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84.『奪還』(3)
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奥の扉は一転、古風な一間に続いていた。
燃え上がる暖炉、踏む脚が深く沈む黒い絨毯、そして、その前に転がる二つの体。
「カークさんっ!」
もう何にも驚かず何にも揺さぶられるはずもなかった自分の口が、悲鳴を迸らせるのを感じた。体が勝手に駆け寄り跪き抱き上げる、白く華奢な、何度も愛した、いとしい躯。
「カークさん! しっかりして!」
叫ぶ声は届いていないに違いなかった。滑らかな皮膚はあちこち傷つけられ掻きむしられ、無理矢理擦り続けられたに違いない赤剥けになった一物に震えが起きる。咄嗟に触れた背後は押し広げられ引き裂かれて、べたべたと血と膿みと汚物を垂れ流している。噛みちぎられかけた乳首、幾筋も抉られた爪跡、そして何よりも静かに見開いている透明な眼差しは、微かな呼吸が聞こえていなければ死者のそれと感じたほど虚ろだ。
「は…っ…は…っ…は」
あまりの惨状にライヤーは過呼吸を起こしかけていた。自分が血膿に溺れたように必死に息を吸うのに果たせない。
「…くそ……っ……く…そおおおっっ…!」
カークを抱えて吠えた。
溢れ出る涙に目を閉じ、叫ぶ。
「オウライカさん…っ! オウライカ……さ…んんっ!!」
助けてくれ。僕は世界を滅ぼしてしまいそうだ。ようやくカークさんを抱えているのに、その全てを粉々にしてしまいそう。
閉じた視界にふいに黄金の蝶が舞った。視界を過り見る見る増える金色、柔らかく優しく、闇をその淡い光で埋め尽くしていく祈り。
大丈夫だライヤー。
微笑む顔は見えなかったが、その声は頭の先から降り落ちてきて全身を浸していく。
大丈夫だ、ライヤー。
「大丈夫…じゃない……っ、大丈夫…なんかじゃ…ない…っ!」
大丈夫だ。
「嘘だっ!」
大丈夫だ。
「嘘だっっ!」
大丈夫だ。
「嘘だあっ!」
だってあなたは僕を知らない。
ライヤーはかっと目を見開いた。
凝った彫り物が施された天井、そこへ伸び上がる複雑な装飾、飴色に磨かれた木材を幾重にも組み合わせた美の極致であるこの部屋で、見ろ、あの男はこんなことをして羞じないのだから。これほど酷く、これほど惨く、これほど冷たく人を屠って、その痕跡さえも隠そうとしない。
「オウ…ライカ…さん……っっ」
掠れた声が弱々しく呼ぶ。
「僕…は……僕は……っ」
あなたに救ってもらったのに。
破滅しか望まないこの魂を。滅亡しか導かないこの心を。
あなたは知らない。
「僕は…どうして……」
あいつの息子なんだろう。
ダグラス・ハイトは妻子を持たなかった。ダグラス・ハイトは家族を持たなかった。けれども、自分の遺伝子が消え失せてしまうことは望まなかった。
彼は自らの精子を保存し、選別し、遺伝子学的に一番よい結果を産み出すと考えられた女達に植え付けた、まるで畑に作物の種を撒くように。
そして、その育成において、ふさわしくないと考えた苗は一つ一つ摘み取り引き抜き捨て去り踏みにじった。最も奇妙なことに、最後まで残った苗さえも、ハイトは容赦なく引き千切って捨てたのだ、『塔京』の汚穢のただ中に。
「生きていないほうが……よかった…」
力なく揺れるカークの体を抱きかかえたまま天井を見上げ、ライヤーは小さな子どものように泣きじゃくった。
「僕は…僕なんか……生きていない方が良かったんだ…」
大丈夫だ。
「何が…?」
大丈夫だ。
「何が大丈夫なんですか?」
大丈夫だ。
「だから何が!」
俺はお前に全てを教えたぞ。
「…え…?」
想像もしていないことばが降り落ちてきて、その瞬間、頭上がいきなり青空に変わり、ライヤーは目を見開く。
「…オウ…ライカ…」
どこまでも青く澄み渡る空に、漆黒の蝶。
黄金の光を曵いて高く高く、なお高く舞い上がっていくのに消え失せない。
「あなた……」
あやふやな理解が次第に形を成していく。ライヤーの紋章は砂漠、オウライカの紋章は蝶、そしてこの視界を覆う凄まじいエネルギーに満ちた光景は、ライヤーが慣れ親しんでいたもの、だがそれは単なるイメージではない。
「これを…僕に……届けさせた……?」
転生を約束する生命の理、闇を捕縛する光の投網、運命をひっくり返すことが大好きな『斎京』の主、ログ・オウライカが笑う。発動するのはライヤーが絶望しきった時、自分を無にして、ただオウライカへの道を開いた時のみ。
大丈夫だ、ライヤー。
「待って…くれ…」
全て織り込み済み? ライヤーがオウライカを捨ててカークを選ぶことさえも?
