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『チン。』
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パンを一切れ、まな板の上でゆっくり切り取る。トースターに入れて焼き始める。香ばしい匂いが広がる。
『だめだよ。ちゃんと食べなさい』
もう居ない彼の声が耳元で響く。振り返る、つい。居ない、絶対居ないのに、そこにまだ、血の伝った頬で笑いかけた人がいるようで。
『救助隊がいつ来てくれるかわからない。それまで、体力を持たせなきゃ。ごめんね、僕は先に食べた。君が目覚めるまで待たなかったんだ』
彼がついた、最初の嘘。
食べられるはずはなかった。両足も下半身も岩に挟まれて押しつぶされていた。話しかけることができたとは信じられない。2日後、来てくれた救助隊の人はそう教えてくれた。
考えてもいなかった、予想もつかなかった事故。とても幸せに、とても楽しく終わるはずだった、深い緑の山のハイキング。
周囲に溢れた命の煌めきと、あなたと一緒にいる喜びしか目に入らなくて、ふざけた私は山道で足を滑らせた。とっさに引き寄せてくれたあなたの腕を覚えている。
『僕は大丈夫だ。ちょっと足を捻って。動けないけど。血? ああ、頭をぶつけたんだろう。いや、拭かなくていい。水は残しておこう。大切だから』
彼は嘘を重ねた。
私の傷は足のかすり傷だった。ただ怖くて寂しくて、携帯電話も壊れていたし、こんな所に落ちた私達を誰が見つけてくれるだろうか。私はそればかり考えて、時間が経つほど苛つき、うろたえ、泣き続けた。
『泣いてもどうにもならないよ。もう一切れ、サンドイッチ、食べておきなさい。僕は今いいから。ちょっと眠ろう。疲れたね』
それが最後の嘘だった。
お腹が減って、喉が乾いて、声を掛けても起きてくれない彼、最後に残ったサンドイッチ一切れが欲しくて、ごめんなさい、私も嘘をついた。彼は私が気を失った間に食べたからと、そんなことをするはずがないと知っていたのを忘れたふりして、黙って一人でパンを食べた。
崩れた道に気がついたハイカーの通報で、私達は助けられた。その時ようやく、私は全ての嘘に気がついた。
トースターがチン、と鳴る。取り出したパンを半分にして、二つのお皿に分ける。バターを塗って、コーヒーを淹れる。
「いただきます」
手を合わせてまず半分、それから残りの半分もゆっくり食べ、コーヒーをぐっと呑む。
車椅子生活になった彼は、突然私の元を去った。それから一ヶ月。私は考えた。償いではなく、必要なのだとわかったのは昨日。
行って来ます。
私は今日、彼にプロポーズする。
おわり
『だめだよ。ちゃんと食べなさい』
もう居ない彼の声が耳元で響く。振り返る、つい。居ない、絶対居ないのに、そこにまだ、血の伝った頬で笑いかけた人がいるようで。
『救助隊がいつ来てくれるかわからない。それまで、体力を持たせなきゃ。ごめんね、僕は先に食べた。君が目覚めるまで待たなかったんだ』
彼がついた、最初の嘘。
食べられるはずはなかった。両足も下半身も岩に挟まれて押しつぶされていた。話しかけることができたとは信じられない。2日後、来てくれた救助隊の人はそう教えてくれた。
考えてもいなかった、予想もつかなかった事故。とても幸せに、とても楽しく終わるはずだった、深い緑の山のハイキング。
周囲に溢れた命の煌めきと、あなたと一緒にいる喜びしか目に入らなくて、ふざけた私は山道で足を滑らせた。とっさに引き寄せてくれたあなたの腕を覚えている。
『僕は大丈夫だ。ちょっと足を捻って。動けないけど。血? ああ、頭をぶつけたんだろう。いや、拭かなくていい。水は残しておこう。大切だから』
彼は嘘を重ねた。
私の傷は足のかすり傷だった。ただ怖くて寂しくて、携帯電話も壊れていたし、こんな所に落ちた私達を誰が見つけてくれるだろうか。私はそればかり考えて、時間が経つほど苛つき、うろたえ、泣き続けた。
『泣いてもどうにもならないよ。もう一切れ、サンドイッチ、食べておきなさい。僕は今いいから。ちょっと眠ろう。疲れたね』
それが最後の嘘だった。
お腹が減って、喉が乾いて、声を掛けても起きてくれない彼、最後に残ったサンドイッチ一切れが欲しくて、ごめんなさい、私も嘘をついた。彼は私が気を失った間に食べたからと、そんなことをするはずがないと知っていたのを忘れたふりして、黙って一人でパンを食べた。
崩れた道に気がついたハイカーの通報で、私達は助けられた。その時ようやく、私は全ての嘘に気がついた。
トースターがチン、と鳴る。取り出したパンを半分にして、二つのお皿に分ける。バターを塗って、コーヒーを淹れる。
「いただきます」
手を合わせてまず半分、それから残りの半分もゆっくり食べ、コーヒーをぐっと呑む。
車椅子生活になった彼は、突然私の元を去った。それから一ヶ月。私は考えた。償いではなく、必要なのだとわかったのは昨日。
行って来ます。
私は今日、彼にプロポーズする。
おわり
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