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1.運命(さだめ)のもとに(8)
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思えば、姉は何と正しい眼を持ってこの世界の行く末を見て取っていたのか。何としたたかな冷静さを持って為すべきこと為さねばならないことを見切っていたのか。そして、何とたじろがぬ意志の強さを持って、己の運命を歩み去って行ったのか。
おそらくは気づいていたのだ、平和な治世に慣れ切ったセレドの面々に危険を理解させることの困難さを。それこそ数年も前のこと、ユーノも本能的な予感でしか感じ取っていなかったかも知れない激動の波だっただけに、悟らせることは一層至難の技だっただろう。
だからこそ、ユーノは1人でカザドの攻撃を食い止め、その一方でセアラ達に優しく接した、来るべき試練の時からできるだけセレドを遠ざけようとして。
セアラが、姉がカザド兵と1人で戦っているのを知ったのは13歳頃だ。夜に寝ぼけて母のベッドに潜り込むつもりが、よほど眠気が強かったのだろう、誤ってユーノのベッドに潜り込んだ。すぐに違和感に起き上がり、あたりを見回し気づいた、そこが姉の部屋であって、しかも姉は居ないと。
理由がわからなかった。真夜中、事もあろうにセレドの皇女が皇宮を抜け出さなくてはならない、どんな理由があるのか。そうして訝り戸惑うセアラの前に、いきなりユーノは窓から飛び込んできた。驚くセアラ、驚くユーノ、そのまま数瞬、時が歩みを止める、セアラが血の臭いに気づくまで。
「姉さま?」震え声の問いかけにユーノの眼が一瞬かぎろい、次にはこの上なく優しい微笑を浮かべて応じた。「どうしたの、セアラ? 眠れないのかい?」
答える術なく立ち竦むセアラに、ちょっと待っててね、とユーノは隣室へ姿を消した。ほどなく戻ってきたユーノの右腕には白い布、重ねた服でも隠せぬ妖しくも猛々しい血の香り……それでも、ユーノはセアラに笑いかけたのだ、「一緒に眠るかい?」と。
ううん、とセアラは答えた。答えて慌てて身を翻し、姉の居室を飛び出した。ここに居てはならない。これ以上姉に話をさせてはならない。これより先は、セアラが関わってはならない。
翌日、辺境でカザド兵が6、7人、何者かに殺されていたと言う噂を聞き、セアラは悟った。それは、あの夜の姉と関わりがあることなのだ、と。
(あの時の姉さまの眼は忘れない)
部屋を飛び出していくセアラを、ユーノは引き止めることなく見送っていた。最後に思わず振り返った視界には、不思議に哀しい、不思議に優しい、諦めと深い思いやりが入り混じったようなユーノの眼が、怯えて走り去る妹をただじっと見詰める姿があった。
次の日も、そしてその次の日も、ユーノの態度はいつもと全く変わらなかった。
日々が静かに過ぎていく。
けれどもセアラの眼には、それまで見えなかった幾つもの光景が飛び込むようになっていた。
朝食の時にどことなく青く見える顔、身動きするたびに耐えかねるようにそっと噛まれる下唇、広間で談笑する輪に入りながらも、倒れるのを支えでもするように柱に寄り添う姿、居室に漂う微かな血の臭い、そして、時々寝床を汚している赤黒い染み。
何度も父母に訴えようとした。レアナに助けて欲しいと懇願しようとした。
だが、その度ごとにユーノの巧みな話術に遮られ、優しく厳しい視線に留められる。
駄目だよセアラ、と語る声が胸の奥に届いてくる。ありがとう、けれどもそれは、駄目だ。
(姉さま、ユーノ姉さま、一体どんな想いで夜を迎えていらっしゃったの…?)
夜。たった1人で、またもや剣に体を晒さなくてはならない夜。
セアラはシィグト1人を失うと思っただけで、これほど不安なのに。
(勇気を与えてね、ユーノ姉さま、お帰りになるまでセレドを守る勇気を)
おそらくは気づいていたのだ、平和な治世に慣れ切ったセレドの面々に危険を理解させることの困難さを。それこそ数年も前のこと、ユーノも本能的な予感でしか感じ取っていなかったかも知れない激動の波だっただけに、悟らせることは一層至難の技だっただろう。
だからこそ、ユーノは1人でカザドの攻撃を食い止め、その一方でセアラ達に優しく接した、来るべき試練の時からできるだけセレドを遠ざけようとして。
セアラが、姉がカザド兵と1人で戦っているのを知ったのは13歳頃だ。夜に寝ぼけて母のベッドに潜り込むつもりが、よほど眠気が強かったのだろう、誤ってユーノのベッドに潜り込んだ。すぐに違和感に起き上がり、あたりを見回し気づいた、そこが姉の部屋であって、しかも姉は居ないと。
理由がわからなかった。真夜中、事もあろうにセレドの皇女が皇宮を抜け出さなくてはならない、どんな理由があるのか。そうして訝り戸惑うセアラの前に、いきなりユーノは窓から飛び込んできた。驚くセアラ、驚くユーノ、そのまま数瞬、時が歩みを止める、セアラが血の臭いに気づくまで。
「姉さま?」震え声の問いかけにユーノの眼が一瞬かぎろい、次にはこの上なく優しい微笑を浮かべて応じた。「どうしたの、セアラ? 眠れないのかい?」
答える術なく立ち竦むセアラに、ちょっと待っててね、とユーノは隣室へ姿を消した。ほどなく戻ってきたユーノの右腕には白い布、重ねた服でも隠せぬ妖しくも猛々しい血の香り……それでも、ユーノはセアラに笑いかけたのだ、「一緒に眠るかい?」と。
ううん、とセアラは答えた。答えて慌てて身を翻し、姉の居室を飛び出した。ここに居てはならない。これ以上姉に話をさせてはならない。これより先は、セアラが関わってはならない。
翌日、辺境でカザド兵が6、7人、何者かに殺されていたと言う噂を聞き、セアラは悟った。それは、あの夜の姉と関わりがあることなのだ、と。
(あの時の姉さまの眼は忘れない)
部屋を飛び出していくセアラを、ユーノは引き止めることなく見送っていた。最後に思わず振り返った視界には、不思議に哀しい、不思議に優しい、諦めと深い思いやりが入り混じったようなユーノの眼が、怯えて走り去る妹をただじっと見詰める姿があった。
次の日も、そしてその次の日も、ユーノの態度はいつもと全く変わらなかった。
日々が静かに過ぎていく。
けれどもセアラの眼には、それまで見えなかった幾つもの光景が飛び込むようになっていた。
朝食の時にどことなく青く見える顔、身動きするたびに耐えかねるようにそっと噛まれる下唇、広間で談笑する輪に入りながらも、倒れるのを支えでもするように柱に寄り添う姿、居室に漂う微かな血の臭い、そして、時々寝床を汚している赤黒い染み。
何度も父母に訴えようとした。レアナに助けて欲しいと懇願しようとした。
だが、その度ごとにユーノの巧みな話術に遮られ、優しく厳しい視線に留められる。
駄目だよセアラ、と語る声が胸の奥に届いてくる。ありがとう、けれどもそれは、駄目だ。
(姉さま、ユーノ姉さま、一体どんな想いで夜を迎えていらっしゃったの…?)
夜。たった1人で、またもや剣に体を晒さなくてはならない夜。
セアラはシィグト1人を失うと思っただけで、これほど不安なのに。
(勇気を与えてね、ユーノ姉さま、お帰りになるまでセレドを守る勇気を)
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