『segakiyui短編集』

segakiyui

文字の大きさ
上 下
30 / 118

『チン。』

しおりを挟む
 パンを一切れ、まな板の上でゆっくり切り取る。トースターに入れて焼き始める。香ばしい匂いが広がる。
『だめだよ。ちゃんと食べなさい』
 もう居ない彼の声が耳元で響く。振り返る、つい。居ない、絶対居ないのに、そこにまだ、血の伝った頬で笑いかけた人がいるようで。
『救助隊がいつ来てくれるかわからない。それまで、体力を持たせなきゃ。ごめんね、僕は先に食べた。君が目覚めるまで待たなかったんだ』
 彼がついた、最初の嘘。
 食べられるはずはなかった。両足も下半身も岩に挟まれて押しつぶされていた。話しかけることができたとは信じられない。2日後、来てくれた救助隊の人はそう教えてくれた。
 考えてもいなかった、予想もつかなかった事故。とても幸せに、とても楽しく終わるはずだった、深い緑の山のハイキング。
 周囲に溢れた命の煌めきと、あなたと一緒にいる喜びしか目に入らなくて、ふざけた私は山道で足を滑らせた。とっさに引き寄せてくれたあなたの腕を覚えている。
『僕は大丈夫だ。ちょっと足を捻って。動けないけど。血? ああ、頭をぶつけたんだろう。いや、拭かなくていい。水は残しておこう。大切だから』
 彼は嘘を重ねた。
 私の傷は足のかすり傷だった。ただ怖くて寂しくて、携帯電話も壊れていたし、こんな所に落ちた私達を誰が見つけてくれるだろうか。私はそればかり考えて、時間が経つほど苛つき、うろたえ、泣き続けた。
『泣いてもどうにもならないよ。もう一切れ、サンドイッチ、食べておきなさい。僕は今いいから。ちょっと眠ろう。疲れたね』
 それが最後の嘘だった。
 お腹が減って、喉が乾いて、声を掛けても起きてくれない彼、最後に残ったサンドイッチ一切れが欲しくて、ごめんなさい、私も嘘をついた。彼は私が気を失った間に食べたからと、そんなことをするはずがないと知っていたのを忘れたふりして、黙って一人でパンを食べた。
 崩れた道に気がついたハイカーの通報で、私達は助けられた。その時ようやく、私は全ての嘘に気がついた。
 トースターがチン、と鳴る。取り出したパンを半分にして、二つのお皿に分ける。バターを塗って、コーヒーを淹れる。
「いただきます」
 手を合わせてまず半分、それから残りの半分もゆっくり食べ、コーヒーをぐっと呑む。
 車椅子生活になった彼は、突然私の元を去った。それから一ヶ月。私は考えた。償いではなく、必要なのだとわかったのは昨日。
 行って来ます。
 私は今日、彼にプロポーズする。

                おわり
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

車の中で会社の後輩を喘がせている

ヘロディア
恋愛
会社の後輩と”そういう”関係にある主人公。 彼らはどこでも交わっていく…

私は何人とヤれば解放されるんですか?

ヘロディア
恋愛
初恋の人を探して貴族に仕えることを選んだ主人公。しかし、彼女に与えられた仕事とは、貴族たちの夜中の相手だった…

隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました

ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら…… という、とんでもないお話を書きました。 ぜひ読んでください。

処理中です...