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第4章
1.一人と二人(1)
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「あ~気持ちよかった」
熱いシャワーを浴びて、上半身にバスタオルを羽織って頭をごしごしやりながら、京介は居間に戻ってきて違和感に立ち止まる。
「あれ?」
伊吹さん、いないや。
きょとんとした次の一瞬、
「あ…そっか」
そうだったそうだったと苦笑しながらキッチンに向かった。
伊吹の実家から戻ったのはもうかなり夜遅くて、このまま京介のところに行っちゃうと明日の朝起きられそうにないですから、今夜は自分の部屋に戻りますね、そう言われて送って行ったのだ。
「だから今夜は美並はいない」
独り呟いて、ふいに静まり返った空間に思わず振り向く。
居間のソファから伊吹が顔を上げてくれたんじゃないか。
京介の独り言に、どうしたの、寂しいの、と聞いてくれたんじゃないか。
「……僕って馬鹿?」
誰も座っていないソファに尋ねてみる。
そうですね。
ひどいよ、伊吹さん。
頭の中に聞こえた声に小さく反論する。
「仮にも婚約した相手でしょ?」
思い出したのは帰りに寄った宝飾店。
『MURANO』の響子が、ここなら安心できますし、いい品物を揃えてますよと薦めてくれた店は、数は少なかったけれどどれも魅力的なものばかりで、伊吹と二人してしばらく無言で輝く石達に見愡れていた。
『伊吹さんの誕生石はアメジストだよね』
確認すると、なぜそれをと言いたげな顔できょとんとするのが可愛くて、伊吹さんを雇うと決めたのは僕なんだよ、忘れたの、履歴書にちゃんと目を通してるんだから、と思わずこめかみにキスしてしまった。
『っ、京介…っ』
それって職権乱用とか、個人情報の悪用って言うんですよ、と言い返されたから、悪用じゃないよ、情熱が常識の垣根を越えちゃったとか言って欲しいな、と笑うと、側に居た店員が硬直してしまったけれど。
「ほんとのことだよね?」
コーヒーを淹れながら京介の独り言は続く。
「よく似合ってたな~可愛かったな~」
アメジストと小粒のダイヤモンド数個を波打つようなプラチナ台にあしらった婚約指輪は、伊吹の指を守るよう絡みつくようにジャストサイズ、店員もまるで御用意させて頂いていたようですね、と驚いていた。
「守ってね、僕の指輪」
伊吹が他の男に目移りしないように。
他の男が伊吹の視界に留まらないように。
そして、京介との繋がりを強めて固めてくれるように。
伊吹がきちんと京介の側に嫁いできてくれるまで。
「嫁いできてくれてからも、か」
願いを込めて、別れ際に唇と指と指輪にキスして、薄赤くなった伊吹が、よくそんな気障なことできますね、と言われたから、似合わない、と問い返した。
『似合わないならやめる』
僕、伊吹さんには一番いい男だと思って欲しいし。
『ねえ、似合わない?』
『似合い、ます』
『そう』
嬉しくて、えへへ、と笑ったら、複雑な顔になった伊吹が背伸びしてキスを返してくれて、そのまましばらく抱き合って。
「………美並」
コーヒーを二つ、準備する。
そのままテーブルに運んで、いつも伊吹が座る場所に置き、隣に座って中身を含む。
「……にが」
いつもの手順、いつもの量、なのに香ばしく薫るはずの液体はいがらく舌と喉を刺し、ぺろっと舌先を突き出して空気に当てた。
いつもなら見咎めた伊吹が火傷した、とか聞いてくれて、うんと京介が頷いて、それからここだよ、舐めて、とねだって、舌から触れ合ってキスを始めるのに。
「ん……」
ひらひら。
ひらひら。
舐めてくれる人はいないけど、京介は虚しく舌を揺らす。
「………もう…寝よ」
コーヒーもおいしくない。部屋も寒い。落ち着かなくてじっとしていられない。
「なんで?」
今までだって伊吹は週末にしか来なかった。泊まっていくのも土日だけ。めったに月曜までは居たことがない。平日は一緒に帰ってどこかで食事して、駅とか伊吹のマンション前で別れて、お互い夜は別々に過ごしていたのに、どうして今夜はこれほど一人が辛いんだろう。
歯ブラシを銜えたまま不快そうに眉を顰めた男が鏡の中から見返してくる。右手を動かしながら、ふと気になって左手で部屋着の襟を押し下げると、今にも消えそうに薄くなった跡がある。
「……」
それを確認したとたん、またいいようのない不安に襲われて、京介は慌てて襟を戻し、口をゆすいで寝室に入った。ベッドの上にはいつか伊吹に抱き締めさせたくまが居る。眼鏡を外し、布団に潜り込み、残っていた伊吹の匂いに少しほっとして、くまの側に擦り寄った。
みっともないな。
なんでこんなに不安になっちゃうんだろう。
ただ伊吹さんが居ないだけで。
もし万が一、伊吹が他の男になびいてしまって、これから先ずっと一人で夜を過ごすとしたら。
「っ」
ごくん、と唾を呑んで京介は目を見開いた。
テーブルの上に残された、伊吹のためのコーヒーカップ。
淹れなきゃよかった。
唇を噛んで無理矢理目を閉じる。
居ないんだと思い知らされる、京介の側に伊吹がいないと。
寝返りを打ちつつしばらく我慢して数十分。
「……」
のそりと京介は起き上がった。ベッドから滑り降り、寝室を出て居間の片隅のデスクに座り、書類を開き、パソコンを立ち上げる。『ニット・キャンパス』の計画、日程などのファイルを次々開けていく。
「……高崎にこっちを頼むとして…」
慌ただしくキーボードを叩きながら、京介は目の前の仕事に没頭した。
熱いシャワーを浴びて、上半身にバスタオルを羽織って頭をごしごしやりながら、京介は居間に戻ってきて違和感に立ち止まる。
「あれ?」
伊吹さん、いないや。
きょとんとした次の一瞬、
「あ…そっか」
そうだったそうだったと苦笑しながらキッチンに向かった。
伊吹の実家から戻ったのはもうかなり夜遅くて、このまま京介のところに行っちゃうと明日の朝起きられそうにないですから、今夜は自分の部屋に戻りますね、そう言われて送って行ったのだ。
「だから今夜は美並はいない」
独り呟いて、ふいに静まり返った空間に思わず振り向く。
居間のソファから伊吹が顔を上げてくれたんじゃないか。
京介の独り言に、どうしたの、寂しいの、と聞いてくれたんじゃないか。
「……僕って馬鹿?」
誰も座っていないソファに尋ねてみる。
そうですね。
ひどいよ、伊吹さん。
頭の中に聞こえた声に小さく反論する。
「仮にも婚約した相手でしょ?」
思い出したのは帰りに寄った宝飾店。
『MURANO』の響子が、ここなら安心できますし、いい品物を揃えてますよと薦めてくれた店は、数は少なかったけれどどれも魅力的なものばかりで、伊吹と二人してしばらく無言で輝く石達に見愡れていた。
『伊吹さんの誕生石はアメジストだよね』
確認すると、なぜそれをと言いたげな顔できょとんとするのが可愛くて、伊吹さんを雇うと決めたのは僕なんだよ、忘れたの、履歴書にちゃんと目を通してるんだから、と思わずこめかみにキスしてしまった。
『っ、京介…っ』
それって職権乱用とか、個人情報の悪用って言うんですよ、と言い返されたから、悪用じゃないよ、情熱が常識の垣根を越えちゃったとか言って欲しいな、と笑うと、側に居た店員が硬直してしまったけれど。
「ほんとのことだよね?」
コーヒーを淹れながら京介の独り言は続く。
「よく似合ってたな~可愛かったな~」
アメジストと小粒のダイヤモンド数個を波打つようなプラチナ台にあしらった婚約指輪は、伊吹の指を守るよう絡みつくようにジャストサイズ、店員もまるで御用意させて頂いていたようですね、と驚いていた。
「守ってね、僕の指輪」
伊吹が他の男に目移りしないように。
他の男が伊吹の視界に留まらないように。
そして、京介との繋がりを強めて固めてくれるように。
伊吹がきちんと京介の側に嫁いできてくれるまで。
「嫁いできてくれてからも、か」
願いを込めて、別れ際に唇と指と指輪にキスして、薄赤くなった伊吹が、よくそんな気障なことできますね、と言われたから、似合わない、と問い返した。
『似合わないならやめる』
僕、伊吹さんには一番いい男だと思って欲しいし。
『ねえ、似合わない?』
『似合い、ます』
『そう』
嬉しくて、えへへ、と笑ったら、複雑な顔になった伊吹が背伸びしてキスを返してくれて、そのまましばらく抱き合って。
「………美並」
コーヒーを二つ、準備する。
そのままテーブルに運んで、いつも伊吹が座る場所に置き、隣に座って中身を含む。
「……にが」
いつもの手順、いつもの量、なのに香ばしく薫るはずの液体はいがらく舌と喉を刺し、ぺろっと舌先を突き出して空気に当てた。
いつもなら見咎めた伊吹が火傷した、とか聞いてくれて、うんと京介が頷いて、それからここだよ、舐めて、とねだって、舌から触れ合ってキスを始めるのに。
「ん……」
ひらひら。
ひらひら。
舐めてくれる人はいないけど、京介は虚しく舌を揺らす。
「………もう…寝よ」
コーヒーもおいしくない。部屋も寒い。落ち着かなくてじっとしていられない。
「なんで?」
今までだって伊吹は週末にしか来なかった。泊まっていくのも土日だけ。めったに月曜までは居たことがない。平日は一緒に帰ってどこかで食事して、駅とか伊吹のマンション前で別れて、お互い夜は別々に過ごしていたのに、どうして今夜はこれほど一人が辛いんだろう。
歯ブラシを銜えたまま不快そうに眉を顰めた男が鏡の中から見返してくる。右手を動かしながら、ふと気になって左手で部屋着の襟を押し下げると、今にも消えそうに薄くなった跡がある。
「……」
それを確認したとたん、またいいようのない不安に襲われて、京介は慌てて襟を戻し、口をゆすいで寝室に入った。ベッドの上にはいつか伊吹に抱き締めさせたくまが居る。眼鏡を外し、布団に潜り込み、残っていた伊吹の匂いに少しほっとして、くまの側に擦り寄った。
みっともないな。
なんでこんなに不安になっちゃうんだろう。
ただ伊吹さんが居ないだけで。
もし万が一、伊吹が他の男になびいてしまって、これから先ずっと一人で夜を過ごすとしたら。
「っ」
ごくん、と唾を呑んで京介は目を見開いた。
テーブルの上に残された、伊吹のためのコーヒーカップ。
淹れなきゃよかった。
唇を噛んで無理矢理目を閉じる。
居ないんだと思い知らされる、京介の側に伊吹がいないと。
寝返りを打ちつつしばらく我慢して数十分。
「……」
のそりと京介は起き上がった。ベッドから滑り降り、寝室を出て居間の片隅のデスクに座り、書類を開き、パソコンを立ち上げる。『ニット・キャンパス』の計画、日程などのファイルを次々開けていく。
「……高崎にこっちを頼むとして…」
慌ただしくキーボードを叩きながら、京介は目の前の仕事に没頭した。
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