19 / 24
19
しおりを挟む
倉庫の中は廊下よりなおひんやりとして薄暗かった。
廃液と同じ刺激臭が漂っている。小さな窓が正面に一つだけあって、そこから外の光が入り、中に埃の通路を浮き上がらせていた。
六畳ほどもない小さな部屋だ。窓を挟んだ左右の壁は、何列か無理に押し込まれたようなスチールの棚が並んでいて、棚にはぎっちりとダンボール箱が詰め込まれている。それらの箱も古びて変色し、形が崩れたものが多かった。
人の気配はほとんどなく、ひょっとして、部屋を間違ったのかとどきっとした。
だが、しばらく感覚を広げていると、正面の窓の下、棚に入り切らないダンボール箱が積まれた狭苦しい空間に、小さな姿がうずくまっているのがわかった。
(秋野さん)
弱ってはいるけど、秋野さん特有のほっとするようなエネルギーを感じて、俺は急いで移動し始めた。ゴミと埃だらけの床を、ためらうことなく、それらをかき集めながら、人影の側に寄っていく。
部屋の暗さに感覚が慣れてくると、人影ははっきりとした輪郭になって浮かび上がった。
秋野さんは目を閉じて、まだ俺には気づいていなかった。
ぐったりと壁と箱の間に挟まれるようにもたれている。両手は後ろで縛られているみたいで、口に茶色の梱包用テープが張られている。薄汚れた頬は青ざめ、ひどく疲れているみたいだ。目の下にめったにできない隈ができていた。
カメラは取り上げられたままなのか、持っていない。
「秋野さん」
俺はそっと声を出した。
秋野さんはぴくっとして顔を上げ、目を開けてきょろきょろした。見かけのわりには、秋野さんの目は光も覇気も失っていない。
「秋野さん」
体が減った分、声がうまく出せなかったのだろうか、秋野さんは壁や棚を見回している。
俺は体を集めて凝縮させ、音が響くように中空を作って、再び呼びかけた。
秋野さんはなおもあちこちを見回した後、床に落ちた小さな四角い光の中に出て行った俺に気がついてくれた。目を大きく開いて、もごもごもご、と何かをつぶやく。
「ごめんね、遅くなって」
移動に体を使っているために不明瞭になってしまう声を、何とか保とうとしながら、俺はいそいそと近寄った。
「今、手とか自由にするからね」
秋野さんがゆっくりとためらいがちにうなずいて、俺は秋野さんの前へ伸ばした足にたどりついた。スニーカーからジーパンの上へと這い上り始める。
「む!」
突然、秋野さんが鋭い声を上げて、体を強ばらせ、俺はぎょっとした。背後から、やっぱり気を変えた氷川かしびれを切らした石崎でも来たのだろうかと、慌ててドアの方を感覚で探る。
大丈夫、ドアは開いていないし、廊下の方にも誰も来ていないようだ。
「大丈夫だよ、秋野さん、今なら逃げられ……秋野さん?」
話しかけながら、再び秋野さんの足を上ろうとして気がついた。
秋野さんが強ばった凍りついた表情で見ているのは、ドアや人間の影じゃない。大きな目が警戒心を満たして凝視しているのは、ほかでもない、秋野さんの足の上にねったりと乗っている俺そのものだ。
眉をしかめ、目を見開き、じっと俺を見つめているその顔はとても不安そうに、いぶかしげに見えた。
「秋野さん…」
呼びかけると、ひくっと体の下の秋野さんの足が脅えたように震えた。
「俺…」
近江だよ、といいかけたことばが、体の表面で蒸発していった。
秋野さんと暮らし出してから、秋野さんが夜中のバイトを始めてから、『近江潤』の存在と秋野さんの思いを知ってから、そして、行方不明になってしまった秋野さんを追いかけて来た間、ずっとわかっていたけど見ないようにしていた問いかけが、いきなり目の前を遮った。
秋野さんは俺を必要としていないんじゃないか。
俺の存在は秋野さんにとって迷惑なんじゃないか。
本当は…本当は。
(秋野さんが必要なのは『近江潤』で、こんなスライムじゃないんだ)
唐突にそう思った。
秋野さんは、こんな状態の俺に助けられるなんて、いやなんだ。
そう、だよな。
抵抗する気持ちが沸き上がるよりも先に、残酷なほどはっきりと納得してしまった。
本当なら、こういうときに助けに来るのは、白馬の王子と相場が決まっている。
ここが汚れた倉庫で、悪者が環境破壊企業ならば、せめてびしっとした精悍な映画スターというところで、断じて、汚れて悪臭を放っている、埃まみれのスライムなんかじゃないはずだ。
(俺は何をしに来たんだ)
秋野さんを助けるために、何とか適応して生き延びて来た世界を放り捨ててまで。汚い溝をはいずり回り、ずたずたになって体を失いながら。
くたくたと力が抜けて、なにもかもが空しくなって、秋野さんの足から滑り落ちてしまいそうだった。床に広がり細切れになったら、きっともう一度元には戻れないだろう。
けれど、それでも、それはきっと、秋野さんにとっても、いや、この世界にとってさえ、何の意味もないことなんだろう。
俺はこの世界のものじゃなかったから。
俺は体を固くしたまま俺を見つめている秋野さんを見返した。
(それでも)
それでも、失いたくなかったのは俺の方。
泣き出しそうな気持ちで思った。
廃液と同じ刺激臭が漂っている。小さな窓が正面に一つだけあって、そこから外の光が入り、中に埃の通路を浮き上がらせていた。
六畳ほどもない小さな部屋だ。窓を挟んだ左右の壁は、何列か無理に押し込まれたようなスチールの棚が並んでいて、棚にはぎっちりとダンボール箱が詰め込まれている。それらの箱も古びて変色し、形が崩れたものが多かった。
人の気配はほとんどなく、ひょっとして、部屋を間違ったのかとどきっとした。
だが、しばらく感覚を広げていると、正面の窓の下、棚に入り切らないダンボール箱が積まれた狭苦しい空間に、小さな姿がうずくまっているのがわかった。
(秋野さん)
弱ってはいるけど、秋野さん特有のほっとするようなエネルギーを感じて、俺は急いで移動し始めた。ゴミと埃だらけの床を、ためらうことなく、それらをかき集めながら、人影の側に寄っていく。
部屋の暗さに感覚が慣れてくると、人影ははっきりとした輪郭になって浮かび上がった。
秋野さんは目を閉じて、まだ俺には気づいていなかった。
ぐったりと壁と箱の間に挟まれるようにもたれている。両手は後ろで縛られているみたいで、口に茶色の梱包用テープが張られている。薄汚れた頬は青ざめ、ひどく疲れているみたいだ。目の下にめったにできない隈ができていた。
カメラは取り上げられたままなのか、持っていない。
「秋野さん」
俺はそっと声を出した。
秋野さんはぴくっとして顔を上げ、目を開けてきょろきょろした。見かけのわりには、秋野さんの目は光も覇気も失っていない。
「秋野さん」
体が減った分、声がうまく出せなかったのだろうか、秋野さんは壁や棚を見回している。
俺は体を集めて凝縮させ、音が響くように中空を作って、再び呼びかけた。
秋野さんはなおもあちこちを見回した後、床に落ちた小さな四角い光の中に出て行った俺に気がついてくれた。目を大きく開いて、もごもごもご、と何かをつぶやく。
「ごめんね、遅くなって」
移動に体を使っているために不明瞭になってしまう声を、何とか保とうとしながら、俺はいそいそと近寄った。
「今、手とか自由にするからね」
秋野さんがゆっくりとためらいがちにうなずいて、俺は秋野さんの前へ伸ばした足にたどりついた。スニーカーからジーパンの上へと這い上り始める。
「む!」
突然、秋野さんが鋭い声を上げて、体を強ばらせ、俺はぎょっとした。背後から、やっぱり気を変えた氷川かしびれを切らした石崎でも来たのだろうかと、慌ててドアの方を感覚で探る。
大丈夫、ドアは開いていないし、廊下の方にも誰も来ていないようだ。
「大丈夫だよ、秋野さん、今なら逃げられ……秋野さん?」
話しかけながら、再び秋野さんの足を上ろうとして気がついた。
