113 / 119
9.人として(8)
しおりを挟む
イリオールはユーノと入れ違いで広間に姿を見せた。騒いでいる面々の中にユーノがいないと知ると、通りかかった女官にそっと尋ねる。
「ユーノ様は?」
「さあ……先ほどまでその辺りにいらっしゃったんだけど……何かご用、イリオール?」
「ぼく、お帰りのお祝いをまだ言ってないんだ」
「あら、そう、それじゃあお探ししないとねえ」
イリオールの強張った表情に女官は気づかなかった。もう1人の女官に尋ねてくれ、首を振りながら振り返る。
「わからないわ。セシ公がお連れになって席を外されたそうよ。次の策でもお考えかも知れない。それならば、アシャ様のところでしょうけど」
「そう……なら行ってみる」
「会議中ならお邪魔はだめよ」
「わかってる」
イリオールは頷いて向きを変えた。
(アシャが私を呼んでいる)
廊下を歩きながら、ユーノは体のあちこちが引き締まり固まっていくような緊張感を覚えていた。 広間に籠っていた熱気もとうに体から抜け、火照っていた頬も熱を含んでいた髪も、廊下の冷えた外気に触れて見る見る冷たくなっていく。
(何のために)
心の中には問いが繰り返し浮かんでいた。足を踏み出して、今更のように腰に吊っている剣が足に触れ、一つの考えが頭を過る。
(もし、アシャが『魔』と化していたら)
他の誰もアシャの変化に気づいていない。恐らくはセシ公さえも知らない。
正体を知っているのは、今、ユーノだけだ。もし『魔』となったアシャが狙うのなら、これほどの好機はない。
「……」
唇を噛んで、剣を片手で押さえた。
もし、アシャが『魔』と化していたら。東の原での金の塊に、レスファートの笑い顔、イルファの得意げな顔、レアナの優しい瞳などが重なる。もし、アシャが『魔』と化していたら。正体を知っているのは自分一人だ。もし、アシャが『魔』と化していたら。紫の瞳、穏やかな笑み、温かな声。もし、アシャが『魔』と化していたら………ユーノは『本当に』アシャを切れるだろうか。
煩悶に耐えきれず、立ち止まった。
風が渡る。広間ではまだ人々の騒ぐ声が響いていた。賑やかさが逆に怯えを浮き彫りにしている。周囲の闇を見まいと背を向け炎を囲むように、人々は『運命(リマイン)』の影に怯え切っている。
「……」
再びユーノは歩き出した。前方、アシャの私室に明かりが灯っている。
逃げるな、と心の奥で声がした。『星』は精一杯生きよと命じた。ならば、逃げるな。何がお前を待ち構えていようと、それは他の誰のものでもない、お前の運命、お前だけに与えられた、たった一つの運命だ。
(逃げるな、ユーノ)
息を吸い、止め、吐く。
目の前に扉がある。ユーノはゆっくりとそれを開いた。暗い廊下に部屋の中の明るさが眩く零れ、わずかに目を細める。剣にかけた右手は離さず、目を瞬いて前方を見つめる。ベッドに半身起していた相手が振り返り、自分の名前を呼ぶまで、ユーノは身動きできなかった。
「ユーノ…」
圧倒的なまでの美しさだった。長い間臥せっていたとはとても思えぬ鮮やかな黄金の髪、白い額の下には深い紫青の瞳、紅の唇が少しためらう。
「………」
こちらを見つめていた瞳が少し動いて、ユーノの右手を見た。長い睫毛が伏せられる。低い声が懇願するような調子を帯びて吐き出された。
「戸を閉めて、こちらへ来てくれ。話したいことがある……不安なら、剣を抜いていろ」
「…」
ユーノは戸を閉めた。黙ったまま数歩、アシャに近寄る。胸の中、アシャの美貌に酔わない部分は長い旅の恩寵か。その醒めたままの部分がポツリと呟いた。
(人間じゃない)
あれほど長く飲まず食わずで眠り続けて、この美しさはどうだ。毒酒に命を攫われかけながら、この生気は何だ。淡く、金の光がアシャの全身を包んでいる。それがアシャをより一層妖しく、人の心を魅きつける存在としている。
その引力は、人間の持つそれと異なっていた。何か、自分でも気づかない心の奥底の熱い感情、それがアシャの眼や唇に引きずり出されるような気がする。理性も知性も何もかもを壊し尽くして、己の勢力範囲の中へ誘い込んでいくとてつもない吸引力。
アシャの美貌を知り尽くしているはずのユーノでさえこうなのだから、なまじの人間ではとても抵抗しきれないはずだ。一にも二にもなくアシャの前に膝を突き、ほんの一瞬の笑みのためになんでもすると誓ってしまいそうだ。
その美はどこかギヌアの持つ支配力と似ていた。確かにあれほど酷ではない、残忍でもない。だが、目に見えぬ触手が心に絡みつき、縛り上げ、その者以外目に入らなくさせる凄まじい影響力は、ひょっとしたらアシャの方が上かも知れない。
「ユーノ様は?」
「さあ……先ほどまでその辺りにいらっしゃったんだけど……何かご用、イリオール?」
「ぼく、お帰りのお祝いをまだ言ってないんだ」
「あら、そう、それじゃあお探ししないとねえ」
イリオールの強張った表情に女官は気づかなかった。もう1人の女官に尋ねてくれ、首を振りながら振り返る。
「わからないわ。セシ公がお連れになって席を外されたそうよ。次の策でもお考えかも知れない。それならば、アシャ様のところでしょうけど」
