『闇を闇から』

segakiyui

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第3章

10.ドローゲーム(8)

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「お待たせしました」
 響子がコーヒーを運んできてくれて、もう買い物はしないんです、と言いにくくなったなと思いつつ、京介は礼を言ってカップを取り上げた。
「他のお客さまが来られるまで、御一緒していいでしょうか」
「ああ、どうぞ」
 珍しく響子が言い出したのに頷くと、相手はするりと正面に座りカップを手にする。
「さっき、何を考えてたの?」
「え…?」
「僕がここへ入ってきたとき」
「ああ……」
 響子は苦笑した。
「ちょっと思いもかけない人から思いもしなかったことを聞かされたので」
「不愉快なこと?」
「……」
 響子は軽く首を振った。
 耳元の銀のピアスが光を跳ねる。
「ずっと長い間常連客で居て下さった方、とても御世話になっている方から、プロポーズされました」
「え」
 その穏やかな物言いが伊吹と重なってぎくりとした。
「プロポーズ…」
「私もそれほど若くない、と一旦はお断りしたんですが」
 別に恋をしたいわけじゃない、と言われて。
「…………愛を育みたいんだ、と続けられて」
 なんだか京介も茫然としてしまった。
 そこまできちんと立場をわかった男から求められて、揺らがない女性が何人居るだろう。
「結婚して欲しいと言ってるんじゃない、一緒に暮らして欲しいんだと」
 周囲がうるさいから、籍は入れるが名前は変えなくていい、今まで通り店を続けていい、ただし、夜は自分の家に戻ってきてくれ、店が休みの時には一緒に過ごせればいい、と。
 渡来が言いそうだ、と思った。
 伊吹のしたいことを渡来は邪魔することはないだろう。伊吹が疲れたときには黙って受け入れてやるだろう。
 渡来の話すこと、関わる世界の新鮮さはきっと伊吹にとっても魅力的だろう。何より、その場所を侵してくる者はいないのだ、京介の側よりもうんと楽に生きられるだろう。
「……響子さんは」
 渇いた喉にそっとコーヒーを呑み込んだ。
「どうするの?」
「………」
 響子は沈黙したままカップを抱えている。
 迷っている。
 村野との別れにあれほどきっぱりと結論を出した女性が、このプロポーズに迷っている。
 伊吹もそうだろうか。
 デートで渡来の若々しい感性とか、柔軟な思考とか、豊かな感情表現とかに魅了されて迷うだろうか、京介と渡来のどちらがいいか、と。
「迷っていますね」
 響子は低く呟いた。
「プロポーズを受けることに、というより、信頼に」
「信頼?」
「……村野は……少なくとも命を粗末にするような人には思えなかった」
 柔らかな声で響子は続けた。
「料理にしても、他のことにしても、命がどれほど大事なものか、わかっているように思っていました。……けれど、そうじゃなかった」
 響子はこくり、とコーヒーを呑んだ。
「私のために切り捨てた? いえ……違うと思います。それは単に比重、ということでしょう?」
「……」
「たまたま、その時、私の方が彼女より重かっただけ。彼女の中の命より、と言った方がいいかしら。それが私達が重ねてきた時間の重さだったというなら、どれぐらい足りなかったら私は見捨てられたのかしら、そう思ってしまうと」
 人を信じること、自分の眼がとても信じられなくなってしまって。
「今見えているこの人は、私の思っている通りの人なのか、そう思うたびに村野が過るんです」
「……」
 京介はカップを取り上げた。
 静かに含むコーヒーが胸に焼けるように苦い。
 村野が話した同じ出来事は、ドラマチックで言い変えればロマンチックだ。村野は自分がミスをしたせいで響子の信頼を失った、ただそれが全ての源だと思っている。
 だが、今聞いた響子の話は、もっと深くて根本的なところが違う。
 村野がしたことは響子の『村野への信頼』を傷つけるものだけではなく、響子の『自分への信頼』も傷つけるものだったのだとわかる。
 村野はそれにおそらく気付いていない。
 なぜなら、村野は同じ出来事を経験しても『自分への信頼』を傷つけてはいないからだ。
 それはきっと、村野が今でも響子を愛しているからで。
 けれど響子は村野をもう愛していない自分に気付いているからで。
「響子さん……迷ってなんか、いないんでしょう?」
「え…?」
「もう村野さんのところに戻ることはないんでしょう?」
「それは……ありえませんね」
「一人で居るなら迷うことなんかない。これまでと同じ……でも、今響子さんは迷ってる」
 それって、その人と一緒に暮らしたい、そう思ってるってことじゃないの?
「一緒に暮らしたいけれど、また傷つくのが怖いから」
 村野さんを思い出してるんじゃないの?
「……」
 響子がはっとしたように京介を見返した。
 まっすぐな視線に、やっぱり村野と別れた、そう伝えてきた日のことを思い出した。
 そして同時に、そこにまた、伊吹も重なって見えた。
「うん……そうだよ、きっと」
 伊吹はいつもまっすぐに京介にぶつかってくれた。
 怯んで竦んで動けなくなる京介に、いつも伊吹が動いてくれた。
 それは男としては情けないことかもしれないけれど、でもきっと、もし渡来にどうしようもなく伊吹が魅かれて、そして京介から離れると決めたのなら、伊吹はきっと京介にそれをまっすぐ伝えに来てくれるだろう。普通の女性なら傷つけたり傷つけられたりということを恐れて、こうやって誰かを巻き込むときにも、伊吹は自分で京介に伝えてくれるだろう、自分自身の不誠実さに傷つきながら。
 そして、京介は。
 きっと諦めきれずに想うだろう。渡来に寄り添う伊吹をずっと想い続けて囚われるだろう。
「……同じ、だよね」
 今も同じ。ずっと同じ。京介は伊吹に絡め取られ暴かれ搾取されることを望むのだから、誰が伊吹の側に居ようと構わない。見苦しくてみっともないなら、そこで消えてしまえばいい、この世界から痕跡一つ残さずに。どうせ伊吹なしには生きていなかったのだから、それも同じ、渡来が居ても居なくても変わらない。
「ごちそうさま、響子さん……それから、ありがとう」
 次は伊吹さんと指輪を見に行きます。
 京介はカップを置いて立ち上がった。ぼんやり瞳を向けてくる相手に微笑んで背中を向ける。
 そうだ、伊吹と指輪を見に行く。
 そうでなければ。
「ふふ」
 指輪を買うことなんて、二度とない。
 吹き付ける風に笑った自分が、村野に似ていると苦く思った。
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