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『あなた向きの罠』(5)
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罠か。
じっとりとした汗が、脇の下から滲んできた。
俺を夢の中で弄ぼうとする罠。
どうする。このままでは、押し付けられたイメージがどんどん具現化してくるだろう。イメージに負ければ、自分で自分の首を絞める……常に攻撃をかわし続けていなければ。ひと時も気が抜けなくなってくる。いつかは疲れ果ててしまうだろう。その先に残された運命は、狂気か死か。
男は背後から吹き寄せてくる風にも、体を強張らせた。
この風だって、いつ、毒ガスに変わるかわかったものじゃない……いや、そう考えてしまうことが、既に……。
男は身を翻して駆け寄り、魔を閉めた。風の匂いが異様なものになったのを感じたのだ。ガラスを隔てて見る見る変貌していく街を見つめる。灰色朱色の混じった重苦しい大気、何かに叩き潰されたような廃墟と化したビル群、寸断された道路のあちらこちらで車が黒い煙と紅蓮の焔を上げて燃えている。緑は一本残らず炭化した黒い塊になっており、悲鳴とも怒号ともつかない唸りがガラスを押してくる。この地獄の光景を作り出した原因を考えようとする心を、男は必死に制した。
それよりも、だ。
ことさら、目を閉じ耳を塞いで、自分が置かれている状況を思い出す。
それよりも、俺はここから脱出しなけりゃならない。ここから出てしまえば、何の危険もないんだ。
目を、覚まそう。
男は言い聞かせた。
目を、覚ますんだ。
以前、試してみたことがある。夢だとはっきりわかった時に、現実を意識に取り入れて、自分で目を覚ますんだ。
寝かされている部屋を思い出す。細部に至るまで、くっきりと。そして、自分の寝ている姿。始めは空想で構わない。そうだ、と思い込めばいい。
自分の寝ている姿。次第に周囲が明瞭になってくる。ベッドの男は苦しそうに寝返りを打った。それを見つめている二人の男。一人は製薬会社の社員、もう一人はかつての同僚。唸る男を楽しそうに見つめている同僚が、何事かを社員に囁く。社員が頷き、二人はくすくすと忍び笑いをした。
見ていろよ。もうすぐ、目が覚める。手足に感覚が戻ってくる……眠っているベッドの感触も……。
と、社員が同僚に指示されて、部屋を出て行った。戻ってきた時には、片手に注射器を持っていて、ためらいもなく針の切っ先を眠っている男の腕に突き刺した。
そんな、馬鹿な。
強烈なショックが男を襲った。
見る見る周囲がぼやけていく。頭の後ろから引っ張られるような脱力感が漂ってきて、男を夢に引き戻していく。
男は夢の中に閉じ込められたのだ。
どうすればいい。
夢から出られない。
悪夢は次々と襲ってくるだろう。
目覚めようとしても、薬を注入され続けて、二度と目覚められなくなるのではないか。
どうしたらいいんだ。
男はいつしか再び、あの乳白色の空間に戻されていた。べったりとした白い空間。四方に引かれた黒い横線。
音はない。危険の徴候は、いまはどこにも見当たらない。けれども、ここに確実に罠がある。それに気づいた途端、男は悪夢の中で彷徨わなくてはならない。
どうする。ここで、ただひたすら、何か救いが来るのを待つか。救いなど来るのか。来るのは、あの同僚の悪意に満ちた働きかけだけではないのか。第一、こんな何の刺激もない所にいたら、逆に静けさで狂ってしまう。それこそ、狂気に閉じ込められて、一生を失ってしまう……。
男は、もう……っと膨らみ出した手前の平面を、食い入るように見つめた。
自分の狂気か、それとも、与えられた罠なのか。
だめだ、本当にこんなことを考えている場合じゃない。気持ちを落ち着けて……そうだ、とりあえず、この中で休息を取ろう。今までのことだけでも、自分は随分疲れている。このままじゃ、何が起こるにせよ、充分に対応することなんてできやしない。
薬は今入れられたばかりだ。新しいイメージを入れるにしても、もう少し効果が出てきてから、と考えるだろう。少しは時間に余裕があるわけだ。イメージが強制的に入れられる前に、自分でイメージを固定させるか、出来る限り自分の望むイメージを保てるように、力を蓄えておくに越したことはない。
ゆっくりとした休息、をイメージしよう。
男は平面に座り込んだ。
目を閉じ、深く呼吸して、自分の体に意識を集める。自分の体、自分の事だけ、自分の間近の空間だけを考える。
服は脱ぐ。一糸も纏わない。
ここは風呂場だ。秋の夜、仕事から疲れて帰ってきた俺は、よく温まった風呂場で体を洗い、さっぱりした気分で湯船に入っている。
檜の湯船、手足を充分伸ばして浸かっている。窓の外には秋の月が煌々と輝いているが、俺は目を閉じてひたすら温かい湯に身を任せている。鼻をくすぐるのはつんとするくせに不快ではない、森の薫りだ。ひたひたと揺れる湯が体の隅々を優しく包み込んでいる。耳に湯が当たる音が波の音のように響き始める。深い海。豊かな海。
ああ、この感覚には覚えがある、と男は呟いた。
深い眠りと休息。
新しく生まれ変われる朝が約束されている期待に満ちた海の音。
母親の胸の奥にあった、あの海の音。
気持ちがいい。
そうだ、しばらく眠ろう。そう、ちょっとの間でいい。ちょっとの間……あいつらが攻撃を仕掛けてくるまでの、ほんの一瞬の休息………起きたらどうするか見ているがいい。
