『segakiyui短編集』

segakiyui

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『時の妖精』

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 まさか、こういう形で死ぬとは思わなかった。
 俺はその部分だけひどく熱い腹を見ながら思った。どくどくと打つ心臓の音に合わせて、真紅のドームが膨れ上がり崩れていく。川となり海となって流れていく貴重な血。
 部屋の鍵が開いていた。不審に思ってドアを開け、不用心に入ったのがまずかった。散らかった部屋に思わず声を上げたのも、物音の方向に歩いたのも。奥の寝室でしゃがみ込んで金庫をいじっていた男に気がついたのはもっとまずかった。
 立ち上がり走り寄ってきた男の手には包丁があった。跳ね飛ばされて転がり、逃げる男を呆然と見送っていた。水音に気づいて下を向くと、ぐっしょり濡れた腹が見えた。同じように濡れている脚も驚くほどきれいな紅だった。
 AB型は輸血してくれる人が少ないんだよね、AB型の人が少ないんだもの。
 ふと稔の声が聞こえた。妻と一緒に出て行った息子。くるくる動く大きな目で俺を見上げ口を尖らせた。ぼく、A型がよかったな、お母さんの血だけもらいたかったよ。
 ショックに感覚が麻痺しているのか、痛みをちっとも感じない。けれど手も脚も動かない。早く助けを呼ばないと失血死してしまうのに。電話は玄関にしか置いていない。千加子が玄関以外は納得しなかったのだ。寝室か居間に置こうと言った俺に、家の中に他人が土足で入り込んでくるようで嫌だと言った千加子。俺が浮気をしていると知った瞬間から、着々と離婚の準備を進めた千加子。
 俺は腹を押さえてみた。指が見る見る真っ赤に染まり、何層もの血の膜に覆われていく。
 ポオンと時計が1時を打った。勤続25年の記念品の時計。1時。昼間の1時。マンションの住人は各々の仕事に忙しいだろう。会社で上司に怒られたり、子どもを幼稚園に迎えに行くために家事を片付けたり、ただひたすらに眠ったり。誰も、退職してしまって自分の部屋で強盗に刺されたりしている男のことなんか考えていない。助けがいるなどとは思わない。
「それに助けも無駄ですしね」
 ふいに声が響いて俺は目を挙げた。
 時計を載せている棚に、緑色のとんがり帽子とびらびらした黄緑のワンピースを着た、小さな子どもが座っている。そいつは稔のようなくるくる動く大きな目で俺を見ると、にっこり笑ってこう言った。
「あなた、1時17分に死ぬことになってますし。あ、ちなみに、ぼく、『時の妖精』です。もう1つ確かめておきますと、幻覚幻聴の類ではありません……お元気ですね」
 妖精は笑い出した俺に眉をひそめて続けた。
「まあ、どうでもいいんですけど。とりあえず、『死』を迎えられた方には3つの時間を差し上げることになっていますんで……ご希望のお時間は?」
「じ…時間……だって……?」
 俺はこみ上げる笑いとようやくやってきた痛みに脂汗を流しながら答えた。
「あ…あと……10分そこらで……死ぬ…のに…? 悪い冗談……だ……妖精……だなんて…」
「ええ、だから急いでんです。前の人がオシちゃってね。もうちょっと早く来るつもりだったんですが。で、ご希望は? いつでも好きな時間……昔の思い出って奴を差し上げますから」
「好きな…時間か…」
 それは悪くない。
 ふっと初めて1人で電車に乗った時のことを思い出した。小学校の1年か2年、御山駅からの特急で、確か……。
「えーと15時28分発ですね。じゃ」
 妖精がにっこり笑って頷いた。
 遠くから駅員のアナウンスが聞こえてくる。ざわめき……人の話し声。鳥のような少女達のおしゃべり。怒鳴り合うような中年男の会話を遮って電車が滑り込んでくる。金属が擦れ合う、背筋をしごき上げていくような音。煙草の匂いがすれ違う。慌てて駆け込んだ車内は空いていた。不安になった俺が振り返ったドアがばしゃりと閉まる。飛ぶように動く風景がどんどん見知らぬものになって不安だけが高まり……。
「はい、すみません、その辺で次行きましょう。次は……こうぐっと印象的なものは?」
 緑服の妖精がふっくらした唇から吐くには不似合いな口調で先を促す。
 俺は時計を見た。1時8分。ああ、おんなじ時間だと思った矢先、
「それ行きましょうか。午前1時8分。ご長男出産、と」
 突然、鼻先を生臭いものが掠めた。
 そうだ、千加子は先に破水し出血したのだ。「あなた、タクシー!!」苛立たしげな叫びに電話に飛びついた。顔を歪めた千加子が「まだ36週なのに。まだ早いのに」と悔しそうに呟いている横で番号を押した。車を買っておけば良かったんだ、俺がそう言ったのに。「家のローンも払えないくせに!」そう叫び返した千加子を、俺は憎んだ。一瞬、確かに憎んだのだ。
「結構な修羅場で。最後の1つぐらい、いいのないんですか」
「う…ん」
 俺は思い出した。浮気相手と最初に出来たのはこの部屋だった。千加子は旅行中で……稔は修学旅行に行っていた。帰ってくるはずはないと思いながらも時間が気になって……。
「あれ?」
 妖精は妙な声を出した。
「その記録がありませんねえ」
 そんなはずはない。俺は薄れていく意識に抵抗しながら考えた。
 あの時はお互い必死に求めて応え合った。千加子との間に保てなくなった情熱の限りをぶつけ合った。スリルと快感が代わる代わる俺を責めた。そう、あれは素晴らしい、目眩くような感覚だったはずだ。あれがそのまま蘇るなら、死の瞬間さえ楽しめるはずだ。
「でもね……ないものはない……ああ!」
 妖精は困ったように額に当てていた手を嬉しそうに打ち合わせた。その後ろで、時計の針がゆっくりと1時16分を過ぎていく。
「その時、この時計、壊れていませんでしたか?」
 言われて俺は思い出した。時計の電池が切れていて、そのまま情事を始めたのだ。時間が経つのがわからない、時の狭間で抱き合っているようで、なおさら夢中になったのだ。
「間が悪かった…お気の毒」
 妖精が笑った口に、白くつややかな牙があった。1時17分になった時計が、鳴るはずのないチャイムをポオンと鳴らした気が…した。

                                   終わり
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