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体が回復して人間形態を保てるようになるまで、結局一週間かかってしまった。
初めの数日は、秋野さんの部屋の隅に洗面器を置いてもらい、そこに休ませてもらって、眠って目覚めては秋野さんにキスしてもらい、再び眠り、体を少しずつ戻していった。
追跡で無茶をしたせいか、上水道処理をしていない水なら何とか体に取り入れられることができるようになったのは収穫だった。
秋野さんの接触も、キスだけじゃなくて触れてもらえるだけでも、エネルギーを補充できることがわかって、後半はミネラルウォーターを取り込みながら、秋野さんにときどき体を触ってもらって回復した。
「全体量が少ないままだと、近江、子ども形態になるの? 可愛いだろうなぁ、見たいなぁ」
秋野さんは、俺がかなり元気になったと感じたあたりで、そんなふうにねだったが、とりあえず、子ども扱いされるのはいやだったので無視した。
それでも、大学に戻れるほどになるには、なおも数日、時間が必要だった。
久しぶりの登校には、秋野さんが付き添ってくれた。
「ほんと無茶して」
この数日聞き続けたことばを、秋野さんはまた繰り返して俺をにらんだ。
「わかってんの、近江?」
「無茶してんのは、秋野さんの方でしょう」
俺は切り返した。
「あんな危ない仕事に関わるから」
「だってさ」
秋野さんは不満そうに唇をとがらせた。
「やっぱりさ、近江のこととかいろいろ考えると、水や環境が汚れるのを放っておいちゃだめだと思って」
「俺?」
秋野さんの考えることはやっぱりよくわからない。
首をかしげると、秋野さんはこくんと一つ、自分に確認するように頷いて、
「だって、もしあんたに何かあったら、地球の水にまざるんだよね?」
優しい心配そうな声で続けた。
「あの工場の廃液だけでも、近江の体、めちゃくちゃになってた。ひどく辛そうで、痛そうだった。死ぬときに近江の体がどうなるのか、そこんとこはよくわからないけど、あんまり汚れた水に飲み込まれていくのは、近江、いやだろうと思って」
(俺のため、だったのか)
胸の奥が何か熱いもので一杯になった。
そうだ、きっと、この人は、俺がもし死んだとしたら、あの夢みたいに水という水に話しかけるに違いない、そこに俺がいるはずだとためらいもなく確信して。
『元気にしてる? あたしは、ここにいるからね、近江。大丈夫だよ、一人じゃないから、安心するんだよ』と。
何だか泣きそうになって、俺は目を逸らせ、久しぶりに来たから、ざわざわした大学の雰囲気に気をとられている、ふりをした。
秋野さんは俺の動揺には気づかなかった。当然のことのように、
「今はまだ、あんまりきれいじゃないから、今死ぬような無茶しちゃ、だめだよ。これから、少しでも頑張って、もしあんたが危なくなっても、地球にいるのが辛くないようにするからね」
「どっちだって、同じでしょ」
秋野さんの一途さがうれしくて、その相手は俺の『密約者』なんだと胸がせつなくて、つい、俺は秋野さんを振り返って口走った。
「秋野さんがいなくなれば、俺は生きていられない」
がたがたっ、と後ろですごい音が響いた。
振り返ると村西が階段から転げ落ちている。
「なんてこと、言いやがる」
ひきつった顔でよろよろと立ち上がり、腰と頭をさすりながらぶつぶつ文句をいった。
「ひさしぶりに出て来たと思ったら。ちっとは回りの目っていうものを考えてくれよな。ここは学内だぞ、いちゃつきたかったら、アパートでやれ、目障りだ」
人がどれほど心配したと思ってるんだ、いきなり保健室から消えやがって、え、近江、わかってんのかよ、と続けた後、村西は唐突に俺の腕を強くつかんだ。
「人間、だよなあ」
つぶやいて、奇妙な顔で俺を見上げる。
「え?」
「いや、何でもない」
村西は肩をすくめて首を振った。
「目の錯覚だ、そうだそうだ」
自分を慰めるように口の中でもごもごいっている。
保健室を脱出するときに後ろで聞こえた悲鳴の主は、ひょっとすると村西だったのかもしれない。
何と応じたものか、答えあぐねていると、村西の方はもうそれでよかったらしく、ひょいとどこからか分厚い封筒を取り出して秋野さんに渡した。
「ほら、宮内から。写真は惜しかったが、そのほかの情報がずいぶん役に立ったそうだ。で、少し多めに入ってる」
「サンキュ」
秋野さんはにこにこと封筒を受け取った。
あの南大路製紙の裏工場の仕組みを俺から聞き取り、それを宮内に流したのだ。
「不思議がってたぞ、どこでどうして、おまえみたいな素人が、工場内の詳しい構造を調べ上げられたんだって」
