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2.闇の巫女達(4)
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ぎり……っ、がっ!
渾身の力を込めて剣を弾き、ユーノは『運命(リマイン)』から飛び離れた。
頬に走った傷から新たに温かなものが流れ落ちていく。服をあちこち切り裂かれ剥き出しになった腕や肩にも、赤い筋が幾本も刻まれている。荒い呼吸音が響く中、一瞬の静寂を狙ったように、ぽと…っ、と柔らかい音をたてて、顎の先から血の雫が滴った。
「…」
無言で睨む『運命(リマイン)』は相変わらず張り付いたような薄い笑みを浮かべている。構えている黒い剣は何度もユーノの肌と肉に食い込み、気のせいか薄赤く濡れているように見える。
ユーノは、体の髄が凍てついていく重く確かな死の予感と対峙していた。
(ナスト達は無事にアシャの所まで行き着けたか?)
考えた瞬間、気配さえ感じさせずに襲いかかってきた黒剣の切っ先をかろうじて避け、身を翻して剣で受け止める。いつ斬られたのか、チュニックの裾がはらりと床に流れた。床に広がった血溜まりの上に落ち、みるみる血を吸って赤黒く染まり床に張り付く。視界の端で赤い反射を感じ取りながら、数瞬後に訪れる自分の未来を思う。恐怖に顔を歪めると、傷みとともに頬の上を止まり切らぬ血が滑り落ちていくのがわかった。
(さっきから何度同じことを)
考えているのだろう。考えると同時に釣り合いを崩され、咄嗟に力を加減して黒剣の圧力をしのぐ。くつくつと笑う相手の声が聞こえたような、繰り返す攻撃に疲れた心が聴かせたものか。
「くっ」
迷いを振り払い剣に力を込め、攻撃すると見せかけて蹴りを繰り出す、が。
「!」
黒剣がふいにくねるようにするすると離れる。合わせ損ねて引き込まれるユーノの剣、隙を知ってでもいるように改めて突き出された剣に蹴りを入れた脚を掠められ、かろうじて向きを変えて体を引いた。切っ先は逸らしたが鋭い痛みが走り、温かな感触が一気に脚を覆う。怯む間もなく、『運命(リマイン)』の手が伸び、新たな一撃で追い込んでくる。
「つ、く」
受け止めたのは幻、巧みに間をかいくぐられ、首筋へ一閃、身を伏せたユーノの髪が一房、首のかわりに飛び散った。伏せながら飛ばした手刀は空を切る。伸ばした腕を道筋にするように目の前に黒剣が突き込まれてくる。体が竦むのを舌打ちしながらなお深く沈め、そのまま腰を中心に円弧を描いて背後へ半身振り上げ、攻撃に転じようとしたが、目の前まで黒剣は自在に追ってくる。
(だめだ)
力の差がありすぎる。とても応じきれない。躱しながら攻撃をしかける、防御と見せかけて隙を伺う、そういった小細工が一切きかない。読み取られ、読み切られ、競り合われ、競り落とされていく。体が震えてしまうのは、凍えるような周囲の冷気のせいか、それとも殺される瞬間の傷みを思うせいか。
神の名を唱えることはとうに忘れていた。全ての神経を目の前の敵に注ぐしかない、一刻でも長く相手の攻撃をしのぐしかない、生き抜くためのただ一つの道にユーノの神経は研ぎ澄まされていく。
「は、っ」
呼吸が乱れたのは引いた背後にあたった固い壁のせいだ。左右に逃げられるほど隙はない、無言の『運命(リマイン)』の攻撃は疲れを知らない。数度剣が絡み合う、離れかける、だがそれは儚い望み、罠とわかっていても空かされた右へ動くしかない。
(しまった!)
一歩右へ、そのとたん、足下のぬるりとした血溜まりに動きを奪われた。
「く、…っ!」
声を上げる間もなく尻餅をつくユーノ、床に叩きつけられ、眉をしかめて見上げた視界に、黒剣が不気味な輝きを放ちながら降り落ちてくる。床についた手の剣を差し上げている暇はなかった。無意識に懐に突っ込んだ左手で握りしめたものが何か、思い出す間もなく鞘から抜き放ち、のしかかってくる『運命(リマイン)』の腹めがけて右手を添えて力の限り押し上げる。
「ぐうあっ!」
初めて『運命(リマイン)』が悲鳴を上げてのけぞった。
「?」
理由がわからない、けれど隙を逃すほど余裕はない。力を込めてなおも突き上げたのは、とても戦闘に向くとは思えない金色の護り刀のような短剣、柄まで通れと相手の胴に押し込み跳ね上げる。
「う、ぎゃあああ!」
絶叫が空間を圧した。差し上げた姿勢のまま息を荒げて凍りついたユーノのすぐ側に、今まさに覆い被さろうとしていた『運命(リマイン)』の手から離れた剣が落ち、見る間に黒い煙をあげてくしゃくしゃした燃え滓のような塊に変わってしまう。
(なに?)
剣だけではなかった。
『運命(リマイン)』自身にも同様の変化が起こり始めていた。よろめくように体を引く、短剣の傷痕から煙が上り始めたかと思うと、傷の周囲が見えないこてに焼き焦がされてでもいくように、じりじりと黒く変色していく。
「ふ、ぐ、ぐ…」
ゆらり、と『運命(リマイン)』はユーノから離れて後ずさった。真紅の瞳に開いていた黒い瞳孔が小さく小さく縮んでいく。唇を異様な形に捩じれさせて、何か言いたげにユーノの手の短剣を見つめる。その視線に促されるように、ユーノもまだ激しく喘ぎながらのろのろと手を下ろして、手に掴んだ短剣を見た。
(アシャの、もの)
そうだ、これは確か、作戦に入る前に、アシャがユーノに貸してくれたものだ。アシャが身につけていたのは知っている。こんな装飾品のような剣をなぜ大事にしているのだろう、由緒あるもの、意味あるものなのかと思ったことはあるが、剣として優れているとは思ったことはない。
だが、こうして手にしてみると、何か底知れない震えを感じる。今『運命(リマイン)』の腹を切り裂いたばかりだというのに、刃は一点の曇りもなく澄み渡り、冴え冴えとした青みがかった刀身は殺気さえ感じさせる逸品だ。
(でも、どうして、この剣が)
ユーノの剣では『運命(リマイン)』には手傷一つ負わせることはできなかった。ほとんど攻撃が当たらなかったこともあるが、確実に入ったと思った一撃でも効果がなかったのに。
(視察官(オペ)のもの、だからか?)
「ふ…ふふ」
時ならぬ含み笑いが響いて、ユーノは振り返った。
惨たらしい傷を抱え込むようにして立っていた『運命(リマイン)』の唇にへばりついていた薄い笑みが滴り落ち溢れ落ち、やがて顔を振り上げ声を限りの嘲笑に変わる。
「は、ははは…っ、ははははははああっ!」
「っ!」
疲労に崩れそうな体を支えてユーノが立ち上がるのと、『運命(リマイン)』が身を翻し、高々と笑い声を響かせながら走り出すのがほぼ同時だった。
「待て…っ!」
一瞬茫然としたものの、すぐにユーノは死体が転がる中を駆け抜けていく『運命(リマイン)』を追った。
まずい。
まずい。
まだあれほど走れるなんて。
まだあれほど動けるなんて。
傷口の血が乾いて頬が引きつれる。
(ここで逃がすわけには)
また被害が増える。今は少なくとも多少の手傷は負わせた。けれど次に回復されたら、仕留める術がない。
(走れ)
震え出しそうな体、今にも砕けそうな脚を叱咤して追う。
(今逃がしたら、次は)
屠られるのはアシャ、イルファ、それとも。
(レス)
背中を走り上がった悪寒を堪え、短剣を懐に、長剣を引っさげて走る。
すぐ目の前を、黒づくめの後ろ姿は踊るように跳ねるように走っていく。速い。手負いとはとても思えない。追いつきそうになるたび、巧みに回廊の角を曲がり、一歩また一歩と距離が開いていく。
(畜生!)
ユーノは舌打ちした。脚の傷が一つ二つ口を開けたのか、ぬめるような感覚が絡み付いてきて速度を鈍らせる。
『運命(リマイン)』の姿が消えた角を曲がったとたん、ばん、と扉が開いたのが視界に飛び込む。
「そこか!」
「うおぁ!」
「邪魔だっ!」
待ち構えていたのか偶然か、襲いかかってきたカザド兵数人の間をすり抜け、なおも立ち塞がる輩を剣一閃二閃、倒れかかってくるのを背中に扉に突っ込む。
「?!」
大きな部屋だった。
右手に黒の玉座、中央にどす黒い水をたたえた水盤がある。
『運命(リマイン)』はユーノを振り返ることもなく、一直線に水盤に走り寄る。と、もったりと盛り上がった水の中から、全身鱗に覆われた異形の姿が立ち上がり、金色の眼でこちらを見据えた。緩やかに差し伸べた枯れ枝を思わせる手が『運命(リマイン)』が飛び乗るままに受け止める。
「待てっ!」
「それ以上近寄りなさるな!」
追いすがろうとしたユーノと怪物の間に、唐突に白い衣の巫女達が立ち塞がる。虚ろな眼、生気のない無表情な顔、先頭にいる巫女達の長らしい白いマントの女が叫びを上げる。
「聖なる湖の神なるぞ!」
「何が聖なる、っ」
吐き捨てかけたユーノは女が笑みを浮かべて指し示した玉座を見た。
「ナスト!」
「すみません、ユーノ!」
玉座には後ろ手に縛られたナストが、別の巫女達に引っ立てられている。その側にマノーダはいない。
「マノーダは?!」
「僕が囮になったんですが…」
呻くナストのことばは、入り口から躍り込んできた一群に遮られた。
「こっちだ、マノーダ……ユーノ!」
振り向くと、マノーダを腕に抱えたアシャが、わらわらと襲いかかるカザド兵を切り捨てながら走ってくる。
「よし、いいぞ、アシャ!」
一瞬そちらに集まった注意、前後して玉座横の垂れ幕の片方から、イルファがどら声を張り上げつつ走り出し、巫女達を倒してナストの縛めを解く。その傍らにはアレノとレスファートの姿、巫女達の動揺が広がる中、ユーノはほっと一息をついた、そのとたん。
刺すような視線。
はっとして振り返った視界で、水盤の暗い水の中へ沈んでいく怪物の姿、そしてその掌に身を伏せながらにんまりと、勝利の確信に唇を釣り上げる『運命(リマイン)』の邪悪な笑みがまっすぐユーノの顔を射た。
(逃がさない!)
「ユーノ!」
「だめ、ユーノぉっ!」
アシャの制止、レスファートの悲鳴、目に映ったのは、マノーダを抱えたアシャの姿。
それはまた、遠い彼方に訪れる、傷みに満ちた光景をも思わせて。
(私が、いなくても)
きっとセレドは安泰だ。
(でも、今こいつを逃がしたら)
きっと多くの人が傷つく。
「ユーノ!」
レスファートの懇願を耳に、身を翻し襲いかかる巫女達を打ち倒し、水盤めがけてユーノは走る。怪物の姿は『運命(リマイン)』もろとも今やほとんど水に没している、そこへ。
「馬鹿! ユーノ!!」
アシャの叫びを振り切るように、ユーノは水盤に身を躍らせた。
渾身の力を込めて剣を弾き、ユーノは『運命(リマイン)』から飛び離れた。
頬に走った傷から新たに温かなものが流れ落ちていく。服をあちこち切り裂かれ剥き出しになった腕や肩にも、赤い筋が幾本も刻まれている。荒い呼吸音が響く中、一瞬の静寂を狙ったように、ぽと…っ、と柔らかい音をたてて、顎の先から血の雫が滴った。
「…」
無言で睨む『運命(リマイン)』は相変わらず張り付いたような薄い笑みを浮かべている。構えている黒い剣は何度もユーノの肌と肉に食い込み、気のせいか薄赤く濡れているように見える。
ユーノは、体の髄が凍てついていく重く確かな死の予感と対峙していた。
(ナスト達は無事にアシャの所まで行き着けたか?)
考えた瞬間、気配さえ感じさせずに襲いかかってきた黒剣の切っ先をかろうじて避け、身を翻して剣で受け止める。いつ斬られたのか、チュニックの裾がはらりと床に流れた。床に広がった血溜まりの上に落ち、みるみる血を吸って赤黒く染まり床に張り付く。視界の端で赤い反射を感じ取りながら、数瞬後に訪れる自分の未来を思う。恐怖に顔を歪めると、傷みとともに頬の上を止まり切らぬ血が滑り落ちていくのがわかった。
(さっきから何度同じことを)
考えているのだろう。考えると同時に釣り合いを崩され、咄嗟に力を加減して黒剣の圧力をしのぐ。くつくつと笑う相手の声が聞こえたような、繰り返す攻撃に疲れた心が聴かせたものか。
「くっ」
迷いを振り払い剣に力を込め、攻撃すると見せかけて蹴りを繰り出す、が。
「!」
黒剣がふいにくねるようにするすると離れる。合わせ損ねて引き込まれるユーノの剣、隙を知ってでもいるように改めて突き出された剣に蹴りを入れた脚を掠められ、かろうじて向きを変えて体を引いた。切っ先は逸らしたが鋭い痛みが走り、温かな感触が一気に脚を覆う。怯む間もなく、『運命(リマイン)』の手が伸び、新たな一撃で追い込んでくる。
「つ、く」
受け止めたのは幻、巧みに間をかいくぐられ、首筋へ一閃、身を伏せたユーノの髪が一房、首のかわりに飛び散った。伏せながら飛ばした手刀は空を切る。伸ばした腕を道筋にするように目の前に黒剣が突き込まれてくる。体が竦むのを舌打ちしながらなお深く沈め、そのまま腰を中心に円弧を描いて背後へ半身振り上げ、攻撃に転じようとしたが、目の前まで黒剣は自在に追ってくる。
(だめだ)
力の差がありすぎる。とても応じきれない。躱しながら攻撃をしかける、防御と見せかけて隙を伺う、そういった小細工が一切きかない。読み取られ、読み切られ、競り合われ、競り落とされていく。体が震えてしまうのは、凍えるような周囲の冷気のせいか、それとも殺される瞬間の傷みを思うせいか。
神の名を唱えることはとうに忘れていた。全ての神経を目の前の敵に注ぐしかない、一刻でも長く相手の攻撃をしのぐしかない、生き抜くためのただ一つの道にユーノの神経は研ぎ澄まされていく。
「は、っ」
呼吸が乱れたのは引いた背後にあたった固い壁のせいだ。左右に逃げられるほど隙はない、無言の『運命(リマイン)』の攻撃は疲れを知らない。数度剣が絡み合う、離れかける、だがそれは儚い望み、罠とわかっていても空かされた右へ動くしかない。
(しまった!)
