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9.人として(10)
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「……そうして」
アシャは柔らかく息を吐き出した。
「……セレドの姫に会って」
「っ」
思わずアシャを見る。目を伏せているが、微かに頬が色づき、活気が戻った気がする。
「俺は柄にもなく考えた……この姫の為に生きては駄目か、と。この姫の為に己を尽くすのはいけないことなのか、と」
(姉さまが、アシャに生きがいを与えたのか)
足元が崩れるような気がした。
美しさとか優しさとか、そう言う問題じゃない。この世界に存在してはならない命だとまで諦めていた男が、ただ一人の存在に自分の意味を見つけたのだ。
(好きとか、嫌いとかじゃなくて、もう、それは)
崇拝、と呼ぶのではないか。
ユーノは必死に瞬きした。胸が苦しくて、視界が眩んで、酷く出血した時のように倒れそうになっている。
(かけがえなんか、いない)
アシャにとってレアナはこの世界と同じく、唯一無二の存在だ。
(だから、アシャは、もう一度、ラズーンに戻る決心をしたんだ)
自分の命を否定した場所に。殺されるかも知れない場所に。生きる意味がなかった場所に。
レアナが生きる世界を守るためだけに、自分の全てを賭けて舞い戻った。
(私は、どこにも、いない)
レアナの妹であっても、セレドの第二皇女であっても、付き人アシャの主人であっても、旅の仲間であっても、ユーノの存在はアシャの中で意味がない。
(戯言だ)
キスも抱擁も守ってくれた両腕も、全ては幻、いやそれより悪い、ただの方便、暇潰しにしかすぎなかったのではないか。
「……だが結局、『俺』はここに戻り、戦いの中に身を置き、お前も知っているように『魔』と化して東の原を駆けた……」
アシャが顔を上げて、我に返る。ふらつきかけた体を必死に立て直す。
「これが、お前がアシャ・ラズーンとして知っていた男の話だ」
何かを待つように口を噤むアシャをぼんやりと見返す。
(何を言えばいい?)
お前は俺の世界にただの一欠片も存在しないと伝えられて。
(何が言える?)
沈黙したままのユーノに、アシャは小さく息を吐いた。
「ユーノ……お前は思っているはずだ。俺はもう人間じゃない、と。『魔』だ、と。東の原で俺に言ったように『魔』なら切ろうと」
再び頼りなく虚ろな、どこかおどおどした笑みがアシャの唇を覆った。今までかつて一度もユーノに見せたことのない、怯え切った幼い子どものような表情で、ユーノを凝視する。紫の瞳が淡く煙り、人恋しそうな色を一杯に湛えて睫毛に隠される。ためらって結ばれた唇がそっと開かれ、大切な呪文のようにことばを紡いだ。
「……お前が…切ってくれ、ユーノ」
くっ、とユーノは歯を噛み締めた。俯く。
(私に)
アシャの生い立ちも衝撃だ。『魔』と化しつつあるのも腹立たしい。だが、何よりも、何よりも。
(私を、そんな、ところで、呼ぶ、のか)
「……いい加減に……しろ」
「……え」
「…何を、考えて、私に、そんなことを、させる気だ…」
叫びたい。喚きたい。アシャの胸を掴んで揺さぶり、罵倒の限りを尽くしたい。
何の為に東の原で追い返したのかわからないのだ、この阿呆は。どれほど切なくあの夜を過ごしたのか気づいていないのだ、この鈍感男は。必死の祈りを込めて大切な人を傷つけたのに、その痛みで全てを捨てようと言う。命に代えても守ろうと言う相手に剣を向けたのに、そればかりか切れと言う。
そんなことの為にしか、ユーノは存在していないと言う。
「…どこを見て……誰にものを言ってるんだ!」
堪えきれずに、顔を振り上げ、アシャを睨みつけた。
「敗北寸前の軍の軍師を切れと言うのか、私に! イルファの友人を切れと言うのか、私に! 姉さまの想い人を切れと言うのか、この私にっ!」
