつもりだ。
「伊吹、美並さま、ですね」
事件の関係者かそれともプライベートな知り合いか。
もっと詳しく相手について聞くべきだろうかと好奇心が相手の瞳に動いたが、
「そちらでお待ち下さい」
相手は微笑を浮かべ直してソファを示し、内線を取り上げた。頷いてソファに下がる美並を視界の端で丁寧に観察しつつ、有沢警部補をお願いします、と先方に告げる。
まもなく、重苦しい足音が背後からゆっくりと階段を下りてくるのがわかった。
ごと、ごと、ごと、ごと。
先日の苦しげではあるが覇気のある動きとは全く違う。腹の痛みは腰にも響いているのだろうか、わずかに左右のリズムと重さに差があった。引きずっているのは左足、くじけて倒れそうな気持ちを現実の仕事で紛らわせているということか。
「……何の用です」
ぼそりと唸った声に美並は立ち上がり振り返る。
背後で受付の警官が興味津々で耳をそばだてているのに気づいたのだろう、有沢がうっとうしそうに顔を歪めて、出ますか、とのろのろと顎で外を指し示した。
「いいえ」
美並は首を振って、有沢の側へ歩み寄った。
「時間がありません」
「はあ、そうですか、で、ここで何を?」
有沢はうんざりした顔で顎を上げる。
「見せてくださいますか?」
「え?」
「先日見せて下さるとおっしゃったものを」
「………必要ないでしょう」
有沢は眉を寄せた。
「もうよくわかったことですし」
「何がですか」
「何もかも。あなたが暴いたんでしょう」
吐き捨てるような声音に美並は一瞬目を閉じた。
思い出したのは今朝の真崎との会話。
『きゅうりとトマト切ろうか?』
きゅうりとトマト。
真崎はちゃんとした朝食を食べない。
きゅうりとトマトどころか、トーストもろくに食べない時もあるのに、準備されていたのはスープ、目玉焼き、トーストとコーヒー、それにきゅうりとトマト。冷蔵庫の中にはベーコンブロックとレタス、加えてマヨネーズと種類の違うドレッシング。
一緒にはいないはずの朝に、美並と食べることを思い描いて買い整えられた朝食。
その全てが語ってくれる、真崎が美並の存在を待ち望んでいてくれること。
だから、こんな罵倒に怯んでいる暇はない。
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