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4.導火線(1)
しおりを挟む秋晴れの気持ちのいい日だった。
「おはようございます、滝様」
周一郎の告別式は終わったにもかかわらず、いつもより一層黒づくめの服装をした高野が深々と頭を下げた。
俺を迎えてくれるはずの、もう一人の顔はない。周一郎の体が既に灰となり、細かな粒子となっている、それは俺にとってーーおそらくは高野にとってもーー実感のないことだった。
「にゃあん」
優しく甘えた声を上げて、ルトが足下へすり寄ってくる。青灰色の滑らかな体を俺の脚にこすりつけ、少し耳を倒し、小さく口を開けて、下げているボストン・バッグを邪魔そうによけ、再び俺に全身で甘えてくる。
「お前も淋しいのか」
俺はそっとルトの小さな体を抱き上げた。
床に置いたボストン・バッグに高野が静かな目を向ける。
「出ていかれるのですか?」
「……周一郎がいないんだ。俺のいる意味はない」
(そうだ、俺はもう、あいつに何もしてやれない)
答えながら、俺は妙に虚ろな気分になっていた。ふと、身内が死ぬというのはこんなものなのだろうか、とぼんやり考える。
「にゃ…あ」
ルトが頬に顔をすり寄せてきた。甘えているとも慰めているともとれる仕草、その温かみが急にあることを思いつかせた。
(本当に?)
俺の思考に気づいたように、きらっとルトが金色の目で俺を射抜く。
(俺は、本当に何もしてやれないのか?)
「マジシャン…だ」
俺はきっと、日本で唯一彼女の素顔を知っている。そして、その拠点としているところにも、ひょっとすると辿りつけるかもしれない。
「高野」
「はい」
「もう少し、俺をここに置いてくれ」
振り返った俺を、高野は眩そうに目を細めて見た。
「ひょっとすると、何かわかるかも知れない」
まさか、滝様が。
そう一笑に付されるかと思った予想は外れた。
「坊っちゃまから命を受けております」
「は?」
「滝様が望まれるなら、お好きなだけ御滞在頂くようにと」
また大家さんに追い出されるようなことになるんでしょう?
そうつぶやいて、サングラスの奥で微笑む顔が見えた気がした。
「周一郎が?」
「はい。もし自分に何かあった時は、滝様の望まれるままにするように、と」
高野は物寂しい笑みを浮かべた。
「…それは、最近、に…?」
掠れる声を絞り出した。
「いいえ、京都へお出かけになった直後です」
高野のことばに、優しくまとわりついてくるような周一郎の思いを感じ取った。
(周一郎……おまえ…)
守ろうとする、かの高みの翼を思わせる両の腕。
本当は、誰よりそれが欲しかったのは、周一郎だっただろうに。
(居場所が欲しかったのは、お前だろうが?)
沈んだ俺にルトが小さく鳴いて、腕を擦り抜け、軽い足音を立てて床に降り、肩越しに振り返った。来い、と言っているらしい。
俺はルトに付き従って外に出た。緑豊かな広々とした敷地の中を、俺を導いて、ルトは二つの墓標の前に出た。
真白な二つの墓標。
目にしみるような鮮やかさと冷たさで、俺の前にそれらはあった。
「周一郎」
そっと墓標に手を置いた。ぽんぽん、といつか周一郎がやっていたように叩き、最後にばちん、と叩き降ろして勢い良く背を向けた。
(待ってろよ、マジシャン!)
俺は、神経だけは他の誰よりタフなんだ。
「……っかしいな」
俺はうろうろともう一度道を戻った。
確かこの角だったはずだ。そして、そこから……?
五度目か六度目の、角を曲がるという行為を繰り返す。
見覚えのある街並、通り過ぎたような店構え、たぶん俺はあの時この道を行ったはずなのだ。なのに、心に引っ掛かる何かがあって、角を曲がった、そこから進めない。
「く、そっ」
ひどく妙な感じだった。進もうとするたびに、心のどこかから「違う違う」と叫ぶ声がして、手足がこわばってしまう。意地になって、倒れ込むのも想定内、一歩大きくそちらへ足を踏み出したとたん、
「きゃっ!」
「わ!!」
悲鳴とともにいきなりぶつかってきた塊に吹っ飛ばされる。
(マジシャンっ?!)
そんなことがあるはずはないと思いながら、そう閃いた次の瞬間、
「何してんだよ、このドアホッ!」
飛んできた罵声にぎょっとする。たぶん俺とぶつかって転がったのだろう、目の前で尻餅をついていた娘がぱっと立ち上がり、きつい目で俺を睨みつける。
「トロい顔していつまでも座ってんじゃないよ! 怪我でもしてんのかよ!」
「え、いや、あの」
すっかり気を飲まれて、俺は相手を見上げた。歳の頃、十六、七、黒の革ジャンと革ズボン、はっきりした顔立ちに化粧がよく似合っている。ショートカットの髪を無造作にかきあげ、見下すようにねめつけた。
「早く立ちなって、みっともない。それとも……あれ?」
俺を罵倒していた娘がひょいと視線をずらせる。
「由宇子さん!」
「へ?」
振り返ると、ベージュのニットワンピース姿のお由宇の姿があった。
「あら、志郎」
「あら、志郎って……じゃ、この人が滝さん?!」
娘が素っ頓狂な声を上げてげらげら笑い出す。どうやら俺を知っているらしい。だが碌な『知り方』じゃないのだろう、腹を抱えて笑いつつ珍獣でも見るような目に、むっとして急いで立ち上がる。
「日本に帰ってたのか?」
「ええ、ちょっと前にね。こっちで片付けたい仕事ができたものだから…」
ふ、と憐れむような、聖母マリアじみた表情を浮かべて続ける。
「周一郎が死んだ、と聞いたけれど」
「ああ」
思わず目を伏せた。
「そう、なんだ」
殺したのは俺らしいんだが。
お由宇なら、何かもっと有効な手立てを思いついたり手伝ってくれるかも知れない。だが、その前に俺は人殺し(間接的にでも)だと告白しなくちゃならない。それもまだ決心がつきかねた。だが、
「ところで、こんなところで何をしてるの?」
「う」
相変わらず、お由宇はまっすぐ焦点を突いてくる。
「大学は?」
「う」
「アルバイトは?」
「う~」
「どこへ行くつもり?」
「う、う~」
「この人、熊か何か?」
娘が容赦なく俺を指差して獣扱いした。
「違うわよ……違うから、何かをしようとしてるんでしょ?」
にっこりと微笑まれる。
だめだ、見抜かれている。
「実は」
「実は?」
「周一郎の件で、マジシャンって娘と俺が関わってるらしくて」
「マジシャン?」
ちかり、とお由宇の目が物騒な輝きを帯びる。
「それで?」
「居場所を知ってると思うんだ。だから、そいつの所へ行こうとしてるんだが、どうにもこっから動けなくなっちまって」
「へえ~べビーカーが要るんだあ?」
「動けない」
娘の茶々にお由宇は動じない。
「そうなんだ、早くしないと、あいつが逃げちまう」
「…志郎?」
「あん?」
「これを見て?」
お由宇は軽く頷き、首から外した銀のロケットをするりと俺の前に垂らした。突然の動き、思わずその揺れるロケットを眺める俺に、子どもをあやすような優しい口調で呼びかけてきた。
「銀のロケットよ。この中に何が入っていると思う?」
「さ、あ…」
ロケットはゆっくりと左右に揺れる。
どこかでこれとそっくりなものを見た、と思った。銀色の何かが視野を過ってゆっくりと動く。白い反射。白い面輪。白い顔。白い……月。
コーヒーはどこだろう?