一歩右へ、そのとたん、足下のぬるりとした血溜まりに動きを奪われた。
「く、…っ!」
声を上げる間もなく尻餅をつくユーノ、床に叩きつけられ、眉をしかめて見上げた視界に、黒剣が不気味な輝きを放ちながら降り落ちてくる。床についた手の剣を差し上げている暇はなかった。無意識に懐に突っ込んだ左手で握りしめたものが何か、思い出す間もなく鞘から抜き放ち、のしかかってくる『運命(リマイン)』の腹めがけて右手を添えて力の限り押し上げる。
「ぐうあっ!」
初めて『運命(リマイン)』が悲鳴を上げてのけぞった。
「?」
理由がわからない、けれど隙を逃すほど余裕はない。力を込めてなおも突き上げたのは、とても戦闘に向くとは思えない金色の護り刀のような短剣、柄まで通れと相手の胴に押し込み跳ね上げる。
「う、ぎゃあああ!」
絶叫が空間を圧した。差し上げた姿勢のまま息を荒げて凍りついたユーノのすぐ側に、今まさに覆い被さろうとしていた『運命(リマイン)』の手から離れた剣が落ち、見る間に黒い煙をあげてくしゃくしゃした燃え滓のような塊に変わってしまう。
(なに?)
剣だけではなかった。
『運命(リマイン)』自身にも同様の変化が起こり始めていた。よろめくように体を引く、短剣の傷痕から煙が上り始めたかと思うと、傷の周囲が見えないこてに焼き焦がされてでもいくように、じりじりと黒く変色していく。
「ふ、ぐ、ぐ…」
ゆらり、と『運命(リマイン)』はユーノから離れて後ずさった。真紅の瞳に開いていた黒い瞳孔が小さく小さく縮んでいく。唇を異様な形に捩じれさせて、何か言いたげにユーノの手の短剣を見つめる。その視線に促されるように、ユーノもまだ激しく喘ぎながらのろのろと手を下ろして、手に掴んだ短剣を見た。
(アシャの、もの)
そうだ、これは確か、作戦に入る前に、アシャがユーノに貸してくれたものだ。アシャが身につけていたのは知っている。こんな装飾品のような剣をなぜ大事にしているのだろう、由緒あるもの、意味あるものなのかと思ったことはあるが、剣として優れているとは思ったことはない。
だが、こうして手にしてみると、何か底知れない震えを感じる。今『運命(リマイン)』の腹を切り裂いたばかりだというのに、刃は一点の曇りもなく澄み渡り、冴え冴えとした青みがかった刀身は殺気さえ感じさせる逸品だ。
(でも、どうして、この剣が)
ユーノの剣では『運命(リマイン)』には手傷一つ負わせることはできなかった。ほとんど攻撃が当たらなかったこともあるが、確実に入ったと思った一撃でも効果がなかったのに。
(視察官(オペ)のもの、だからか?)
「ふ…ふふ」
時ならぬ含み笑いが響いて、ユーノは振り返った。
惨たらしい傷を抱え込むようにして立っていた『運命(リマイン)』の唇にへばりついていた薄い笑みが滴り落ち溢れ落ち、やがて顔を振り上げ声を限りの嘲笑に変わる。
「は、ははは…っ、ははははははああっ!」
「っ!」
疲労に崩れそうな体を支えてユーノが立ち上がるのと、『運命(リマイン)』が身を翻し、高々と笑い声を響かせながら走り出すのがほぼ同時だった。
「待て…っ!」
一瞬茫然としたものの、すぐにユーノは死体が転がる中を駆け抜けていく『運命(リマイン)』を追った。
まずい。
まずい。
まだあれほど走れるなんて。
まだあれほど動けるなんて。
傷口の血が乾いて頬が引きつれる。
(ここで逃がすわけには)
また被害が増える。今は少なくとも多少の手傷は負わせた。けれど次に回復されたら、仕留める術がない。
(走れ)
震え出しそうな体、今にも砕けそうな脚を叱咤して追う。
(今逃がしたら、次は)
屠られるのはアシャ、イルファ、それとも。
(レス)
背中を走り上がった悪寒を堪え、短剣を懐に、長剣を引っさげて走る。
すぐ目の前を、黒づくめの後ろ姿は踊るように跳ねるように走っていく。速い。手負いとはとても思えない。追いつきそうになるたび、巧みに回廊の角を曲がり、一歩また一歩と距離が開いていく。
(畜生!)
ユーノは舌打ちした。脚の傷が一つ二つ口を開けたのか、ぬめるような感覚が絡み付いてきて速度を鈍らせる。
『運命(リマイン)』の姿が消えた角を曲がったとたん、ばん、と扉が開いたのが視界に飛び込む。
「そこか!」
「うおぁ!」
「邪魔だっ!」
待ち構えていたのか偶然か、襲いかかってきたカザド兵数人の間をすり抜け、なおも立ち塞がる輩を剣一閃二閃、倒れかかってくるのを背中に扉に突っ込む。
「?!」
大きな部屋だった。
右手に黒の玉座、中央にどす黒い水をたたえた水盤がある。
『運命(リマイン)』はユーノを振り返ることもなく、一直線に水盤に走り寄る。と、もったりと盛り上がった水の中から、全身鱗に覆われた異形の姿が立ち上がり、金色の眼でこちらを見据えた。緩やかに差し伸べた枯れ枝を思わせる手が『運命(リマイン)』が飛び乗るままに受け止める。
「待てっ!」
「それ以上近寄りなさるな!」
追いすがろうとしたユーノと怪物の間に、唐突に白い衣の巫女達が立ち塞がる。虚ろな眼、生気のない無表情な顔、先頭にいる巫女達の長らしい白いマントの女が叫びを上げる。
「聖なる湖の神なるぞ!」
「何が聖なる、っ」
吐き捨てかけたユーノは女が笑みを浮かべて指し示した玉座を見た。
「ナスト!」
「すみません、ユーノ!」
玉座には後ろ手に縛られたナストが、別の巫女達に引っ立てられている。その側にマノーダはいない。
「マノーダは?!」
「僕が囮になったんですが…」
呻くナストのことばは、入り口から躍り込んできた一群に遮られた。
「こっちだ、マノーダ……ユーノ!」
振り向くと、マノーダを腕に抱えたアシャが、わらわらと襲いかかるカザド兵を切り捨てながら走ってくる。
「よし、いいぞ、アシャ!」
一瞬そちらに集まった注意、前後して玉座横の垂れ幕の片方から、イルファがどら声を張り上げつつ走り出し、巫女達を倒してナストの縛めを解く。その傍らにはアレノとレスファートの姿、巫女達の動揺が広がる中、ユーノはほっと一息をついた、そのとたん。
刺すような視線。
はっとして振り返った視界で、水盤の暗い水の中へ沈んでいく怪物の姿、そしてその掌に身を伏せながらにんまりと、勝利の確信に唇を釣り上げる『運命(リマイン)』の邪悪な笑みがまっすぐユーノの顔を射た。
(逃がさない!)
「ユーノ!」
「だめ、ユーノぉっ!」
アシャの制止、レスファートの悲鳴、目に映ったのは、マノーダを抱えたアシャの姿。
それはまた、遠い彼方に訪れる、傷みに満ちた光景をも思わせて。
(私が、いなくても)
きっとセレドは安泰だ。
(でも、今こいつを逃がしたら)
きっと多くの人が傷つく。
「ユーノ!」
レスファートの懇願を耳に、身を翻し襲いかかる巫女達を打ち倒し、水盤めがけてユーノは走る。怪物の姿は『運命(リマイン)』もろとも今やほとんど水に没している、そこへ。
「馬鹿! ユーノ!!」
アシャの叫びを振り切るように、ユーノは水盤に身を躍らせた。
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