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25話 君の中の私

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「私でよかったら、ノート見せようか?」
 
 無言でノートを握りしめたままの和也くんに、おそるおそる話しかけてみる。
 
 昨日の英語の授業の時に、しっかり書いてあるかチェックするって抜き打ちで集めたんだけど、和也くんノート書いてなかったのかな。
 
「ああ……うん、ありがとう。お願いしてもいい?」
 
「ノートくらいいつでも見せるからね。
勉強もよかったら、……教えよう、か? 次のテストの時、一緒に勉強する? 教えるの下手かもしれないけど、一緒に勉強したら一人よりははかどるかもしれないし」
 
 一人の方がはかどるという人も多いかもしれないけど、今の時点で全部赤点なら、勉強方法を変えた方がいいのかもしれない。
 
 私も人に教えられるほどではないけど、一応テストの順位は毎回三十番以内には入ってるし、もし少しでも和也くんの力になれるなら協力したいな。
 
 差し出がましいと思われないか不安だったけど、今までに見たことがないくらい暗い表情のままの和也くんが心配で、どうにか助けたくてそんな提案をしてみた。
 
「気持ちは嬉しいけど、遠慮しとく」
 
 痛々しいくらいの作り笑顔の和也くんは今までに見たことがなくて、本当にどうしてしまったのか心配になる。
 
「そ、そうだよね。私じゃ教えるの下手かもしれないし……。じゃあ圭佑くんとかに頼んでみる?」
 
 卒業後の進路は、まだ一年以上あるからもう少し猶予があるとしても、進級の問題は切羽詰まっている。私だって一緒に進級したいし、和也くんも留年はしたくないよね……?
 
 どうにか和也くんの留年を回避したいと色々提案してみるけど、和也くんはうつむいたまま。
 
「そうじゃなくて……。教えてもらっても、たぶんテストの時にできないから」
 
 長い長い沈黙の後、和也くんは唇をかみしめたままそう言った。
 
「え?」
 
 忘れちゃう、とか?
 どういう意味なんだろう。
 
 彼が言ったことの意味を必死で考えていると、そんな私を見て和也くんは苦々しく笑った。
 
「さっきさ……月子が書いてくれた手紙を読みたくないわけじゃなかったんだ。
……読めないんだよ」
 
「読め、ない……?」
 
 読めないって、どういうこと? 
 言われた内容が理解できず、無意識でその言葉を繰り返してしまう。
 
 まさかこの状況でそんな冗談を言わないだろうけど、さすがにそんなはずないよね?
 
 だって……あ、でも。言われてみれば、思い当たるふしがある。 
 
 直接話す時はどもったりなんてしないのに、教科書を読む時だけたどたどしかったり、文章を飛ばして読んだり、変な文章の読み方をしていた。
 
 CDのタイトルが同じことに気づかなかったり、字幕も苦手って言ってたし、カラオケでも歌詞を一切見なかったような気がする。
 
 それから、メッセージも既読スルー、スタンプしか返さないなんて噂もあった。それで脈なしとあきらめた女子も多いらしいけど……。
 
 冷たいんじゃなくて、女子に興味がないんじゃなくて、もしかして今までのことは全部、読めなかったからなのかな。
 
 そしたら、私が長文メッセージを送った時もきっとすごく困らせちゃったよね。ただでさえあの時は迷惑かけちゃったのに、まさか読めなかったなんて二重に申し訳ないよ。
 
「目の病気……?」
 
 文字が読めないって言われて混乱してしまったけど、明らかに冗談という雰囲気でもないし、今までのことがあったから、割とすんなり納得はできた。
 
 だけど、何で読めないんだろう。教科書は読めていたし、全く読めないわけではなさそうだけど……。
 
「視力は両方とも2.0以上あるし、人の顔もちゃんと分かるし、目は正常だと思うんだ。
文字だけ読めない。ひらがなやカタカナはまだマシだけど、漢字が特に苦手で、変な図形みたいに見える」
 
 変な図形? どういうことなのか分からないけど、それって文章読んだりするのかなり大変なんじゃ……?
 