その時こそ、思い知らせてやる。
男はゆったり海に沈んだ。
じっとりとした汗が、脇の下から滲んできた。
俺を夢の中で弄ぼうとする罠。
どうする。このままでは、押し付けられたイメージがどんどん具現化してくるだろう。イメージに負ければ、自分で自分の首を絞める……常に攻撃をかわし続けていなければ。ひと時も気が抜けなくなってくる。いつかは疲れ果ててしまうだろう。その先に残された運命は、狂気か死か。
男は背後から吹き寄せてくる風にも、体を強張らせた。
この風だって、いつ、毒ガスに変わるかわかったものじゃない……いや、そう考えてしまうことが、既に……。
男は身を翻して駆け寄り、魔を閉めた。風の匂いが異様なものになったのを感じたのだ。ガラスを隔てて見る見る変貌していく街を見つめる。灰色朱色の混じった重苦しい大気、何かに叩き潰されたような廃墟と化したビル群、寸断された道路のあちらこちらで車が黒い煙と紅蓮の焔を上げて燃えている。緑は一本残らず炭化した黒い塊になっており、悲鳴とも怒号ともつかない唸りがガラスを押してくる。この地獄の光景を作り出した原因を考えようとする心を、男は必死に制した。
それよりも、だ。
ことさら、目を閉じ耳を塞いで、自分が置かれている状況を思い出す。
それよりも、俺はここから脱出しなけりゃならない。ここから出てしまえば、何の危険もないんだ。
目を、覚まそう。
男は言い聞かせた。
目を、覚ますんだ。
以前、試してみたことがある。夢だとはっきりわかった時に、現実を意識に取り入れて、自分で目を覚ますんだ。
寝かされている部屋を思い出す。細部に至るまで、くっきりと。そして、自分の寝ている姿。始めは空想で構わない。そうだ、と思い込めばいい。
自分の寝ている姿。次第に周囲が明瞭になってくる。ベッドの男は苦しそうに寝返りを打った。それを見つめている二人の男。一人は製薬会社の社員、もう一人はかつての同僚。唸る男を楽しそうに見つめている同僚が、何事かを社員に囁く。社員が頷き、二人はくすくすと忍び笑いをした。
見ていろよ。もうすぐ、目が覚める。手足に感覚が戻ってくる……眠っているベッドの感触も……。
と、社員が同僚に指示されて、部屋を出て行った。戻ってきた時には、片手に注射器を持っていて、ためらいもなく針の切っ先を眠っている男の腕に突き刺した。
そんな、馬鹿な。
強烈なショックが男を襲った。
見る見る周囲がぼやけていく。頭の後ろから引っ張られるような脱力感が漂ってきて、男を夢に引き戻していく。
男は夢の中に閉じ込められたのだ。
どうすればいい。
夢から出られない。
悪夢は次々と襲ってくるだろう。
目覚めようとしても、薬を注入され続けて、二度と目覚められなくなるのではないか。
どうしたらいいんだ。
男はいつしか再び、あの乳白色の空間に戻されていた。べったりとした白い空間。四方に引かれた黒い横線。
音はない。危険の徴候は、いまはどこにも見当たらない。けれども、ここに確実に罠がある。それに気づいた途端、男は悪夢の中で彷徨わなくてはならない。
どうする。ここで、ただひたすら、何か救いが来るのを待つか。救いなど来るのか。来るのは、あの同僚の悪意に満ちた働きかけだけではないのか。第一、こんな何の刺激もない所にいたら、逆に静けさで狂ってしまう。それこそ、狂気に閉じ込められて、一生を失ってしまう……。
男は、もう……っと膨らみ出した手前の平面を、食い入るように見つめた。
自分の狂気か、それとも、与えられた罠なのか。
だめだ、本当にこんなことを考えている場合じゃない。気持ちを落ち着けて……そうだ、とりあえず、この中で休息を取ろう。今までのことだけでも、自分は随分疲れている。このままじゃ、何が起こるにせよ、充分に対応することなんてできやしない。
薬は今入れられたばかりだ。新しいイメージを入れるにしても、もう少し効果が出てきてから、と考えるだろう。少しは時間に余裕があるわけだ。イメージが強制的に入れられる前に、自分でイメージを固定させるか、出来る限り自分の望むイメージを保てるように、力を蓄えておくに越したことはない。
ゆっくりとした休息、をイメージしよう。
男は平面に座り込んだ。
目を閉じ、深く呼吸して、自分の体に意識を集める。自分の体、自分の事だけ、自分の間近の空間だけを考える。
服は脱ぐ。一糸も纏わない。
ここは風呂場だ。秋の夜、仕事から疲れて帰ってきた俺は、よく温まった風呂場で体を洗い、さっぱりした気分で湯船に入っている。
檜の湯船、手足を充分伸ばして浸かっている。窓の外には秋の月が煌々と輝いているが、俺は目を閉じてひたすら温かい湯に身を任せている。鼻をくすぐるのはつんとするくせに不快ではない、森の薫りだ。ひたひたと揺れる湯が体の隅々を優しく包み込んでいる。耳に湯が当たる音が波の音のように響き始める。深い海。豊かな海。
ああ、この感覚には覚えがある、と男は呟いた。
深い眠りと休息。
新しく生まれ変われる朝が約束されている期待に満ちた海の音。
母親の胸の奥にあった、あの海の音。
気持ちがいい。
そうだ、しばらく眠ろう。そう、ちょっとの間でいい。ちょっとの間……あいつらが攻撃を仕掛けてくるまでの、ほんの一瞬の休息………起きたらどうするか見ているがいい。
その時こそ、思い知らせてやる。
男はゆったり海に沈んだ。
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