「そう……なら行ってみる」
「会議中ならお邪魔はだめよ」
「わかってる」
イリオールは頷いて向きを変えた。
(アシャが私を呼んでいる)
廊下を歩きながら、ユーノは体のあちこちが引き締まり固まっていくような緊張感を覚えていた。 広間に籠っていた熱気もとうに体から抜け、火照っていた頬も熱を含んでいた髪も、廊下の冷えた外気に触れて見る見る冷たくなっていく。
(何のために)
心の中には問いが繰り返し浮かんでいた。足を踏み出して、今更のように腰に吊っている剣が足に触れ、一つの考えが頭を過る。
(もし、アシャが『魔』と化していたら)
他の誰もアシャの変化に気づいていない。恐らくはセシ公さえも知らない。
正体を知っているのは、今、ユーノだけだ。もし『魔』となったアシャが狙うのなら、これほどの好機はない。
「……」
唇を噛んで、剣を片手で押さえた。
もし、アシャが『魔』と化していたら。東の原での金の塊に、レスファートの笑い顔、イルファの得意げな顔、レアナの優しい瞳などが重なる。もし、アシャが『魔』と化していたら。正体を知っているのは自分一人だ。もし、アシャが『魔』と化していたら。紫の瞳、穏やかな笑み、温かな声。もし、アシャが『魔』と化していたら………ユーノは『本当に』アシャを切れるだろうか。
煩悶に耐えきれず、立ち止まった。
風が渡る。広間ではまだ人々の騒ぐ声が響いていた。賑やかさが逆に怯えを浮き彫りにしている。周囲の闇を見まいと背を向け炎を囲むように、人々は『運命(リマイン)』の影に怯え切っている。
「……」
再びユーノは歩き出した。前方、アシャの私室に明かりが灯っている。
逃げるな、と心の奥で声がした。『星』は精一杯生きよと命じた。ならば、逃げるな。何がお前を待ち構えていようと、それは他の誰のものでもない、お前の運命、お前だけに与えられた、たった一つの運命だ。
(逃げるな、ユーノ)
息を吸い、止め、吐く。
目の前に扉がある。ユーノはゆっくりとそれを開いた。暗い廊下に部屋の中の明るさが眩く零れ、わずかに目を細める。剣にかけた右手は離さず、目を瞬いて前方を見つめる。ベッドに半身起していた相手が振り返り、自分の名前を呼ぶまで、ユーノは身動きできなかった。
「ユーノ…」
圧倒的なまでの美しさだった。長い間臥せっていたとはとても思えぬ鮮やかな黄金の髪、白い額の下には深い紫青の瞳、紅の唇が少しためらう。
「………」
こちらを見つめていた瞳が少し動いて、ユーノの右手を見た。長い睫毛が伏せられる。低い声が懇願するような調子を帯びて吐き出された。
「戸を閉めて、こちらへ来てくれ。話したいことがある……不安なら、剣を抜いていろ」
「…」
ユーノは戸を閉めた。黙ったまま数歩、アシャに近寄る。胸の中、アシャの美貌に酔わない部分は長い旅の恩寵か。その醒めたままの部分がポツリと呟いた。
(人間じゃない)
あれほど長く飲まず食わずで眠り続けて、この美しさはどうだ。毒酒に命を攫われかけながら、この生気は何だ。淡く、金の光がアシャの全身を包んでいる。それがアシャをより一層妖しく、人の心を魅きつける存在としている。
その引力は、人間の持つそれと異なっていた。何か、自分でも気づかない心の奥底の熱い感情、それがアシャの眼や唇に引きずり出されるような気がする。理性も知性も何もかもを壊し尽くして、己の勢力範囲の中へ誘い込んでいくとてつもない吸引力。
アシャの美貌を知り尽くしているはずのユーノでさえこうなのだから、なまじの人間ではとても抵抗しきれないはずだ。一にも二にもなくアシャの前に膝を突き、ほんの一瞬の笑みのためになんでもすると誓ってしまいそうだ。
その美はどこかギヌアの持つ支配力と似ていた。確かにあれほど酷ではない、残忍でもない。だが、目に見えぬ触手が心に絡みつき、縛り上げ、その者以外目に入らなくさせる凄まじい影響力は、ひょっとしたらアシャの方が上かも知れない。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
お飾り王妃の愛と献身
石河 翠
恋愛
エスターは、お飾りの王妃だ。初夜どころか結婚式もない、王国存続の生贄のような結婚は、父親である宰相によって調えられた。国王は身分の低い平民に溺れ、公務を放棄している。
けれどエスターは白い結婚を隠しもせずに、王の代わりに執務を続けている。彼女にとって大切なものは国であり、夫の愛情など必要としていなかったのだ。
ところがある日、暗愚だが無害だった国王の独断により、隣国への侵攻が始まる。それをきっかけに国内では革命が起き……。
国のために恋を捨て、人生を捧げてきたヒロインと、王妃を密かに愛し、彼女を手に入れるために国を変えることを決意した一途なヒーローの恋物語。
ハッピーエンドです。
この作品は他サイトにも投稿しております。
表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID:24963620)をお借りしております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる