『ハレルヤ・ボイス』

segakiyui

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 『大月シンフォニア』は駅に近い高層ビルの七階フロア、突き当たりの一画を占めていた。
 周囲は喫茶店や本屋、文具やデスクアクセサリーを置く店で、人の行き来はあるものの、下の階のような騒がしさはない。自動ドアではなくて、白いスモークガラスを押して入った白とクリーム色の待ち合い室には、診療時間外ではあるものの、もう数人がソファに腰掛けている。
「こんにちは」
「あ、どうも」
 受付の娘に穏やかに微笑まれて、中谷は会釈を返し、のそのそと靴を脱いでスリッパに履き替えた。保険証を差出しながら、
「初診なんですが……予約とかいるんですか?」
「はい。次回からはお願いします。今回は少しお待ち頂ければ受診して頂けます」
「あの……状態とか、ここで?」
「いえ、先生にお話し下さい。中谷、晃、さんですね? 順番にお呼びいたしますので」
「はあ」
 返された保険証を片づけながら、たぶん保険はきかないんだろうな、と苦々しい思いになる。精神医療に関わる診療はぴんからきりまで種類も範囲も広く、代替え治療的なものは保険がきかないことがほとんどだと聞いている。
(あんまりのんびりかかってるわけにもいかねえ)
 軍資金は高岡が多少都合してはくれているが、どこまで取材を広げていけばいいのか見当がつかない今、時間も金も余力がない。
(ついでに体も、頭の方もな)
 ソファに腰を落としたときに、やはり鋭い痛みが下腹部から駆け上がって、中谷は思わず舌打ちした。
「ほんとに治ってんのかよ」
 自分の不摂生は棚に上げてぼやき、痛みを堪える。求めても仕方ないと思いながら、笙子の声を記憶の中から拾い上げようとしている自分に気づいて、また舌打ちした。
「中谷晃さん」
 蹲るように体を抱えて数十分、ようやく呼ばれて立ち上がる。奥のやはり白いスモークガラスのドアを開けると、その向こうは淡い緑と白と灰色で統一された部屋だった。
 左手奥に、壁を向いて置かれた机の前に座っていた男が顔を上げる。
「どうされましたか?」
 穏やかな声はほどよい大きさではっきり聞こえた。だが、外見は想像していたのとかなり違う。細面の神経質な医師を考えていたのだが、目の前にいるのはがっしりした体育会系の体つきで、健康そうに茶色に焼けた肌に白衣と淡いグレイのスラックスを身につけた短い黒髪の男だった。太い眉の下で大きな目が親しげに笑っている。
「どうぞ、座って下さい」
 大月はにこにこしながら、目の前の薄緑のスツールを指した。そろそろと腰を降ろしながら、今度は思ったほど傷が痛まなかったのにほっとする。
「どこか、調子が悪いんですね?」
「ええ、まあ」
 医師を受診して絶好調のものなどいないだろうと胸では思ったものの、何となくこちらの状況をよくわかってくれるような気がしたのに気づく。
(なるほど、もう始まってるわけか)
 中谷も伊達や酔狂で取材合戦を生き抜いてきたわけではない。初対面の印象を操作する人間に気を抜かないのは常識以前の心構えだ。
「えーと……実は……眠れなくて」
「はい、眠れない」
「それに……食欲もなくて」
「食欲もない」
「事故で怪我をしたんですが……その痛みもあって」
「事故で怪我をして、痛みが残っている」
 大月は柔らかく繰り返しながらカルテを書き込んでいく。うなずきつつボールペンを動かす横顔には警戒心がないように思えるし、自分のことばを遮られないことは確かに聞いてくれているという安心感がある。
「それで?」
「は?」
「どうしてここへ来られましたか?」
 意外な質問に一瞬ひやりとした。
「どういう意味ですか?」
「ああ、すみません」
 大月は人なっつこく笑った。
「『ちゃんとした医療ではない』とよく言われますからね。たぶん、他の医師にもかかられたでしょうけど、どうしてこちらに来られたのかなと」
「ああ」
 中谷は少し息を吐いた。
「実は、他のところで、その」
 無難に笑い返したつもりだったが、甦った記憶が体を竦ませた。
 『そのとき君はどういう気持ちだったのかな』『君が望んでいたのは何かな』『それは本当だったのか』『エディプス・コンプレックスというものがある』『母親を父親から寝取りたいという感情だ』『誰にだってあるものだから心配しなくていい』『よくある話だ』『よくあること……』。
 耳元を紹介された医師の嗄れた声が笑みを含みながら掠めていく。最後のことばが限界だった。椅子から転げ落ちて、悲鳴を上げていた。聞こえない『水音』が体の内側に響き渡った。よくあること。誰にだってあること。違う、違う、違う、違う。叫びながら頭を抱えて床に激しく打ちつけた。違うんだ、違うんだ、違うんだ、誰か信じて、誰か聞いて、誰か僕を止めて。叫び続けた喉に血の味がして、それに気づいた瞬間に視界が紅蓮に染まって、中谷は意識を失ってしまった、のだ。
「中谷さん?」
 大月が笑みを消した。真剣な顔で覗き込んでくる、その顔を中谷は震えながら見上げた。
「すみません……俺……気分が……」
「そのようですね。立てますか?」
「……え……?」
「こちらへ。少し休みましょう」
 大月が固くて大きな手で中谷の腕を掴んだ。揺らめいたのを支えられながら、部屋の右に幾つか並んでいるドアの一つの前へ連れられていく。
 クリーム色のドアの向こうは個室になっていて、ベッドとミニテーブル、椅子が二脚に床頭台が置かれている。壁は柔らかな茶色の木目、ベッドの掛け物は普通の家のように淡い花柄だ。その掛け布団をめくって、大月は中谷をそっとベッドに座らせた。
「ここは……」
「治療室です。いえ、すぐに治療を始めるんじゃありません。ただ、少し眠って落ち着きましょう。大丈夫、一時間ほど眠ったら起こします。ほら、ここにナースコールがありますから、どうしても耐えられなかったら、すぐ呼んで下さい」
 中谷が満足にしゃべれないのを察したのか、大月は先回りして説明してくれながら、中谷をそっとベッドに横にならせた。
「寒くないですね? 眠れないときも呼んで下さい。では」
 そこでようやく笑って掛け布団をかけ、静かに部屋を出て行く。
「……くそ……っ……」
 まだしつこく震え続ける体を抱え込みながら、中谷は呻いた。
 こんなに切羽詰まった状態で、焦りといら立ちに苛まれて、眠れるわけなどない。
 そう思っていたのに、乾燥して温かなベッドと清潔な香り、ドア一枚隔てただけで、その向こうでは大月の診療が行なわれているはずなのに、まるで別の場所に移されたような静けさに包み込まれて、気持ちが弛んでいく。
「どこかで……」
 同じ感覚を味わったことがある。
 それが頭の中でぼんやりと形になりかけ、やがてぐずぐずと崩れていった。

 夢だ。
 中谷は夢を見ている。
 笙子に抱かれて、彼女が零した『水』が滴り落ちる、それを口を開いて貪るように吸う。
(……笙子)
 快感に体が震えた。
 唇から入った塩辛い液体の分子一つ一つが中谷の細胞に広がり、親しみ、同化していく。やがて、それは見る見る中谷の内側で巨大な青のイメージとなって満ちていく。
(海だ)
 伝わる震動は波の音だ。柔らかな温もりに無防備に体を預けて、不安はすぐに溶けていく。恐れることはない、そこからきて、そこへ還るだけのこと、始めはみんな一つだったのだ。
(俺は最後ではない……? 俺は一人に……ならない……?)
 身悶えしたくなるほど甘い喜び。
 追いつめられ煽られていた激情が時間を与えられ、未来を与えられ、穏やかな海に吸い込まれていく。中心から自分の細胞が溶け出して、海の中に呑み込まれ、受け止められる。
(……深雪……?)
 ふいに、その海の彼方に中谷は深雪の気配を感じた。
 おにいちゃん。
 笑う顔。花柄のワンピース。
 お兄ちゃん、大好き。
(俺は……)
 胸が詰まった。抑えつけられていたものが瞳の奥で弾ける。熱い海流が深雪に向かって押し寄せていく。
(お前が好きだった)
 わかってたよ。
 深雪はふわりとワンピースを翻して、中谷の放った海流をするりと巻き込むように流し返してきた。
(俺が……お前を追い詰めたから……自殺したんだと……思ってた)
 違うよ。
 深雪はにこにこ首を振った。十七歳の姿のまま、けれど、十七歳より遥かに毅然と大人びて、鮮やかなほど成熟した視線で中谷を見返す。
 お兄ちゃんは、幻を見てただけ。
 深雪が大切だった。それが妹の領域を越えかねないと気がついたのはいつだったろう。あやうげな夢に力の限り抑えつけて貪った、その相手の顔が深雪に重なった瞬間、叫んで跳ね起きたのは。
 離れなくてはならないと意識すればするほど不安で、泣かせたくなって、すがりついてほしくて。
 お兄ちゃんは、私の中に、出逢うべき人の、一番きれいな幻を見たんだよ。
(幻?)
 私の役割は終わり。もう、いくね?
(出逢うべき……人…)
 広がる海の別の方向から、誰かが近づいてくる。白く翻る衣に身を包み、海の上を滑るようにこちらへ進んでくる。まばゆく光るその姿は。
(笙子)
「あ……ぁ…」
 中谷は思わず吐息を漏らした。
(あんたになら……裁かれてもいい)
 
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