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第4章
3.二人と三人(4)
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姫野の周囲には今何も漂ってはいない。重いを隠す鈍色の靄も、真実を侵す黒い影も。その柔らかく細められた瞳にはただただ善意と好意に満ちた光が溢れるだけだ。
「警察のためには、必要とされている情報を」
たとえば追い詰めてはいるけれど、どうしても身元が特定できない方に近づいて、個人的なものを頂くとか。
「手先はまだまだ器用ですのよ」
「太田さんには?」
「……ポタージュスープを下さいな」
美並の問いに姫野は静かに有沢を促した。
まるで操り人形のようにふらふらと有沢がコインを放り込み、ボタンを押す。がこんと落ちたそれを手渡しながら、夢うつつのような声で、熱いですよ、と呟いた。
「あら……コーンポタージュスープ」
「え?」
姫野の声に戸惑って有沢が視線を落とす。白くて綺麗な指先に支えられたそれを茫然と見る有沢は、まるで違う世界に居るように見える。
「中身が違うんですね」
美並は指摘した。
「太田さんに伝えていたのは、有沢さんと警察の動きですか?」
「……」
のろのろと有沢が美並を見るのに続ける。
「太田さんは有沢さんの動きを警戒していた。単に無謀なことを仕掛ける部下への心配ではなく、自分の地位や立場を崩れさせかねない危険な同僚として?」
『俺の手の中に入る範囲にしとけよ』
太田がかつて有沢に向けたそのことばは、有沢の無事を祈るものではなかった。
「いや、それなら、おかしいでしょう」
有沢がぼんやりと首を振る。
「だって、あのとき、俺を署に呼び戻したのはあなたじゃないですか……あなたが俺になら話せることがある、俺になら全てを話すとだだをこねて、俺を呼ばなくちゃ人権侵害だと控訴すると…」
だから太田さんは一人であいつらを追って。
「………追って、いない…?」
有沢の表情が凍りつく。
「太田さんが俺を署に戻して、自分が後を追う、と言ったのは」
まさか。
「……見かけた顔がいる、そう言ったのでしょう?」
姫野は薄く笑った。
「嘘をつけない人なんですよ、本当に、昔からずっと」
酷薄に響くその声に美並は目を細める。
「お酒が呑めたんですね、太田さんは?」
「……ええ」
「酔ったふりをして、有沢さんや周囲を騙していた?」
「……ええ」
「その酔ったふり、も見抜かれることを考えていた?」
「ええ」
人は明るくてお調子者で誠実な男には優しくて甘いですからね。
「……逃がした、のか」
有沢が歯を食いしばりながら呻いた。
「あのとき、あそこにはやつが居たんだ、だから逃がしたんだ…っ」
「突然連絡が入って驚きましたわ。急に相手を選んで仕事をしろと言われてもねえ。しかも捕まらなくちゃならない。大きなリスクですのよ、けれど」
こちらにもいろいろと事情があって、お金は必要でしたしねえ。
姫野はコーンポタージュスープを開けて、ゆっくりと飲んだ。
「意外に頂けますわね」
「……なぜ今更そんなことを話そうと思ったんです?」
美並の声に姫野は少し目を伏せる。
「……お話ししましたでしょう、男と女ではなくても、お互いに居心地のいい関係というのはありますわ」
なのに奪われてしまった、それは事実。
あのとき、有沢が余計な相手を追わなければ、姫野は今も太田と静かなつながりを保っていたはずだ。
「ご自分一人悲劇を背負っていらっしゃるように見えましたのよ」
さきほどの刑事さんのお口は軽くていらっしゃる。
「何度も捕まっても万引きを止めない愚かな老人に、何をする力もないとお考えなのね」
一人暮らしで寂しいんだろう、誰かに構ってほしいんだろうなんて、本当に余計なお世話ですわ。
「いずれ私もあちらへ参りますし、そうなれば太田さんもいらっしゃるから寂しいはずもございませんけど」
あなたが生きている三ヶ月。
「太田太田と騒がれるのも目障りでしたの」
つい、と最後の一口を飲み干し、姫野はポケットから小さなハンカチを出して口元を押さえた。
「おいしゅうございました、ごちそうさま」
去っていく姫野は自販機前で立ちすくむ有沢を振り返りもしない。毅然とした後ろ姿は眩しいほどの誇りに満ちて、女王のようだ。
「……大きな家に住んでいても」
掠れた声で有沢が俯いたまま呟いた。
「一人は寂しいもんですよって、話してくれて、ました、姫野さん」
「……」
「寒い夜に張り込みしてると、冷えるだろっていつも熱いコーヒーを買ってきてくれたんですよ、太田さん」
今思えば、コーヒーを買うには少し時間がかかった時もありましたね。
「は…はは」
見張ってたのは、俺だったのか。
