『ハレルヤ・ボイス』

segakiyui

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あんたをくれ
全部くれ
その命も心も魂も
俺がつかめるものは
みんなくれ

当然だろう
あんたは俺に罪を負う
俺はあんたに傷つけられて
ずたずたのぼろぼろで
もう今にも死にそうで
なのに気づいてくれなかった

あんたをくれ
全部くれ
俺が疲れ切るまでくれ
自分の惨めさを忘れるまで

そしたら
俺も返せるかもしれない

あんたから奪った
あの花びらを



 翌日、二日酔いで割れそうに痛む頭と、今にも体を裏返しにするほど吐きそうな気分の悪さを抱えて、中谷は午後から出社した。
 『ジャーナル』はきちんとした社員だの、規則正しい勤務だのは求めていない。必要なのは、読者を飛びつかせるネタと、それを手に入れられるフットワークのいい野良犬、それも食いついた獲物は絶対離さない執念深い獣だけだ。
 その野良犬どもの動きを取り仕切る編集長が、中谷を待っていた。
「よう、重役。話は田尾に聞いた」
 顔を見るなり、高岡は言った。
「『ハレルヤ・ボイス』、おまえのことを知ってたんだってな?」
「はあ」
(田尾の奴、余計なことを言いやがって)
 内側で舌打ちしたのを見抜いたように、のっぺりとした気の良さそうな顔をした高岡は、顔立ちに似合わぬ隙のない皮肉な笑みを浮かべた。
「お前さんのこだわってきた『ハレルヤ・ボイス』、そいつの謎がつかめるかも知れん、そうだな?」
「…昔のことですよ。それに、昨夜は失敗しました」
 中谷は白状した。高岡に隠し立ては意味がない。
「だが、今でもこだわってる、しつこくな。いいことだ、とてもいいことだ」
 にっ、と高岡はヤニで汚れ欠けたまま治療もしていない前歯を見せた。
「嘘をつくな。失敗なんぞどうでもいい。一人で走るな、ネタを握り込んで細工するな、いつも言ってるだろうが」
 目を細めると、お人よしそうな顔がふいに酷薄な犬の顔になる。
 もともとが、三流芸能雑誌の編集などにおさまっている男ではない。ここぞというときの踏み込みと決断の速さには、一流雑誌の編集を蹴散らす勢いと正確さがある。『身軽なのが三流の取り柄、こびるほどのお偉いさんもなし』が口癖で、個人的には、中谷をよく知って扱い慣れている、数少ない人間の一人だ。
 黙り込んでしまった中谷を眼鏡の奥から眺めながら、高岡はことばを継いだ。
「今日、キィ・ロドニーから『通達』があった。お前をこれ以上越智笙子に接触させるな、ということだ。つまり」
 高岡はにんまりと笑った。緩めた上によれよれのネクタイを芝居がかってちょっと締めて見せる。
「このネタは、売れる」
 無言で相手を見返した中谷に、高岡はうなずいた。
「でかしたな。時間をやる。ものにしろ、『プライベートにするな』」
 高岡の口から決めぜりふが出た。引く気は一切ないということだ。
「中谷さあん」
 そのことばが消えるか消えないかで、田尾が中谷を呼んだ。中谷のデスクの電話を取り上げ、興奮した様子で手を振り回し、しゃべり終わってから、振り返る。
「『ハレルヤ・ボイス』からですよお」
 高岡がちかっと目を光らせた。
 中谷は急いで田尾に手を伸ばしたが、田尾は首を振って受話器を置いた。
「切れました、けど、会いたいって。場所指定です、どうしますう?」

(一体、何を考えてるんだ)
 笙子に指定されたのは、住宅地の公園に近い甘党喫茶だった。
 中谷は苦虫を噛みつぶした顔のまま、さっきから手付かずで目の前に置かれたまま、クリームがとろけていく『あんみつ』を見つめている。
 回りは女子高校生八割、買い物帰りらしい主婦一割、後はのんびりした老人達で席が占められていた。
 中谷のような男、それも不精髭を生やしてしまりのない背広を引っかけてるようなうさんくさい人間は一人もいない。そのせいか、ちらちらと不審そうにこちらに向けられる周囲の目がうっとうしいものを含んでいた。時代も時代だし、このあたりで見かけない男というだけで警戒対象になっているのかもしれない。
 中谷も、何度か体の位置を変えたり、素知らぬ顔で窓の外に目をやってみたりしているのだが、そんなことでは周囲の視線の毒は防ぎようがない。女が充満している空間に取り残されるという威圧感がこれほどのものだとは、今まで中谷は思いもしなかった。
(せめて、サングラスでもかけてくればよかったな)
 中谷は舌打ちした。そうすれば落ち着かない視線を好きなところに向けられるのに、と胸の中でぼやいてみる。
 灰皿がない。煙草を吸えるような雰囲気でもない。加えて、中谷は甘いものが大嫌いだ。粘りつくようなクリームの匂いが、絡みついてくる化粧の浮いた女のように思えて、それでなくともおさまらない胃が今にも中身をぶちまけそうだ。
 いらいらしながらなおも数分粘ったが、もう我慢の限界だった。レシートをつかみ、立ち上がった矢先、表の自動引き戸が開いて、また数人の女子高校生がなだれこんでくる。
 仕方なしに中谷は再び腰を落とした。
(あの一団が落ち着いたら出よう)
 見るともなくそれらのざわざわした集団を見ていた中谷は、その中の一人がふとこちらを振り返ったとたん、友人と離れて中谷の方へやってくるのに気がついた。
 中谷の近くに空いている席などなかったはずだ。
(それとも、今空いたのか)
 それならそれでやっかいだ、となんとなく腰を浮かせて辺りを見回す。と、
「中谷、晃、さん」
「!」
 目の前に突然幽霊が現れたとしても、これほどびっくりはしなかっただろう。一瞬体が強ばり、とんっ、と音をたてて、中谷の心臓が不規則な打ち方をした。
 声の方に振り向いた中谷を、一人の少女がのぞき込んでいる。
「あんた……越智…」
 つぶやきかけて、その先を続けたものかどうかためらい、中谷は口ごもった。
 笙子が、にっこりと邪気のない笑い方をする。
「ありがとう、気を遣ってくださって。本名だし、大丈夫ですよ」
 中谷の胸の内を見抜いたように言った。それから首をかしげて瞬きした。つぶらな黒い目が子犬を思わせる。わずかにためらってから、不思議そうに中谷を見つめ、確かめた。
「ここに座ってもかまいませんか?」
「いいよ」
 ぶっきらぼうに答えながら、中谷はすぐに自分を取り戻した。知り合いー? と尋ねられて、ちょっとね、と友人に笑い返した笙子はどこにでもいる女子高生にしか見えない。セーラー服のプリーツを気にしながら、そっと中谷の前に座る。
(何が、かまいませんか、だ)
 一瞬にせよ相手の戦術に巻き込まれたのがくやしくて、中谷はついつい絡むようなきつい口調になった。
「かまいませんか、じゃねえだろ。自分で呼び出しときながら…」
(それも、こんなおかしな場所で)
 さすがにそれは口に出さずに、中谷は相手をにらみつけた。
「私が?」
 笙子はいぶかしげに瞬きをした。演技とはとても思えない、本当に驚いたような表情になって問い返す。にらみつけている中谷の目に怯んだ様子はない。
 あのどこかまばゆいものを見ているような黒い瞳で、中谷の凝視を受け止めながら、ゆっくりと首を振って答えた。
「…私、あなたを、呼び出した覚えはありません」
「何だって?」
 中谷は眉を寄せた。自分を見つめている冴えた黒の眼が、嘘偽りの揺れもないことを確かめて、ますます顔をしかめて笙子をにらんだ。
「変だな。俺はあんたから会いたいって言ってる、って聞いたんだが」
「あなたが聞いた?」
 笙子は穏やかに確かめた。
「いや、あの時は、田尾の奴が伝言を受けたって言ってた」
「そう」
 笙子はわずかに唇をすぼめた。
 今日はルージュを塗っていないのだろう、淡い桜色の花びらがふんわりと引き寄せられた、そんな光景だ。けれど、その花びらは厚みがあって柔らかそうで。
(温かい……?)
 その花びらがどんなものに触れるのか、中谷は知らない。その花びらが存在するような世界に生きてきたことはない。
(何に触れるんだ?)
 胸の底に小さな、けれど、密度の高い火が灯る。
(誰に)
 たぶん、中谷ではない、誰かに。
 じり、と微かな痛みが疼く。
「…誰かに会わされた、ということですね」
「誰かに?」
 笙子が胸の中の声を繰り返したように聞こえて、中谷はうろたえた。いつの間にか、相手の唇に見惚れていたと気がついて、二重に慌てる。指先が煙草を探ってうろうろする。
「…私の方も、あなたに確かめたいことがあったから、ちょうどよかったけど…」
 笙子は十七とはとても思えないおとなびた口調でつぶやくと、かすかに苦笑した。
「けど、何だ?」
 不安定に途切れたことばの先がきになって、中谷は促した。
「中谷さん、甘いものが嫌いなんでしょう? なのに、私と会うために、我慢してここで座っていてくださったんですね?」
 笙子の視線が、テーブルの上の手つかずの『あんみつ』に注がれていると知って、中谷は、また、深雪以外の新たな弱みを笙子に握られたような気がした。
 今度こそ、とレシートを握りしめ、立ち上がる。
「あんたは俺を呼んでねえ。何を話す気もねえ。なら、会合は終わりだ。おっしゃるとおり、苦手な場所からはさっさと退散させてもらおう」
「中谷さん」
 呼び止める笙子の声を背中に、レジを済ませ、通りへ出て行く。
(畜生)
 中谷は、電話一本でのこのこ出てきた自分が腹立たしくてたまらなかった。ガセネタ、すっぽかし、裏取引、そんな手管などは慣れていたはずだったのに、なぜ笙子が自分を呼び出したのではないとわかったからといって、こんなに腹が立つのかわからなかった。
(笙子が相手だからだ)
 心の中で小さなつぶやきが聞こえる。
(笙子がこんなことをするなんて、思ってもいなかったからだ)
 笙子が。
 そう呼び捨てている自分、その名前に含まれた響きに中谷はふいに気がついた。
(まるで、恋人、みたいな? ばかな!)
 それがどういう意味なのかを考えまいとして、中谷は足を速めた。
「中谷さん…」
 後ろの方から戸惑った声がまだ中谷を呼んでいる。それを意識した中谷は、より一層歩速を上げた。歩道を行くなら大回りする道を、児童公園を突っ切って、少しでも早く笙子から離れようと焦る。そんな行動を取っている自分に戸惑う感覚もあって、中谷はますます混乱した。
(何をしてるんだ、俺は?)
 呼び止められているならインタビューを申し込めばいい。これ幸いと、慣れた手管で笙子から情報全てを引きずり出せばいい。そうしてこそ、『ジャーナル』の中谷、野良犬の仕事にふさわしいはずなのに?
「中谷さん!」
 軽い足音が背後に迫ったかと思うと、いきなり腕を激しくつかまれた。笙子のつかんだ手から、瞬間、びり、と電気が走った気がしてうろたえる。
「何だよ!」                                    
 中谷は腕に掛かった笙子の手を乱暴に振り払って向きを変えた。続けて、思いつくままに怒鳴ろうとして、払われた手を、もう一方の手で包むように抱いて立ち竦んでいる笙子の頼りなさそうな姿にことばが喉に詰まった。

「……聞きたいことがあるって……言ったでしょ?」
 乱れる息のせいか、どこか舌足らずな口調で笙子は中谷を責めた。唇を軽くとがらせる、そんな他愛のない仕草が、このうえなく愛らしく見える。
 中谷は戸惑った。
(俺は何を考えて…)
 心臓が不規則に打っている。
(これじゃあ、まるで、まるで)
 中谷が無意識に軽く首を振ると、笙子が眉を上げた。
「聞こえなかったの?」
「あ、いや…」
 不機嫌そうな笙子の声に、つい口ごもる。
 はっとしたように笙子は表情を和らげ、弁解するように続けた。
「あなたをばかにするつもりで言ったんじゃないわ。……誰もあんなふうに私を待っていてはくれない……苦手な場所で、私に会うためだけにずっと待っていてくれる人なんていなかった」
 大きな黒い瞳が潤んでいる。笙子はそっと小さく笑って、ささやくようにつけ加えた。
「うれしかったの、本当に」
 それは、『ハレルヤ・ボイス』として、この世の地位も名声も財産も好きなだけ望める人間にしては、ひどく脆そうなまなざしだった。
 そのまなざしの不安を取り除いてやりたい、そんな気持ちが中谷の胸に動く。近寄り、大丈夫だ、何も心配することはない、と応えてやりたい。そうして振り仰がれた視線は、きっと中谷に縋ってくる。まばゆげなまっすぐな目で、中谷をじっと見上げてくるはずだ。
(ばかな)
 だが、それと気づいた瞬間に、中谷は我に返った。『ハレルヤ・ボイス』に熱狂するファンの一人のように、笙子に見惚れていた自分を恥じた。
「わかった」
 大きく息を吐いて、胸の中の不安定に揺れた熱いものを吐き出す。
「茶番は終わりだ。話をしよう。あんたが俺に尋ねたいことって、一体何だ?」
 できるかぎり冷たい口調で言い放つと、一瞬笙子の顔が泣きそうにゆがんだ。視線を逸らし、唇を噛む。その表情がひどく傷ついたものに見える。
 中谷の胸にで何かがずきりとうずく。
 だが、笙子はそれ以上は崩れなかった。
 眼を閉じ、何かを思い出そうとするように深呼吸すると、笙子の顔から表情が消えた。人形のように透明な、けれども感情のない顔になって、中谷を正面から見据える。
「……あなたの妹さんのことについて」
 ひんやりとした静かな声が響いた。
「妹?」
「あの日は、話せなかったから」
 続いた笙子のことばに、中谷のプライドが刺激された。もし、笙子に会えたなら、ああも言ってやる、こうも言ってやると思っていたのに、まともなインタビューさえできなかった屈辱感が甦る。
 中谷は煙草に火を点けて、深く吸い込んだ。眉をひそめる笙子にゆっくりと吹き付ける。
「そういや、俺の方でも聞きたいな。何で、あんた、深雪のことや俺のことを知っていたんだ?」
「あなたと妹さんのことを知っていたのは偶然よ」
 一瞬目を伏せた笙子は、すぐに中谷に対抗するように突き放した口調で応じた。
「でも、彼女が自殺したのは知らなかった」
 黒い眼はたじろがずに中谷を見つめたままだ。
「コンサートの後で死んだ人がいるからって、警察に話を聞かれたの。でも、私には答えようがなかった。気になったから調べさせたわ。……想像以上の数だった」
 笙子は中谷を見据えていた眼をわずかに曇らせて逸らせた。
「私の責任だとは思いたくない……でも、無関係だとも思えない」
 小さく息を吐く。
「だから、調べてきたわ、何とかしたくて」
「ほう、じゃあ、あんたの責任じゃないって言うんだな?」
 中谷はじり、と胸を焼いたものを吐いた。
「深雪は自殺なんかする奴じゃなかった。あの日だって、本当は俺と一緒にあんたのコンサートに行くはずだったんだ」
「あなたが?」
 ふわりと驚いたように笙子の目が開いて、中谷はいらだった。
(なんでそんな顔をする)
 俺が出向いちゃいけないのか、と噛みつきけかけたのをようよう自制した。
「深雪が誘ったからだ。俺が行きたかったわけじゃない」
「そう」
 ことり、とまた笙子の顔から表情が消える。
「とにかく、あの日、俺は行けなかった。家で、深雪が帰るのを待っていて、随分遅かった。心配して、駅まで迎えに行ったんだ」
 駅はごった返していた。ホームにみっちりと人が詰まり、身動きできないぐらいだった。
 何でも電車が遅れたのだという。投身自殺があったのだ、と。
 それでも、中谷は深雪のことだとは思わなかった。はた迷惑な奴がいる、そう思った。その電車に深雪が乗っていたのかも知れないとさえ思っていた、無事であればいいのにな、と。
 その中谷の携帯に連絡が入った。すぐ来い、と示された先は警察で、そこで中谷は深雪の自殺を知った。
 遺体はばらばらで、花柄のワンピースさえ引きちぎられたボロ布で、あの暗くてしんとした小部屋で、中谷の人生も引き裂かれて横たわっていたのだ。
(どうしてだ、どうしてあんなことになってしまったんだ、いったい何が悪かったんだ)
 胸に膨らんだ激情に一瞬ことばをなくした中谷に、それでも笙子は静かな目を向けた。
 だが、その目には、さっきよりも数段光の強い威圧的なほどの力がこもっていた。
「中谷さん、『ソシアル』っていうグループを知ってる?」
「『ソシアル』? ああ」
 中谷は過去から引き戻されて瞬きした。記憶を探って、何とかようやくその名前を思い出す。
 『ソシアル』というのは、笙子が売れ出すのと前後して目立ち始めたグループだ。コンサートやテレビ出演などはせず、もっぱらCDで音楽活動を続けている。
「妹さんが『ソシアル』を聴いていたかどうかを知りたいの」
 笙子は生真面目な顔で言った。
「『ソシアル』の、それも、特に『ソーシャル・ワンダーランド』を持っていたかどうかについて」
「どうしてだ?」
 中谷はてっきり中谷自身のことや深雪の自殺の理由について聞かれると思っていた。
「それが、何の関係がある? 深雪は『ソシアル』のコンサートの後に自殺したんじゃない、あんたの歌を聴いた後に死んだんだぞ?」
「もし…私の想像が当たっているなら…」
「笙子!」
 言いかけた笙子のことばは、響いた猛々しい声に遮られた。
 どうしてこの場所を割り出したのか、公園の入口からキィがすさまじい勢いで走り込んでくる。あっと言う間に中谷達に近づくと、不快さ百二十パーセントといった顔で、キィは笙子と中谷を等分に見た。
「やっぱり。こんなことじゃないかと思ってたんです。笙子、この男は危険だと言ったでしょう?」
 キィは中谷の視線で笙子が汚染されてかけているとでも言わんばかりに、二人の間に割って入った。
「ごめんなさい。でも、もし、中谷さんが協力してくれるなら…」
 笙子が弁解するのに、キィはますます顔をしかめた。
「三流雑誌記者の協力を求めるぐらいなら、わたしが、他にもっと有力な情報を探してこられます。第一、彼は、あなたを憎んでるんですよ、そうでしょう?」
 キィは笙子の弁解に耳も貸さず言い放った。びくりと笙子が体を震わせて、中谷を見る。中谷はうなずくことも、ましてや否定することもできないまま、笙子を見返した。
「行きましょう、笙子」
「あ」
 丁寧に、それでも有無をいわさぬ強引さで、キィは笙子の手首を取った。中谷とは一切眼を合わせないまま、その場から笙子を連れ去ろうとする。
「あの、ごめんなさい」
 笙子がためらいを振り切るように、中谷に向かって早口に謝った。
「でも、今のことは大事なの…ぜひ、調べて、中谷さん、お願い」
「お願いすることなんてありません」
 キィは吐き捨てた。
「お願いは人間相手にするもんです」
 中谷に反論する時間さえ与えず、キィは笙子を引きずるように公園を出て行く。
 そうなるとさすがに、笙子もそれ以上は抗うことを諦めたらしく、振り返り振り返りしながら、キィと一緒に姿を消してしまった。
「なあーにが、お願い、だ」
 その姿を見送った中谷は、笙子の姿が完全に視界から消えてしまってから、ようやく我に返った。
『お願いは人間相手にするもんです』
(俺は人間じゃねえのかよ)
 キィの不快感をまるまる注ぎ込まれたようだ。
(何だ、あいつは。笙子を人形みたいに扱いやがって。話の途中だったのがわからねえのか)
 いらいらと向きを変える。ふ、と笙子がキィの手を振り払って駆け出してこないかと未練がましく入口を見てしまい、中谷は不快さが増した。
「何してんだ、俺は? 呼び出されてあんみつ頼んで、わけのわかんねえこと言われて……『ソシアル』? それが…どうしたって……?」
 ぼやきながら、幻を振り切るように向きを変える。
(また、連れ去られた)
 自分の手の届かないところへ、また、深雪のように連れ去られた。
 そんなつぶやきを胸の中で繰り返しているのに気づいて、舌打ちする。
 ことさら速めた足は、気を逸らそうと考え始めた『ソシアル』と深雪の自殺の関わりに、没頭するにつれ、なお少しずつ速くなっていった。
 予感がしたのだ。
 何かとんでもないものを探り当てそうな予感。
 これまで一度も外れなかった、それゆえ中谷が雑誌記者としてやってこれた、いわゆる本能、に引っ掛かるものがある。
 中谷は通りへ出て店に飛び込んだ。
 目についた数枚の『ソシアル』のCDを買い込む。
(これで万が一、深雪のコレクションに『ソシアル』がなくても大丈夫だ)
 何かが見つかれば、また笙子に連絡が取れる。
 中谷は続けた自分のことばを聞こえないふりをした。久しぶりに駆け出す足元がふわふわしているのも考えないことにした。
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