秋野さんが強ばった凍りついた表情で見ているのは、ドアや人間の影じゃない。大きな目が警戒心を満たして凝視しているのは、ほかでもない、秋野さんの足の上にねったりと乗っている俺そのものだ。
眉をしかめ、目を見開き、じっと俺を見つめているその顔はとても不安そうに、いぶかしげに見えた。
「秋野さん…」
呼びかけると、ひくっと体の下の秋野さんの足が脅えたように震えた。
「俺…」
近江だよ、といいかけたことばが、体の表面で蒸発していった。
秋野さんと暮らし出してから、秋野さんが夜中のバイトを始めてから、『近江潤』の存在と秋野さんの思いを知ってから、そして、行方不明になってしまった秋野さんを追いかけて来た間、ずっとわかっていたけど見ないようにしていた問いかけが、いきなり目の前を遮った。
秋野さんは俺を必要としていないんじゃないか。
俺の存在は秋野さんにとって迷惑なんじゃないか。
本当は…本当は。
(秋野さんが必要なのは『近江潤』で、こんなスライムじゃないんだ)
唐突にそう思った。
秋野さんは、こんな状態の俺に助けられるなんて、いやなんだ。
そう、だよな。
抵抗する気持ちが沸き上がるよりも先に、残酷なほどはっきりと納得してしまった。
本当なら、こういうときに助けに来るのは、白馬の王子と相場が決まっている。
ここが汚れた倉庫で、悪者が環境破壊企業ならば、せめてびしっとした精悍な映画スターというところで、断じて、汚れて悪臭を放っている、埃まみれのスライムなんかじゃないはずだ。
(俺は何をしに来たんだ)
秋野さんを助けるために、何とか適応して生き延びて来た世界を放り捨ててまで。汚い溝をはいずり回り、ずたずたになって体を失いながら。
くたくたと力が抜けて、なにもかもが空しくなって、秋野さんの足から滑り落ちてしまいそうだった。床に広がり細切れになったら、きっともう一度元には戻れないだろう。
けれど、それでも、それはきっと、秋野さんにとっても、いや、この世界にとってさえ、何の意味もないことなんだろう。
俺はこの世界のものじゃなかったから。
俺は体を固くしたまま俺を見つめている秋野さんを見返した。
(それでも)
それでも、失いたくなかったのは俺の方。
泣き出しそうな気持ちで思った。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
〖完結〗その子は私の子ではありません。どうぞ、平民の愛人とお幸せに。
藍川みいな
恋愛
愛する人と結婚した…はずだった……
結婚式を終えて帰る途中、見知らぬ男達に襲われた。
ジュラン様を庇い、顔に傷痕が残ってしまった私を、彼は醜いと言い放った。それだけではなく、彼の子を身篭った愛人を連れて来て、彼女が産む子を私達の子として育てると言い出した。
愛していた彼の本性を知った私は、復讐する決意をする。決してあなたの思い通りになんてさせない。
*設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
*全16話で完結になります。
*番外編、追加しました。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
君は妾の子だから、次男がちょうどいい
月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは婚約中だが、彼は王都に住み、マリアは片田舎で遠いため、会ったことはなかった。でもある時、マリアは、妾の子であると知られる。そんな娘は大事な子息とは、結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして次の日には、迎えの馬車がやって来た。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる