『ハレルヤ・ボイス』

segakiyui

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鮮烈な傷み
濃厚な関わり
人生を変える衝撃的な出会い

恋が備える全てのものを
愛が少しずつ壊していく

柔らかに包むこと
曖昧に寄り添うこと
お互いの間の僅かな距離を保ち続けること

制御されて訓練されて
ささやかで地味な日々を繰り返す

けれどたぶん
生きることの真下にあるのは

頼りなくて
すぐに離れる
その指先をまた繋ぐこと


15

 公園の近くの甘党喫茶はまだ学校帰りの学生が入ってこないせいか、静かで落ち着いている。
 そこに今、奇妙な緊張が走っているのは、さっき遅れてやってきた男がこの場所にいささか不似合いな高級なスーツを着ていて、如何にも秘密めいた出逢いのように濃いサングラスを端正な顔にかけていたことと、どうやら待ち合わせていたらしい相手が、これまたいかにもこの場所に合わないよれたネクタイと草臥れたスーツの中谷だったということによる。
 周囲の視線は、前にも増して痛い。
(どうして毎回毎回ここなんだろな)
 中谷は手持ち無沙汰にテーブルの上で指を遊ばせながら、目の前に座るキィを見た。
「それ、外せよ」
「人目がある」
「十分目立ってるって」
 ぼやいたことばはキィの耳に入らなかったらしい。
 手にしていた書類鞄から、雑誌を二冊抜き出して、テーブルに置いた。いそいそと注文を取りにきた女の子をしばらく沈黙して見上げて相手を困らせたあげく、にっこり笑って「あなたが決めて下さい」なぞと仰け反るようなことを言って追い払う。
「拝見した。よく書けている」
「どうも」
 雑誌は全く違う分野のものだ。
 一冊は『ジャーナル』の今月号で、一番目玉は『「ソシアル」の闇』と題されたショッキングなレポートだ。取材記者の手記を元に構成されていて、『ソシアル』という音楽グループが『大月シンフォニア』と関わって、精神的なトラブルを起こすようなCDを発売していたこと、それに関わる被害と現状をまとめてある。そこには『ハレルヤ・ボイス』の不正コピーによる、音楽療法と銘打った、その実、本当の音楽療法からはほど遠い代替医療のあやうい実態とそれをフォローできない現行法律の不備が巧みに指摘されている。何より圧巻なのは、そこで『ソシアル』がらみで追い込まれていく『当社記者』の心理描写で、時間を追って明らかにされていく逃れようのなさが、発売当日から他紙をぶち抜いた。
 もう一冊は地味でこじんまりとした小冊子で、近代医療に変わる代替医療とその問題と効能を追及していこうとする市民グループが発行しているもの、今回の特集は『「ハレルヤ・ボイス」は存在するのか』というもので、『エンジェル・ホール』の成り立ちや科学的なデータを元にした『ハレルヤ・ボイス』の理論的な分析と今後への期待、その問題点が語られている。
「で?」
「で、とは」
「マネージャーとしては?」
「言っただろう、異論はない」
 キィは肩を竦めてみせた。
「『ソシアル』はお前以外にも問題を起こした人間が訴え始めて全品回収、『ソシアル・リボリューション』も発売中止。笙子は何かを越えてくれたらしく、ミニコンサートが成功した。評判も上々で、近く公演を再開する。言うことはない。『ハレルヤ・ボイス』叩きに奔走していた連中は『ソシアル』壊滅に熱中している。本当に操作しやすい人種だな、日本人は。だが」
 ふっと微かに表情が陰った。
「お前があのことを書くとは思わなかった」
「言っただろ、使えって」
 中谷はにやっと笑った。
「野良犬は野良犬らしくな、みっともなくやらせてもらった………けど、実際、ぶっ飛んでたから」
 一旦ことばを切ったのは、さっきの女の子がキィの前に抹茶アイスを置いたせいだ。ありがとう、と笑い返したくせに、キィは得体の知れない生物を見るようにガラスの器に盛られた緑の塊とそれにかかった白い生クリームに眉をしかめた。
「記憶がなくて、書き上げるのに困った。動画残してくれなかったんだな」
「あんなもの」
 ぼそりとキィは唸る。
「残せるか」
 苦々しい口調には僅かな恐怖が滲んでいる。
 
 あれから二ヶ月たった。
 中谷はキィ管理下の病院に一ヶ月収容され、『ハレルヤ・ボイス』のケアと手厚い看護を受けた。
 中谷の心身の傷は不思議なほどに軽かった。一週間で薬なしに眠れるようになり、フラッシュバックもほとんど経験することがなく、二週間後には原稿を書き出していた。
 記憶を甦らせる行為で取り返しのつかない傷を負う、とキィは同意しなかったが、笙子はずっとその間側にいてくれたし、中谷も大丈夫だと確信していた。
(きっと)
 いろんな傷みも苦痛も、全ては意味があって、しかもそれが一番大切なものを手に入れられたという結末に繋がったからなのだろう、と中谷は思う。
 あの黄金の光の中で、中谷は自分の人生の意味を全く一から組み直してしまったのだ。
 退院してまず最初にしたのは、部屋に残された深雪の形見の整理だった。
 いつまでも傷みを抱え続けたままで、それを周囲に訴え続けて、これほど長く引きずった。だが、いつかの夢で見たように、深雪はとっくに彼方の空へ旅立っていて、こんな地上のもろもろなんぞ、もう必要としていないだろう。
 そう思うと、不思議に悲しさが懐かしさに変わっていって、まるで自分の古いアルバムを焼くように、少しずつ整理をすすめられた。
 残したのはあの写真一枚きりだ。
 深雪が自殺しないで、中谷が傷を負わないで、笙子に関わらないで、あんな目に合わないでいられる人生がもしあったとすれば、確かにその方が絶対いい。幸福で自然で安楽だ。
 けれど、中谷が過ごしてきた人生だからこそ、あの身体中が震える凄まじい瞬間を経験することもできたわけで。
 今もあの瞬間を思うと、表現しがたい波が身体の内側に甦る。
 キィが動画を廃棄してしまったのは入院中に聞いた。手違いで破損した。そう言った相手の目が珍しく中谷から泳いだのに、夢の中のキィの絶叫を思い出した。
(それほど、酷い状態だったのか)
 あんなもの、ということは、多少はキィは中身を見たのだろう。そのうえでの廃棄処分、だったのだろう。冷酷で笙子のためなら何でも犠牲にする男があれを廃棄した、ということが、その酷さを物語る。 
 見てみたかった、と思った。
 それは、まともに頭が働いていない状態の人間というものを客観的に知りたいという好奇心だ。それが自分であるならなおさら、どこが止まり、どこが暴走していくのか、その真実を知りたい。それがどういうものなのか、それが何なのか、知りたい。
 笙子の心に宿る貪欲で昏い欲望ならば、中谷の中にも蠢いている。もう一度、同じ目に合いたいなどとは思わないが。
「おかしなことに使われて、『ハレルヤ・ボイス』を妨害される恐れがある」
 キィがぶっきらぼうにつぶやいて、中谷は我に返った。相手の口調に怒りがこもっている。だが、その底には、微かだけれど温かな、中谷への配慮みたいなものを感じる。
 『ハレルヤ・ボイス』で癒されてから、人の内側のそういう細かなニュアンスを感じ取れるようになった。感覚が新鮮で敏感だ。それが妙にくすぐったい。
「……御礼を言った方がいいんだよな?」
「無用だ」
 むっつりと応じたキィに苦笑する。正直に答える相手ではない。
「きぃ」
 あの時の口調を思い出して意識して使ってみると、びくりと相手が体を揺らせた。きつく寄せた眉がぴりぴりしている。
「ありがとう」
「なれ合う気はないからな」
「わかってる……だが」
 からかうのはやめた。少し態度を改める。軽く頭を下げながら、
「助けてくれて、感謝してる」
「もういい」
 キィはうっとうしそうに唸った。
「お前にそんな殊勝な態度は似合わん」
「似合わないと言えば」
 中谷は思い付いて声を潜めた。
「大月に何をやったんだ?」
「ああ」
 キィはひんやりとした薄笑いを滲ませた。
 中谷が入院している間に『ソシアル』絡みの訴訟があったのは知っていたが、大月が『大月シンフォニア』で錯乱状態で発見されたのは退院してから聞いた。