「え…っ?」
アシャが呆然とした。
アシャは柔らかく息を吐き出した。
「……セレドの姫に会って」
「っ」
思わずアシャを見る。目を伏せているが、微かに頬が色づき、活気が戻った気がする。
「俺は柄にもなく考えた……この姫の為に生きては駄目か、と。この姫の為に己を尽くすのはいけないことなのか、と」
(姉さまが、アシャに生きがいを与えたのか)
足元が崩れるような気がした。
美しさとか優しさとか、そう言う問題じゃない。この世界に存在してはならない命だとまで諦めていた男が、ただ一人の存在に自分の意味を見つけたのだ。
(好きとか、嫌いとかじゃなくて、もう、それは)
崇拝、と呼ぶのではないか。
ユーノは必死に瞬きした。胸が苦しくて、視界が眩んで、酷く出血した時のように倒れそうになっている。
(かけがえなんか、いない)
アシャにとってレアナはこの世界と同じく、唯一無二の存在だ。
(だから、アシャは、もう一度、ラズーンに戻る決心をしたんだ)
自分の命を否定した場所に。殺されるかも知れない場所に。生きる意味がなかった場所に。
レアナが生きる世界を守るためだけに、自分の全てを賭けて舞い戻った。
(私は、どこにも、いない)
レアナの妹であっても、セレドの第二皇女であっても、付き人アシャの主人であっても、旅の仲間であっても、ユーノの存在はアシャの中で意味がない。
(戯言だ)
キスも抱擁も守ってくれた両腕も、全ては幻、いやそれより悪い、ただの方便、暇潰しにしかすぎなかったのではないか。
「……だが結局、『俺』はここに戻り、戦いの中に身を置き、お前も知っているように『魔』と化して東の原を駆けた……」
アシャが顔を上げて、我に返る。ふらつきかけた体を必死に立て直す。
「これが、お前がアシャ・ラズーンとして知っていた男の話だ」
何かを待つように口を噤むアシャをぼんやりと見返す。
(何を言えばいい?)
お前は俺の世界にただの一欠片も存在しないと伝えられて。
(何が言える?)
沈黙したままのユーノに、アシャは小さく息を吐いた。
「ユーノ……お前は思っているはずだ。俺はもう人間じゃない、と。『魔』だ、と。東の原で俺に言ったように『魔』なら切ろうと」
再び頼りなく虚ろな、どこかおどおどした笑みがアシャの唇を覆った。今までかつて一度もユーノに見せたことのない、怯え切った幼い子どものような表情で、ユーノを凝視する。紫の瞳が淡く煙り、人恋しそうな色を一杯に湛えて睫毛に隠される。ためらって結ばれた唇がそっと開かれ、大切な呪文のようにことばを紡いだ。
「……お前が…切ってくれ、ユーノ」
くっ、とユーノは歯を噛み締めた。俯く。
(私に)
アシャの生い立ちも衝撃だ。『魔』と化しつつあるのも腹立たしい。だが、何よりも、何よりも。
(私を、そんな、ところで、呼ぶ、のか)
「……いい加減に……しろ」
「……え」
「…何を、考えて、私に、そんなことを、させる気だ…」
叫びたい。喚きたい。アシャの胸を掴んで揺さぶり、罵倒の限りを尽くしたい。
何の為に東の原で追い返したのかわからないのだ、この阿呆は。どれほど切なくあの夜を過ごしたのか気づいていないのだ、この鈍感男は。必死の祈りを込めて大切な人を傷つけたのに、その痛みで全てを捨てようと言う。命に代えても守ろうと言う相手に剣を向けたのに、そればかりか切れと言う。
そんなことの為にしか、ユーノは存在していないと言う。
「…どこを見て……誰にものを言ってるんだ!」
堪えきれずに、顔を振り上げ、アシャを睨みつけた。
「敗北寸前の軍の軍師を切れと言うのか、私に! イルファの友人を切れと言うのか、私に! 姉さまの想い人を切れと言うのか、この私にっ!」
「え…っ?」
アシャが呆然とした。
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