『ラズーン』第六部

segakiyui

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9.人として(8)

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 イリオールはユーノと入れ違いで広間に姿を見せた。騒いでいる面々の中にユーノがいないと知ると、通りかかった女官にそっと尋ねる。
「ユーノ様は?」
「さあ……先ほどまでその辺りにいらっしゃったんだけど……何かご用、イリオール?」
「ぼく、お帰りのお祝いをまだ言ってないんだ」
「あら、そう、それじゃあお探ししないとねえ」
 イリオールの強張った表情に女官は気づかなかった。もう1人の女官に尋ねてくれ、首を振りながら振り返る。
「わからないわ。セシ公がお連れになって席を外されたそうよ。次の策でもお考えかも知れない。それならば、アシャ様のところでしょうけど」
「そう……なら行ってみる」
「会議中ならお邪魔はだめよ」
「わかってる」
 イリオールは頷いて向きを変えた。

(アシャが私を呼んでいる)
 廊下を歩きながら、ユーノは体のあちこちが引き締まり固まっていくような緊張感を覚えていた。 広間に籠っていた熱気もとうに体から抜け、火照っていた頬も熱を含んでいた髪も、廊下の冷えた外気に触れて見る見る冷たくなっていく。
(何のために)
 心の中には問いが繰り返し浮かんでいた。足を踏み出して、今更のように腰に吊っている剣が足に触れ、一つの考えが頭を過る。
(もし、アシャが『魔』と化していたら)
 他の誰もアシャの変化に気づいていない。恐らくはセシ公さえも知らない。
 正体を知っているのは、今、ユーノだけだ。もし『魔』となったアシャが狙うのなら、これほどの好機はない。
「……」
 唇を噛んで、剣を片手で押さえた。
 もし、アシャが『魔』と化していたら。東の原での金の塊に、レスファートの笑い顔、イルファの得意げな顔、レアナの優しい瞳などが重なる。もし、アシャが『魔』と化していたら。正体を知っているのは自分一人だ。もし、アシャが『魔』と化していたら。紫の瞳、穏やかな笑み、温かな声。もし、アシャが『魔』と化していたら………ユーノは『本当に』アシャを切れるだろうか。
 煩悶に耐えきれず、立ち止まった。
 風が渡る。広間ではまだ人々の騒ぐ声が響いていた。賑やかさが逆に怯えを浮き彫りにしている。周囲の闇を見まいと背を向け炎を囲むように、人々は『運命(リマイン)』の影に怯え切っている。
「……」
 再びユーノは歩き出した。前方、アシャの私室に明かりが灯っている。
 逃げるな、と心の奥で声がした。『星』は精一杯生きよと命じた。ならば、逃げるな。何がお前を待ち構えていようと、それは他の誰のものでもない、お前の運命、お前だけに与えられた、たった一つの運命だ。
(逃げるな、ユーノ)
 息を吸い、止め、吐く。
 目の前に扉がある。ユーノはゆっくりとそれを開いた。暗い廊下に部屋の中の明るさが眩く零れ、わずかに目を細める。剣にかけた右手は離さず、目を瞬いて前方を見つめる。ベッドに半身起していた相手が振り返り、自分の名前を呼ぶまで、ユーノは身動きできなかった。
「ユーノ…」
 圧倒的なまでの美しさだった。長い間臥せっていたとはとても思えぬ鮮やかな黄金の髪、白い額の下には深い紫青の瞳、紅の唇が少しためらう。
「………」
 こちらを見つめていた瞳が少し動いて、ユーノの右手を見た。長い睫毛が伏せられる。低い声が懇願するような調子を帯びて吐き出された。
「戸を閉めて、こちらへ来てくれ。話したいことがある……不安なら、剣を抜いていろ」
「…」
 ユーノは戸を閉めた。黙ったまま数歩、アシャに近寄る。胸の中、アシャの美貌に酔わない部分は長い旅の恩寵か。その醒めたままの部分がポツリと呟いた。
(人間じゃない)
 あれほど長く飲まず食わずで眠り続けて、この美しさはどうだ。毒酒に命を攫われかけながら、この生気は何だ。淡く、金の光がアシャの全身を包んでいる。それがアシャをより一層妖しく、人の心を魅きつける存在としている。
 その引力は、人間の持つそれと異なっていた。何か、自分でも気づかない心の奥底の熱い感情、それがアシャの眼や唇に引きずり出されるような気がする。理性も知性も何もかもを壊し尽くして、己の勢力範囲の中へ誘い込んでいくとてつもない吸引力。
 アシャの美貌を知り尽くしているはずのユーノでさえこうなのだから、なまじの人間ではとても抵抗しきれないはずだ。一にも二にもなくアシャの前に膝を突き、ほんの一瞬の笑みのためになんでもすると誓ってしまいそうだ。
 その美はどこかギヌアの持つ支配力と似ていた。確かにあれほど酷ではない、残忍でもない。だが、目に見えぬ触手が心に絡みつき、縛り上げ、その者以外目に入らなくさせる凄まじい影響力は、ひょっとしたらアシャの方が上かも知れない。
 
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