『ラズーン』第六部

segakiyui

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7.ミダスの裏切り(9)

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  『それ』がいつ、己の心に芽生えたのか、当のミダス公にもわからなかった。ある日ふと囁いた魔性、そう言うしか仕方のないものだったのかも知れない。
 陽光眩いミダスの屋敷でいつものように支配下(ロダ)の人々と謁見していた時、『それ』は昏い嘲りを伴ってミダス公の心を横切ったのだ。
 平和なミダス、平和な治世。
 ラズーンの下、四大公の分領地は豊かに富み栄え、一人娘のリディノは国中に春の女神と慕われる美少女、早くに母を亡くした影もなく明るく育ってくれている。申し分のない部下に妻こそいないが美しい娘、穏やかに落ち着いた日々、恐らくはミダス公もやがて老い、リディノの夫となる男を選んで後継ぎとし、やがて死んで、より穏やかな生活に入ることになるだろう……父も、またその父も歩んできたように。
(父も、その父も、またその父も、代々、ずっと)
 心の中で呟いて、ミダス公は続いた声にどきりとした。
(それでどうなるのだ)
 唐突な声、が、それは確かに他でもない自分の声だった。
(それで何が動くのだ)
 大公として生まれ、育ち、大公として死んで行く、それだけだ。平安という半透明な水の中に日差しは降り注ぎ、その表面は泡立つこともなく、その中でただ生命が連綿と続いていくだけだ。
 今日も、明日も、明後日も。
 いや、その区別さえ定かではないのではないか。
 果てし無い今日だけが繰り返し繰り返しミダス公の意識の中を巡っていって、そして、ミダス公自身も、父と……あるいはその父と変わらぬ一生を費やしていく。日々が今日の繰り返しでしかないように、自分自身も父と同じ、言い換えればミダス公と言う、ラズーンのために置かれた命ある置物が果てしなく置き換わるだけ、果てしなく自分という同じ一生が繰り返されるだけ……ではないのか。
(では、私は何のためにここにいるのだ)
 四大公が命ある置物でしかないのなら、今ここにこうして生きている自分には一体何の意味があるのだ。自分でなくとも良いのか。自分と同じ能力と姿形を持つ何者かであっても、何の差し支えもないと言うのか。
 ミダス公はやがて老いる。大公の地位はリディノの夫となる男が継ぐだろう。ミダス公とその男の違いはどこにあるのか。いや、違いはしない。ラズーンは、ミダス公が没した後も、何事もなかったかのように、その男を呼ぶだろう、『ミダス公』と。
 何という永遠性……凍てつくほどの冷たさで、人間の個性をこれほど見事に剥ぎ取った制度が他にあるのだろうか。
 ミダス公の頭の中を、いつかの夜、セシ公が本の戯言と称して、酒杯を片手に口にしたことばが通り過ぎていく。

「この世界、時に奇妙とは思われぬか」
 居並ぶジーフォ、アギャンの両名も、ミダス公同様訝しくセシ公を見た。
「昔この世は荒廃しきっていたと言う。太古生物跳梁し、人は魔に怯え、獣に混じり生きていた。それが見る間に統合府を備え、四大公を置き、争いは静まり…」
 またかと言う顔になったジーフォ公、今一つ訳のわからぬ様子のアギャン公と異なり、セシ公のことばは強く、ミダス公の心を捉えた。
「あまりにも整いすぎている……そうは思われぬか」
 そうとも、整いすぎている。あまりにも何もかも、まるで人の運命のように。
 自分が死んでも、この世の中は何一つ変わらないだろう。昨日と同じ今日が来たように、今日と同じ明日が来るのだろう。いや、もしかして、自分が死んで次代のミダス公になっても、世の人々は誰もそれに気づかないのではないか。
 物憂い倦怠感と孤絶感に包まれて、夜一人で街に出かけたミダス公は、薄暗い路地に蹲る子どもに出会った。汚れた衣を纏い、ボロ屑のように捨て去られた子どもは、目の前に立つ影にのろのろと目を上げた。生気なく濁った瞳を向け、恐る恐る手を差し出し、掠れた声で呟いた。
「おめ…ぐみを…」
「!!」
「あっ…」
 瞬間、ぞくりとした嫌悪感がミダス公の背中を駆け上がり、彼は無意識にその手を払い、足を振っていた。小さな悲鳴を上げてパタリと枯れ木のような痩せた躰が路地に倒れる。はっと我に返り、ミダス公ともあろうものが何と慈悲ないことを、と手を差し出そうとした矢先、心の奥底にわだかまっていた昏い想いが嗤った。
 おお、そうやって、『ミダス公』を続けるがいい。『ミダス公』と言う永遠の呪縛に絡まれて生きるがいい。何一つ変わらぬわ、何一つ。
「旦那……ひっ」
 屈み込んだ彼におどおどと笑みを向けかけた子どもの手首……細く脆そうな……。ゆっくり足をあげ、その手首を踏みつける。声を上げて体を強張らせるのに容赦なく力を加える。
「あっ…あ…旦那……さま……お……お許し……ぎゃっ!!」
 鈍い音が響いて、懇願する子どもが仰け反って崩れた。汚れた頬に涙を流しながら低く呻き続ける。それをじっと見下ろしていたミダス公は、何かを待つようにしばらくその体勢を保っていた。
「ひっ……ひっ……うっ…」
 泣き続ける子ども、静まり返った路地、人の足音もなく。
(何も変わらぬ…)
「だ、旦那さ……ぎゃあっ」
 振り上げた剣に子どもは蒼白になった。折られた手首の痛みも忘れたように、必死に後退りする。その肩口から胸元へ銀の光となって剣先が走る。悲鳴は一瞬、ぐずぐずと崩折れた子どもが虚ろな瞳でミダス公を仰ぎ、朱に染まった唇で問うた。
「ど……して……」
「…わしにもわからぬ」
「そ…んな…」
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