渇いた笑い声に後、有沢はぐっと深く頭を下げた。
「俺は……」
その後に続くことばを美並は察することができた。
「こんなことを……知りたかったんじゃない……っっ」
「警察のためには、必要とされている情報を」
たとえば追い詰めてはいるけれど、どうしても身元が特定できない方に近づいて、個人的なものを頂くとか。
「手先はまだまだ器用ですのよ」
「太田さんには?」
「……ポタージュスープを下さいな」
美並の問いに姫野は静かに有沢を促した。
まるで操り人形のようにふらふらと有沢がコインを放り込み、ボタンを押す。がこんと落ちたそれを手渡しながら、夢うつつのような声で、熱いですよ、と呟いた。
「あら……コーンポタージュスープ」
「え?」
姫野の声に戸惑って有沢が視線を落とす。白くて綺麗な指先に支えられたそれを茫然と見る有沢は、まるで違う世界に居るように見える。
「中身が違うんですね」
美並は指摘した。
「太田さんに伝えていたのは、有沢さんと警察の動きですか?」
「……」
のろのろと有沢が美並を見るのに続ける。
「太田さんは有沢さんの動きを警戒していた。単に無謀なことを仕掛ける部下への心配ではなく、自分の地位や立場を崩れさせかねない危険な同僚として?」
『俺の手の中に入る範囲にしとけよ』
太田がかつて有沢に向けたそのことばは、有沢の無事を祈るものではなかった。
「いや、それなら、おかしいでしょう」
有沢がぼんやりと首を振る。
「だって、あのとき、俺を署に呼び戻したのはあなたじゃないですか……あなたが俺になら話せることがある、俺になら全てを話すとだだをこねて、俺を呼ばなくちゃ人権侵害だと控訴すると…」
だから太田さんは一人であいつらを追って。
「………追って、いない…?」
有沢の表情が凍りつく。
「太田さんが俺を署に戻して、自分が後を追う、と言ったのは」
まさか。
「……見かけた顔がいる、そう言ったのでしょう?」
姫野は薄く笑った。
「嘘をつけない人なんですよ、本当に、昔からずっと」
酷薄に響くその声に美並は目を細める。
「お酒が呑めたんですね、太田さんは?」
「……ええ」
「酔ったふりをして、有沢さんや周囲を騙していた?」
「……ええ」
「その酔ったふり、も見抜かれることを考えていた?」
「ええ」
人は明るくてお調子者で誠実な男には優しくて甘いですからね。
「……逃がした、のか」
有沢が歯を食いしばりながら呻いた。
「あのとき、あそこにはやつが居たんだ、だから逃がしたんだ…っ」
「突然連絡が入って驚きましたわ。急に相手を選んで仕事をしろと言われてもねえ。しかも捕まらなくちゃならない。大きなリスクですのよ、けれど」
こちらにもいろいろと事情があって、お金は必要でしたしねえ。
姫野はコーンポタージュスープを開けて、ゆっくりと飲んだ。
「意外に頂けますわね」
「……なぜ今更そんなことを話そうと思ったんです?」
美並の声に姫野は少し目を伏せる。
「……お話ししましたでしょう、男と女ではなくても、お互いに居心地のいい関係というのはありますわ」
なのに奪われてしまった、それは事実。
あのとき、有沢が余計な相手を追わなければ、姫野は今も太田と静かなつながりを保っていたはずだ。
「ご自分一人悲劇を背負っていらっしゃるように見えましたのよ」
さきほどの刑事さんのお口は軽くていらっしゃる。
「何度も捕まっても万引きを止めない愚かな老人に、何をする力もないとお考えなのね」
一人暮らしで寂しいんだろう、誰かに構ってほしいんだろうなんて、本当に余計なお世話ですわ。
「いずれ私もあちらへ参りますし、そうなれば太田さんもいらっしゃるから寂しいはずもございませんけど」
あなたが生きている三ヶ月。
「太田太田と騒がれるのも目障りでしたの」
つい、と最後の一口を飲み干し、姫野はポケットから小さなハンカチを出して口元を押さえた。
「おいしゅうございました、ごちそうさま」
去っていく姫野は自販機前で立ちすくむ有沢を振り返りもしない。毅然とした後ろ姿は眩しいほどの誇りに満ちて、女王のようだ。
「……大きな家に住んでいても」
掠れた声で有沢が俯いたまま呟いた。
「一人は寂しいもんですよって、話してくれて、ました、姫野さん」
「……」
「寒い夜に張り込みしてると、冷えるだろっていつも熱いコーヒーを買ってきてくれたんですよ、太田さん」
今思えば、コーヒーを買うには少し時間がかかった時もありましたね。
「は…はは」
見張ってたのは、俺だったのか。
渇いた笑い声に後、有沢はぐっと深く頭を下げた。
「俺は……」
その後に続くことばを美並は察することができた。
「こんなことを……知りたかったんじゃない……っっ」
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