村西自身も不思議そうに、
「写真の方は宮内が何とかするっていってたけど。別棟の建物の正体はお手柄だったからな。あんなところ、入り込めるか、普通?」
「へへへ、企業秘密です、ね、近江」
俺を見上げてくすくす笑う秋野さんはとっても無邪気でとっても可愛らしく見えて、俺はエネルギーに関係なく、その唇が欲しいと思ってしまって困った。
(ほんとうに、人間に毒されてるよな)
「何だ? 近江も関係あるのか?」
「うふふん、そうだ、次もヨロシクって宮内くんに頼んでね」
「秋野さん!」
笑顔と同じぐらい無邪気に恐ろしいことを秋野さんは言い放った。
「おいおいおいおい」
村西も顔をしかめる。
「今回やばかったんじゃねえのか。それで、近江がひっくり返ったんじゃなかったのか」
「だって」
秋野さんは目を細めてにこにこした。
「近江のためにもなるし。近江が元気で、不安にならなくなって、寝てるときに泣き出さなくなったら、あたしもうれしいし」
「寝てるときに泣き出すぅ?」
「秋野さんっ!」
村西がとんきょうな声を上げて俺を見る。顔が熱くなったのを隠そうと覗き込んだ俺に、秋野さんが真面目な顔で囁きかける。
「辛い夢、見なくなった、よね?」
「!」
どきっと鳴った胸がそのまま内側に向かって締めつけられる。心配そうな秋野さんの目が俺の心を包んでくれる。
(ずっと……気にしててくれたんだ)
ああ、どうしよう。
体がふわふわして蕩けそうな気がした。
(俺、ほんとにこの人が好きだ)
「秋野さん、俺…」
押さえ切れなくて、秋野さんの体を引き寄せてしまう。
「また、助けてくれるでしょ?」
秋野さんはにっこり笑って俺を見上げた。
「おまえら、人の話聞いてねえな。だから、もう、あーあ、はいはい、悪かった、こういう状態のときに側にいる方がばかなんだろ、はいはい、わかった、わかりました」
村西は肩をすくめて背中を向けた。
「さっさとキスでも何でもしてくれ!」
「じゃ、お言葉に甘えちゃいますぅ」
秋野さんはふざけた口調でいいながら、それでも目一杯真剣な顔をして、俺の頭を引き寄せた。
「ずっと一緒にいるからね、近江。もう、大丈夫だよ」
唇が重なる。
甘い、甘い、豊かなエネルギーで満たされたキス。
そのキスに、世界からの『おかえり』を聞いた気がした。
おわり
初めの数日は、秋野さんの部屋の隅に洗面器を置いてもらい、そこに休ませてもらって、眠って目覚めては秋野さんにキスしてもらい、再び眠り、体を少しずつ戻していった。
追跡で無茶をしたせいか、上水道処理をしていない水なら何とか体に取り入れられることができるようになったのは収穫だった。
秋野さんの接触も、キスだけじゃなくて触れてもらえるだけでも、エネルギーを補充できることがわかって、後半はミネラルウォーターを取り込みながら、秋野さんにときどき体を触ってもらって回復した。
「全体量が少ないままだと、近江、子ども形態になるの? 可愛いだろうなぁ、見たいなぁ」
秋野さんは、俺がかなり元気になったと感じたあたりで、そんなふうにねだったが、とりあえず、子ども扱いされるのはいやだったので無視した。
それでも、大学に戻れるほどになるには、なおも数日、時間が必要だった。
久しぶりの登校には、秋野さんが付き添ってくれた。
「ほんと無茶して」
この数日聞き続けたことばを、秋野さんはまた繰り返して俺をにらんだ。
「わかってんの、近江?」
「無茶してんのは、秋野さんの方でしょう」
俺は切り返した。
「あんな危ない仕事に関わるから」
「だってさ」
秋野さんは不満そうに唇をとがらせた。
「やっぱりさ、近江のこととかいろいろ考えると、水や環境が汚れるのを放っておいちゃだめだと思って」
「俺?」
秋野さんの考えることはやっぱりよくわからない。
首をかしげると、秋野さんはこくんと一つ、自分に確認するように頷いて、
「だって、もしあんたに何かあったら、地球の水にまざるんだよね?」
優しい心配そうな声で続けた。
「あの工場の廃液だけでも、近江の体、めちゃくちゃになってた。ひどく辛そうで、痛そうだった。死ぬときに近江の体がどうなるのか、そこんとこはよくわからないけど、あんまり汚れた水に飲み込まれていくのは、近江、いやだろうと思って」
(俺のため、だったのか)
胸の奥が何か熱いもので一杯になった。
そうだ、きっと、この人は、俺がもし死んだとしたら、あの夢みたいに水という水に話しかけるに違いない、そこに俺がいるはずだとためらいもなく確信して。
『元気にしてる? あたしは、ここにいるからね、近江。大丈夫だよ、一人じゃないから、安心するんだよ』と。
何だか泣きそうになって、俺は目を逸らせ、久しぶりに来たから、ざわざわした大学の雰囲気に気をとられている、ふりをした。
秋野さんは俺の動揺には気づかなかった。当然のことのように、
「今はまだ、あんまりきれいじゃないから、今死ぬような無茶しちゃ、だめだよ。これから、少しでも頑張って、もしあんたが危なくなっても、地球にいるのが辛くないようにするからね」
「どっちだって、同じでしょ」
秋野さんの一途さがうれしくて、その相手は俺の『密約者』なんだと胸がせつなくて、つい、俺は秋野さんを振り返って口走った。
「秋野さんがいなくなれば、俺は生きていられない」
がたがたっ、と後ろですごい音が響いた。
振り返ると村西が階段から転げ落ちている。
「なんてこと、言いやがる」
ひきつった顔でよろよろと立ち上がり、腰と頭をさすりながらぶつぶつ文句をいった。
「ひさしぶりに出て来たと思ったら。ちっとは回りの目っていうものを考えてくれよな。ここは学内だぞ、いちゃつきたかったら、アパートでやれ、目障りだ」
人がどれほど心配したと思ってるんだ、いきなり保健室から消えやがって、え、近江、わかってんのかよ、と続けた後、村西は唐突に俺の腕を強くつかんだ。
「人間、だよなあ」
つぶやいて、奇妙な顔で俺を見上げる。
「え?」
「いや、何でもない」
村西は肩をすくめて首を振った。
「目の錯覚だ、そうだそうだ」
自分を慰めるように口の中でもごもごいっている。
保健室を脱出するときに後ろで聞こえた悲鳴の主は、ひょっとすると村西だったのかもしれない。
何と応じたものか、答えあぐねていると、村西の方はもうそれでよかったらしく、ひょいとどこからか分厚い封筒を取り出して秋野さんに渡した。
「ほら、宮内から。写真は惜しかったが、そのほかの情報がずいぶん役に立ったそうだ。で、少し多めに入ってる」
「サンキュ」
秋野さんはにこにこと封筒を受け取った。
あの南大路製紙の裏工場の仕組みを俺から聞き取り、それを宮内に流したのだ。
「不思議がってたぞ、どこでどうして、おまえみたいな素人が、工場内の詳しい構造を調べ上げられたんだって」
村西自身も不思議そうに、
「写真の方は宮内が何とかするっていってたけど。別棟の建物の正体はお手柄だったからな。あんなところ、入り込めるか、普通?」
「へへへ、企業秘密です、ね、近江」
俺を見上げてくすくす笑う秋野さんはとっても無邪気でとっても可愛らしく見えて、俺はエネルギーに関係なく、その唇が欲しいと思ってしまって困った。
(ほんとうに、人間に毒されてるよな)
「何だ? 近江も関係あるのか?」
「うふふん、そうだ、次もヨロシクって宮内くんに頼んでね」
「秋野さん!」
笑顔と同じぐらい無邪気に恐ろしいことを秋野さんは言い放った。
「おいおいおいおい」
村西も顔をしかめる。
「今回やばかったんじゃねえのか。それで、近江がひっくり返ったんじゃなかったのか」
「だって」
秋野さんは目を細めてにこにこした。
「近江のためにもなるし。近江が元気で、不安にならなくなって、寝てるときに泣き出さなくなったら、あたしもうれしいし」
「寝てるときに泣き出すぅ?」
「秋野さんっ!」
村西がとんきょうな声を上げて俺を見る。顔が熱くなったのを隠そうと覗き込んだ俺に、秋野さんが真面目な顔で囁きかける。
「辛い夢、見なくなった、よね?」
「!」
どきっと鳴った胸がそのまま内側に向かって締めつけられる。心配そうな秋野さんの目が俺の心を包んでくれる。
(ずっと……気にしててくれたんだ)
ああ、どうしよう。
体がふわふわして蕩けそうな気がした。
(俺、ほんとにこの人が好きだ)
「秋野さん、俺…」
押さえ切れなくて、秋野さんの体を引き寄せてしまう。
「また、助けてくれるでしょ?」
秋野さんはにっこり笑って俺を見上げた。
「おまえら、人の話聞いてねえな。だから、もう、あーあ、はいはい、悪かった、こういう状態のときに側にいる方がばかなんだろ、はいはい、わかった、わかりました」
村西は肩をすくめて背中を向けた。
「さっさとキスでも何でもしてくれ!」
「じゃ、お言葉に甘えちゃいますぅ」
秋野さんはふざけた口調でいいながら、それでも目一杯真剣な顔をして、俺の頭を引き寄せた。
「ずっと一緒にいるからね、近江。もう、大丈夫だよ」
唇が重なる。
甘い、甘い、豊かなエネルギーで満たされたキス。
そのキスに、世界からの『おかえり』を聞いた気がした。
おわり
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