震え出す体は喜びなのか畏怖なのか。
次の瞬間。
「……っっっ!」
ひたりと腕に当てられた指に総毛立った。
燃え上がる暖炉、踏む脚が深く沈む黒い絨毯、そして、その前に転がる二つの体。
「カークさんっ!」
もう何にも驚かず何にも揺さぶられるはずもなかった自分の口が、悲鳴を迸らせるのを感じた。体が勝手に駆け寄り跪き抱き上げる、白く華奢な、何度も愛した、いとしい躯。
「カークさん! しっかりして!」
叫ぶ声は届いていないに違いなかった。滑らかな皮膚はあちこち傷つけられ掻きむしられ、無理矢理擦り続けられたに違いない赤剥けになった一物に震えが起きる。咄嗟に触れた背後は押し広げられ引き裂かれて、べたべたと血と膿みと汚物を垂れ流している。噛みちぎられかけた乳首、幾筋も抉られた爪跡、そして何よりも静かに見開いている透明な眼差しは、微かな呼吸が聞こえていなければ死者のそれと感じたほど虚ろだ。
「は…っ…は…っ…は」
あまりの惨状にライヤーは過呼吸を起こしかけていた。自分が血膿に溺れたように必死に息を吸うのに果たせない。
「…くそ……っ……く…そおおおっっ…!」
カークを抱えて吠えた。
溢れ出る涙に目を閉じ、叫ぶ。
「オウライカさん…っ! オウライカ……さ…んんっ!!」
助けてくれ。僕は世界を滅ぼしてしまいそうだ。ようやくカークさんを抱えているのに、その全てを粉々にしてしまいそう。
閉じた視界にふいに黄金の蝶が舞った。視界を過り見る見る増える金色、柔らかく優しく、闇をその淡い光で埋め尽くしていく祈り。
大丈夫だライヤー。
微笑む顔は見えなかったが、その声は頭の先から降り落ちてきて全身を浸していく。
大丈夫だ、ライヤー。
「大丈夫…じゃない……っ、大丈夫…なんかじゃ…ない…っ!」
大丈夫だ。
「嘘だっ!」
大丈夫だ。
「嘘だっっ!」
大丈夫だ。
「嘘だあっ!」
だってあなたは僕を知らない。
ライヤーはかっと目を見開いた。
凝った彫り物が施された天井、そこへ伸び上がる複雑な装飾、飴色に磨かれた木材を幾重にも組み合わせた美の極致であるこの部屋で、見ろ、あの男はこんなことをして羞じないのだから。これほど酷く、これほど惨く、これほど冷たく人を屠って、その痕跡さえも隠そうとしない。
「オウ…ライカ…さん……っっ」
掠れた声が弱々しく呼ぶ。
「僕…は……僕は……っ」
あなたに救ってもらったのに。
破滅しか望まないこの魂を。滅亡しか導かないこの心を。
あなたは知らない。
「僕は…どうして……」
あいつの息子なんだろう。
ダグラス・ハイトは妻子を持たなかった。ダグラス・ハイトは家族を持たなかった。けれども、自分の遺伝子が消え失せてしまうことは望まなかった。
彼は自らの精子を保存し、選別し、遺伝子学的に一番よい結果を産み出すと考えられた女達に植え付けた、まるで畑に作物の種を撒くように。
そして、その育成において、ふさわしくないと考えた苗は一つ一つ摘み取り引き抜き捨て去り踏みにじった。最も奇妙なことに、最後まで残った苗さえも、ハイトは容赦なく引き千切って捨てたのだ、『塔京』の汚穢のただ中に。
「生きていないほうが……よかった…」
力なく揺れるカークの体を抱きかかえたまま天井を見上げ、ライヤーは小さな子どものように泣きじゃくった。
「僕は…僕なんか……生きていない方が良かったんだ…」
大丈夫だ。
「何が…?」
大丈夫だ。
「何が大丈夫なんですか?」
大丈夫だ。
「だから何が!」
俺はお前に全てを教えたぞ。
「…え…?」
想像もしていないことばが降り落ちてきて、その瞬間、頭上がいきなり青空に変わり、ライヤーは目を見開く。
「…オウ…ライカ…」
どこまでも青く澄み渡る空に、漆黒の蝶。
黄金の光を曵いて高く高く、なお高く舞い上がっていくのに消え失せない。
「あなた……」
あやふやな理解が次第に形を成していく。ライヤーの紋章は砂漠、オウライカの紋章は蝶、そしてこの視界を覆う凄まじいエネルギーに満ちた光景は、ライヤーが慣れ親しんでいたもの、だがそれは単なるイメージではない。
「これを…僕に……届けさせた……?」
転生を約束する生命の理、闇を捕縛する光の投網、運命をひっくり返すことが大好きな『斎京』の主、ログ・オウライカが笑う。発動するのはライヤーが絶望しきった時、自分を無にして、ただオウライカへの道を開いた時のみ。
大丈夫だ、ライヤー。
「待って…くれ…」
全て織り込み済み? ライヤーがオウライカを捨ててカークを選ぶことさえも?
震え出す体は喜びなのか畏怖なのか。
次の瞬間。
「……っっっ!」
ひたりと腕に当てられた指に総毛立った。
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