「さあ、私が手を叩くとすべての暗示が解けるわ、3、2、1!」
パン、とお由宇の手が鳴った。びくっとして我に返る。
「あれ?」
違和感は足下にあった。
軽い。
「俺?」
「行きましょう、志郎。マジシャンが危ないわ」
「え?」
走り出すお由宇に慌てて肩を並べる。
「マジシャンが、危ない?」
聞き間違えたのかと思ったが、相手は真面目な顔をしている。
「危ないって…?」
走りながら尋ねた。
敵方は周一郎を始末した。危険なことはもう何もないだろう?
「あなたがいるでしょ」
お由宇が走りながらさらりと口にした。
「俺?」
「そう、今もこうして」
どんどん真実に近づいている。
「あ」
確かにそうだ、今の今まで角を曲がって、それから、がどうしてもわからなかったのが嘘のように、俺は先に立ってマジシャンの家に向かって走っている。
「志郎が進みにくかったのは催眠暗示が続いていたせい、でしょうね。目的を果たした後に追跡されないために、記憶の連鎖を切っておいた……けれど、それだけの用心をしていても、あなたはここまで来て…しまった」
見覚えのあるアパートが見えてくる。
「それほどあなたが鈍かった」
「おい」
「…わけ、じゃなくて」
軽く息を弾ませたお由宇が笑う。
「それほど、あなたと周一郎の結びつきが強かった。……それを利用しようとした綾野が、あなたに直接接触しているマジシャンをそのままにしておくとは……思えない……安全弁は幾つでもあったほうが…いい」
はっ、と軽くお由宇の呼吸が乱れた。もちろん俺はもう聞くだけで手一杯、ぜいぜいはあはあ言いながら、それでも何とかマジシャンの部屋のドアに飛びついた、その瞬間。
「ぶがっ!」
ドアが勢いよく開け放たれて、視界が火花に覆われた。
「どわあっっ!」
続いて小さな手が容赦なく俺を突き飛ばし、目一杯ぶつけた鼻を押さえて仰け反った俺は、ごっどぐっどしんっ、と擬音語満載で背後に転がる。
「待ちなさいっ!」
お由宇の制止の声、足音が乱れる。
「理香さん!」
「わかってる!」
「うぐぐぐ」
涙でぼやぼやした視界の中、背後からついてきていた革ジャンの娘が応じて、そちらへ走っていく娘を遮ろうとする。だが、一瞬遅く、身を翻したマジシャンが一気に道路の向こうへ走り抜けていこうとする。
だが。
「あああっ!」
ぎゃあああんっ。
悲鳴とも金属音とも取れる無機物な叫びが響き渡り、逃げ切ろうとしたマジシャンと理香の間を一台のバイクが横切った、と同時に、先に走っていたマジシャンの体がぐきょっ、と妙な角度に折れ曲がるように傾ぎ、次の瞬間、ボロ切れのように吹っ飛ぶ。
「くそっっ!」
理香が自分の方へ向かってきたバイクからかろうじて飛び退く。かなりの距離をとったように見えたが、バイクの男が握っていたのは鉄パイプ、ぎりぎり僅差で理香を掠めてあっという間に走り去る。
ちぃっ、と高い舌打ちが聞こえ、俺の前からお由宇が走っていく。
「ナンバーは!」
「だめ、ナンバープレート外してる! 狙ってやがった、あいつ!」
振り返った理香が激しく顔を振った。
「ブレーキもかけてねえ!」
「かけてたら自分もただじゃすまないわよ」
人一人、たとえ少女にせよ、人間の体は重い。バイクのバランスを保ったまま、相手だけをなぎ倒すには、それなりの度胸と腕は必要、とお由宇は冷めた目でつぶやいた。
吹っ飛んだマジシャンは、予想もしていなかったのだろう、いやむしろ、バイクが自分と理香との間を遮ってくれると思ってさえいたのかもしれない。道路の端に人形のように奇妙な形で転がった彼女にゆっくり近づくお由宇の後から、おそるおそる覗き込む。
「…っ」
同じものを見た、和野岬の海岸で。
遠い視線、微かな驚きと穏やかさの同居する、ぽっかり空いた魂の虚ろを思わせる目。
何だよこれは。
「……綾野、か?」
「…たぶん。理香さん」
「……さっきそこに居た人が連絡してくれてた」
理香が顎で、そこから一目散に走っていく背中を示した。
「面倒なことに関わり合いたくないらしいね」
こっちも同じだ、と肩を竦めてみせる。
「帰ろう、お由宇さん」
そいつはもう戻ってこないよ。
言い放つ理香がちらりと何か言いたげに俺を見た。
「そうね。そっちの情報はすぐに入るでしょう……志郎?」
お由宇が同じように静かな声で続けて、ゆっくりと振り返る。
死体を目の前にしても全く動じない四つの目に見据えられて、俺は竦んだ。
「何、だよ」
思わず視線を逸らせる。逸らせた視界には、否応なく道路に転がっている死体が入ってくる。
ああそうだろう、綾野なのだ。綾野は手段を選ばない。自分の身を守り、自分の望みを叶えるためには、何人死なせても平気なのだ。
ぞくり、と背筋が冷えた。鳥肌が立って、足下が頼りなくなる。
どうもがいても捕まってしまいそうな気がする。知ぃらない、とここで投げ出しても、綾野が俺の死を安全弁の一つとして必要とするなら、俺の思惑おかまいなしに、今夜にでもコンクリート詰めになっているのかもしれない。
「志郎?」
お由宇がもう一度呼びかけて、振り返った。
聖母マリアじみた微笑。
いいのよ、と語る瞳。
あなたが嫌ならいいのよ。
でも、な?
思わず掌を開いて見下ろした。
あの時、俺は周一郎を救えなかった。
なのに、周一郎は俺を救ってくれた、自分の退路を断つことで。俺が殺人犯になることから。俺が一緒に死ぬことから。俺が負い目を背負うことから。
命の借りは、いつ精算されるのだろう?
園長の話を思い出す。
太陽は全ての道を照らしている。
「俺は…」
できれば、自分がぎりぎりのときに、助けが欲しい。
自分がぎりぎりのときに、今果たさなかった借りを返せと言われて受け入れられるほど、器の大きな人間じゃないんだ。
「…お由宇…」
「はい?」
「……コーヒーを一杯奢ってくれ」
もちろん、出世払いで。
かたかた震えながら、それでも胸を張って伝えると、理香が呆れた顔になり、お由宇がくすりと笑った。
「いいわ……あ、そうだ」
私の家で面白い人に会うかもしれないわよ?
「面白い人? ……厚木警部とか」
「は! デカが居るならあたしが行きゃしないだろ! ばかじゃね?」
理香が嘲笑うのに、事情を知らないだけでも馬鹿なのか、と思い……ふと、足下を見下ろした。
「……ごめん」
虚ろに開いたマジシャンの瞳を閉ざす。ひんやりと冷たくて固い感触に、あの時伏せられていたとはいえ、薄く開いていた周一郎の目も、こうして閉ざしてやればよかった、と胸が詰まった。
辛い現実の裏側を見る傷みから、少しでも守ってやればよかった。
けれど、俺は馬鹿だったから。
何も知らなかった、から。
「ごめん」
マジシャンと呼ばれるこの娘が俺を操った、けれど彼女もまた綾野の操り人形でしかなかった。どこかでその鎖を切ることができたとしたら、俺が君に操られなければ良かったんだ。俺が何が起こってるのかを見ないふりをしなければよかったんだ。
周一郎がいなくなる前に、俺がもっと、世界をよく見ていればよかったんだ。
俺が見ているから、安心して眠っていろ。
そう言ってやれば、よかった。
「……志郎!」
「今、行く」
きっと口を結び、立ち上がり。
何かがいきなりだらだらと鼻から口へ。
「おわ! おっさん、鼻っ!」
「むぐぐぐ」
「志郎、早く」
ハンカチを出したお由宇がいきなり流れ出した俺の鼻血に溜め息をつく。
…………やっぱり慣れないハードボイルドなんてするべきじゃない。
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