 中谷を浴槽に放置し、おそらくは何かの用があって、大月は一旦診療室へ戻ったらしい。だが、そこで何かが起こって、大月は大きなトラブルに見舞われた。一応の発表では、今まで診療した患者から逆恨みされて襲われたのだろうということだったが、発見されたとき、大月は頭を殴られた状態でヘッドフォンを固定され、診療室のベッドに縛りつけられて悲鳴をあげていたらしい。
 流れていたのが発売前の『ソシアル・リボリューション』の原盤で、それを持っていたはずの『ふぇいく』も責任者は行方不明、しかも、少し前に中谷を刺した田尾の診療記録だけではなくて、『ソシアル』CD制作に関して主要な助言を与えていたらしい資料まで見つかって、一連の事件は大月が自分の音楽療法の知識と技術を悪用したものである可能性が疑われており、田尾殺害にも噛んでいたかもしれないと言われている。
 大月はまだ入院中だ。十分な事情聴取がどこまで行えるかあやしいとも聞いた。
「恨みは買わないほうがいい」
「派手なことをやったな」
「中谷」
 キィは呆れたように見返した。
「そんなにわたしは信用がないのか」
「じゃあ、お前じゃないのか」
「……自分のしたことを逐一説明する犯罪者はいないと思うが」
「大月はやったぜ?」
「あれは」
 キィは唇の片端を吊り上げた。
「独裁者だ」
「は?」
「独裁者は自分の成果を語りたがる。孤独に耐え切れないからな」
「今のお前みたいだな」
「なに?」
「やってない理由を言い続けてる」
 中谷の突っ込みにキィは重い溜息をついて話を変えた。
「どうして『ジャーナル』以外にも記事をのせた? こっちは署名入りだし、この市民グループは小さいが海外の研究機関との繋がりがある。内容的にも質のいいレポートだ。お前に取材を頼みたいというやつが出てくるかもしれん」
「ああ」
 中谷はぼんやりと目の前のクリームあんみつに目を落とした。
「『ジャーナル』を追い出されたんだ」
「ん?」
 キィが興味深そうに覗き込むのに、無理して笑ってみせる。
「俺みたいなトラブルメイカーを抱えてるほど暇じゃねえって。置き土産に違う方向でもう一本書けって言われて」
「ふん、書いたら、そっちへ流された、か」
「ああ」
 『ジャーナル』用の記事を一読し、ひとごとのように言い放った高岡を思い出す。「お前なんざ、用済みだ。この前の奢りはこれでちゃらにしてやるが、もう面倒見切れねえ」。
 いずれは首を言い渡されるだろうと思っていた。今回の件は手間暇かかりすぎてしまった。高岡だから仕切れたもの、他紙ならとっくに切られてる。
 納得して引き下がろうとした中谷に、高岡はもう一本の原稿の行き先を示した。「お前みたいにしつこくて納得するのに時間がかかるのは、こっちの方が向いてるだろう」。
「……食えない男だな」
 キィが複雑な顔でつぶやく。
「確かにフリーライターの方がお前にとってはいい」
 『ジャーナル』はどこまで言っても三流ゴシップ紙だ。居直ってその世界を泳ぐ高岡ならまだしも、中谷の若さを惜しんでくれた、そうキィにも通じたらしい。
「……ああ」
 既にもうニ件ほど、取材依頼の申し込みがあった。時間と手間はかかりそうだが、突っ込んで行けば面白くなるかもしれないネタだ。
 病み上がりで、定職を失った中谷には渡りに船というか、そちらへ向いて歩くしかないというか。
 退職金はないが支度金だ、と高岡は予想以上に支払ってくれている。もうしばらく食うには困らない。
「キィ」
「うん?」
 難しい顔で抹茶アイスの生クリームをつついていた相手に、中谷は尋ねた。
「どうして、『ソシアル』を放っておいた?」
「……」
 入院している間、眠れなくなると、中谷は何度も事件の流れを構成してみた。
 『ハレルヤ・ボイス』の成り立ち、笙子の意図、『ソシアル』の関わり、大月の狙い、田尾の絡み。
 だが、微妙にどこかで引っ掛かるのは、その気になれば、人の命なぞ何とも思っていなくて、それこそ笙子のためなら革命さえ起こしかねないこの男が、いくら笙子の命令とは言え、どうして『ソシアル』を放置していたのか、ということだ。
 もっと早くに、もっと笙子が傷つかない介入が、いくらでもできたろうに。
「大月のことは知っていたのか?」
「……知っていた。だが、誤解するな」
 ちらっとキィは鋭い視線を上げた。
「お前が使われるとは思ってなかった」
「ああ、そう、だろうな」
  全く予想していなかったわけではあるまい、と中谷は思った。現われるタイミングがいつも良すぎる。特に、大月に拉致されてぎりぎりのところで飛び込んできたのは、大月に監視をつけていたとしか考えられない。
「笙子が待てと言ったのか……?」
 尋ねた声がつい掠れてしまったのは、それでも微かな傷みの芽がどこかに残っているからだろう。
「……苦いな」
 キィは抹茶アイスを掬い上げて舐め、眉をしかめた。
「和食は合わん」
「……それは和食、か?」
「抹茶だろう?」
「ま、あ、そうだが……」
 答えた中谷に、キィが淡い苦笑を浮かべた。
「わからん」
「何が」
「何で、わたしじゃなくてお前なんだ」
「え?」
「わたしの方が笙子を愛してる。わたしの方が笙子の要求に答えられる。わたしの方がお前より優れてる、全てにおいて」
(言い切るか、そこまで)
 呆気に取られている中谷を強い視線で睨み上げてきた気配がした。
「なのに、なぜ、わたしじゃなくてお前なんだ……日本人じゃないからか」
 語尾が微かに震えて、ふいに気づく。
(こいつ、本当に)
 笙子が欲しくて、笙子に必要とされることを求めて、ただそれだけのために側にいるのだ。
 『ソシアル』を放っておけば、誰かが監視し対策を練らねばならない。『ソシアル』があるかぎり、キィは、それに苦しむ笙子の不安を慰め、誰よりも何よりも笙子が求め必要とする様々な手配をする、ただ一人の人間でいられる。
 そして、これほど何もかもが揃った男のただ一つの劣等感が、笙子と同じ人種じゃないということ。
「キィ」
「何だ」
 拗ねているような声に溜息をついた。
「そうじゃない」
「笙子の気の迷いか?」
「おい」
「同情か?」
「あのな」
「じゃあ……可哀想な捨て犬に対する憐憫か?」
 そんなことではないと百も承知だろうに、ひねくれて尋ねてくるキィに思わず笑ってしまった。
「余裕だな」
 むかついた、という顔になる相手に、真面目に答える。
「そりゃな、お前が何でも持ってるからさ」
「………は?」
 ぽかんとキィの顔が惚ける。
「お前は地位もあるし金もある。力も才能もある。外見もいいし、性格も、たぶん、悪くない」
「ほっとけ」
「で、俺には何もない」
「もちろんだ」
「笙子も同じなんだ」
 今度は声さえ出せなかったらしい。開いた口がそろそろと閉じる。
「笙子も、何もねえから」
「……なぜだ」
「あんたさ、『ハレルヤ・ボイス』以外の笙子だったら、好きになってたか?」
「もちろんだ」
 ことさら胸を張るキィに苦笑いする。
 本当に尋ねたかったのは『ハレルヤ・ボイス』以外の笙子を知っているのか、ということなのだが、知っていると言い張るだろう。それほど長い間側にいたのだという強烈な自負。
 けれど、そこには、掌をそっと握りしめて俯いていた笙子の姿などないのだろう。不安定で落ち込んでいて、自分の生きる場所はないのだと納得するしかない笙子に、自分がいると答えてしまうのだろう。『ハレルヤ・ボイス』を全開させたことなどない笙子に「何でも受け止められる」と保証してしまうのだろう。
 こちらの器の大きさなど、とっくの昔に笙子は見抜いている。そのうえでの「一人」の選択を、気づかない自分のプライドで見誤ってしまうのだ。
「お前、抹茶アイス、食えないだろ?」
「それが何の関係がある」
「笙子と一緒でも食えねえだろ?」
「……努力する」
「俺は食えねえよ」
 キィはわけがわからないと言った表情だ。
「甘いの、苦手だから。食えねえ、って言う。他のところ行こうって」
「笙子はがっかりするぞ?」
「がっかりするよな。それ見て俺もがっかりする。がっかりさせたから、がっかりする。で、それ見て笙子もがっかりするんだ、一緒に食えなくてがっかりする」
 お互いに寄り添えない無力さ。お互いに関れない距離。その遠さを、各々自分で抱き締める。その寂しさを、各々自分で受け入れる。
 一人ずつだ、一人ずつでしかないけれど、一緒にいようと手をのばせる。
「何が言いたい?」
「………だから、そういうもんなんだって」
 中谷は眉を寄せた。これ以上どう説明すればいいのか、よくわからない。
「二人で一緒じゃないところにがっかりして、がっかりしたなあって二人で思うんだ」
「………それは意味があるのか?」
「少なくとも日本人じゃないから、じゃねえよ」
 中谷はクリームあんみつを掬った。口に入れて顔をしかめる。
「甘え」
「食べられないんじゃなかったのか」
「いいんだ、後から塩辛いの舐めるから」
 つるっと口にした途端、中谷はそのことばのきわどさに気がついた。この後、ここで笙子との待ち合わせているのをキィに話していなかったことをふいに思い出して舌打ちする。おそるおそる顔を上げると、じっとこちらを見返したキィの顔がうっすらと赤くなっていってぎょっとした。
(気づいた?)
「ひょっとして……あのとき」
「部屋の外にいた。中では耐えられなかったから」
 中谷のマンションはあのとき小さな地震でも起きたように揺れていたらしい。地震報道がないのに、そのあたりだけが揺れていたと、ちょっとしたオカルト話になっている。
 部屋の中にいなかったのは、『ハレルヤ・ボイス』の強烈な振動のせいなのか、それとも中谷と笙子の、今から思えばかなりきわどいやりとりのせいなのか、キィははっきり言わなかった。
 険しく眉をしかめ、話は終わったと言いたげに冷ややかな顔で立ち上がって、中谷を見下ろす。
「ここの払いは頼めるな?」
「………お前………意外に純情……」
「うるさい」
 絶対零度の声で応じてキィはさっさと立ち去っていきかけ……振り返った。
「中谷」
「ん?」
「不安にならないか」
 サングラスの隙間から鋭い視線が投げられている。
「笙子のしていることも、大月と同じかもしれないぞ?」
「あん?」
「大月は『ソシアル』で、笙子は『ハレルヤ・ボイス』で、人を支配するのかもしれない」
 その瞳に過った怯えは、あのマンションの一室の外で、辺り一体を揺らすような『ハレルヤ・ボイス』の振動の中で、おそらくは耳を塞いで、ともすればその声に自我をむしられ引き千切られそうになる恐怖を必死に耐えていただろう時間の苦痛を思わせた。
「お前は、一つの罠から抜け出て、もう一つの罠に飛び込んだだけなのかもしれないぞ?」
「ああ……なるほど」
 中谷はうなずいた。
 キィが中谷の疑問を解きにだけ出向いてくるとは思わなかったのだが、本当はこれを中谷に尋ねたかったのだろう。
「お前、笙子が怖いのか」
「!」
 びくっと体を震わせたキィの顔色が青くなった。
「大丈夫だ」
 またクリームあんみつを掬う。舌先でスプーンから舐め取って呑み込み、やっぱ甘えな、とつぶやいて、中谷はぽつんと答えた。
「俺だけだ」
「なに?」
「『ハレルヤ・ボイス』が餌にするのは俺だけだ」
 キィが殺気立った顔でにらんだ。
「のろけか」
「違う。あれが入るのは俺だけだって言ってるんだ」
「入る?」
「俺は、からっぽなやつだから」
「……」
「次に俺が壊れれば、『ハレルヤ・ボイス』も消滅するよ」
 キィはサングラスを取った。真正面から中谷を見据える。
「中谷」
「ん?」
「お前なんか、大嫌いだ」
 言い捨てると、キィは身を翻した。

「中谷さん?」
 呼び掛けられて我に返る。
 いつの間にか、側に笙子が立っていた。
「お待たせしました」
 セーラー服姿でにこにこ笑う顔は、どこにでもいる少女に見える。
「待つのはいいが」
 中谷はちょっと肩を竦めて見せた。
「次は煙草の吸えるところがいい」
「わかりました。出ましょう」
 笙子が嬉しそうにうなずき、先に立つ。精算を済ませて後を追うと、
「クリームあんみつ、どうでした?」
 楽しそうに聞いてきた。
「甘かった……って、どうして食ったの、知ってる?」
「クリーム」
 笙子が少し背伸びして指先で中谷の唇を掠める。どきんとして体が強ばった。だが、相手は気づかない。ほら、ついてました、とにこやかに笑って、ぺろっとその指を舐めた。
「っ」
「? どうかしましたか?」
「いや……どこがいい?」
 ぼけてるのか天然なのか、普段の笙子はとんでもなく『がきんちょ』に近い。ぞくりと蠢いたややこしい気配を押さえ込みながら、中谷は前屈みになりかけた姿勢を慌ててよじった。
「お天気いいから、公園にしましょう」
「わかった」
 笙子は踊るように軽い足取りで、あのいつかの凄まじい声を響かせた公園に入っていく。コンクリートのそっけないベンチも、中央の円形の縁取りも、あの時と変わっていないのに、中心にある木々は燃え上がるような緑を弾けさせて、季節が夏になだれ込んだことを教えていた。
「ここでいいですか?」
「ああ」
 笙子はいそいそとベンチに座り、膝の上で手にしていたランチボックスを開けた。
 実は、退院してから一度でいいから一緒にお弁当を食べよう、と約束させられていて、しかもそのお弁当は笙子の手作りにするからということになっていたのだ。
「えーと……」
 覗き込んだ中谷を気にした様子もなく、笙子は中身をベンチに並べる。だが、その内容は。
「………」
 中谷は思わず目を見開いた。
 茶色と黄色まだらの焦げまくった卵焼き。おそらくは、『たこ』か『かに』かにしようとしたらしいぼろぼろのウィンナ。サラダのつもりだろうが、幅一センチはある生キャベツにふぞろいに刻まれたきゅうり、うさぎりんごをイメージするのがかなり難しい傷だらけの剥きりんご。
 極めつけは、いびつなボール状で千切れた海苔があちこちに張りついた掌大のお握り。
 ごくん、と唾を呑み込んでしまった。
(味は……大丈夫、だよな?)
 そろそろと、並べられた隣に腰を降ろす。
「たくさん、作ったんだな」
「はい、だって、中谷さんと、もうこれで、あ」
 言いかけた笙子はあはは、と笑って慌てて手を振った。
「そう、一緒に食べられるって思ったから」
「あ、ああ」
(ってことは、かなりの部分は俺が食う、わけだよな?)
「とりあえず、うん、もらおうかな」
 引きつりながら、添えられた箸でウィンナを摘む。
「頑張ったな、これ……たこだろ?」
 一か八かの賭けに、笙子はちょっと目を見開いた。すぐにとても嬉しそうに笑う。
「はい、そうです」
「だろ、うん、そうだと思った」
 ちょっと冷や汗をかく。
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