 だから教科書読む時も、簡単な漢字でも間違えたりしてたのかな。
 
「それって、何かの病気?」
 
「そう、かもしれない」
 
 いったい何が原因なんだろう。全然分からないから、和也くんの顔色を伺うように聞いてみるけど、そこにはやっぱりいつもの和也くんの明るい笑顔はなくて、見ているだけで苦しくなる。
 
「親とか、先生には相談しないの?
病院は……? 原因が分かるかもしれないし、もしかしたら治るかも」
 
 そう言った瞬間、和也くんはいっそう表情を固くして静かに首を横にふった。
 
「親には、小学生の時に学校の勉強についていけないって何回も相談したよ。だけど、ちゃんと勉強しろ言い訳するなって叱られて、まともに取り合ってもらえなかった。
先生だって、さっきみたいな感じだ。誰に言っても、俺がちゃんと勉強してないからだと思われる。がんばればできるはずだ、努力が足りないって」  
 
 努力が足りない。がんばればできるはず。
 
 今までずっと色々な人からそう言われてきた和也くんの気持ちを考えると、涙がこみ上げてきそうになった。
 
 和也くんががんばってないなんて、そんなはずない。私は和也くんのことを小さな頃から知ってるわけじゃないから全部は分からないけど、きっと和也くんはすごく努力してきたはずだよ。
 
 だって、和也くんは文字が読めないから文章読むのもすごく大変なはずなのに、それでもがんばって読もうとしてた。それでみんなにからかわれても、いつも笑ってて……。
 
 普通のことが普通にできる人は、できない人にとってそれがどれだけ難しいことなのか考えもしない。
 
 あの日、和也くんが言っていたことを思い出す。
 
 和也くんも、本当はずっと苦しんでたのかな。自分のことで精一杯で、和也くんの悩みに全く気が付けなかった自分に嫌気がさす。今まで気がつくチャンスはいっぱいあったはずなのに……。
 
「仕方ないよな。留年するか、高校やめて働くか」
 
 もちろん高校やめて働くのだってひとつの人生だし、和也くんの決めたことなら応援したいけど、だけど一緒に卒業したいよ。
 
 それに何より、無理して作った和也くんの笑顔が痛々しくて悲しくなる。
 
 和也くんに元気を出してほしいのに、いつもみたいに笑ってほしいのに。今の和也くんに何て言ったらいいのか分からない。
 
 それに、和也くんの何かをあきらめたようなうつろな目を見ていると、なんだかすごく既視感を感じる。
 
 ……この目は、鏡の中でしょっちゅう見ているような気がするんだ。そうだよ、私の目とよく似ている。
 
 本当の自分を認めるのがこわくて、認めてもらうこともあきらめてしまっているような、そんな目。
 
「でも……働くにしても、文字読めなかったら苦労するんじゃないかな……」
 
 何が言いたいんだろう私。こんなこと言ったって余計に和也くんを落ち込ませるだけなのに。
 
「……かもな」
 
「やっぱり病院に行った方がいいんじゃないかな……。今よりも改善するかもしれないし、原因が分からないことには……」
 
 もっと気の利いたことを言わなきゃって思っても、全然良いことが思い浮かばない。だけど何か言わなきゃってあせればあせるほどにまずい言葉が出てきて、どんどん空気が重くなっていく。
 
「家族やまわりの人もみんな分かってくれなくて、今のまま苦しんでるのも辛いと思うし、だからあの、なんていうか……」
 
 さっきから何も言ってくれない和也くんにますます焦りが出てくる。もうしゃべらない方がいいんじゃないかって思うほど、私がしゃべればしゃべるほど空気が悪くなっていってるよね……。
 
 だけど、このまま何を言わなかったら、和也くんは……。
 
「もし何か病気とか障がいがあるってはっきりしたら、ご両親や先生も和也くんがサボってるわけじゃないって分かってくれると思うし、それに、」
 
「それに、何? はっきりとお前は普通じゃないって言われた方が、気が楽になるって?
俺がどんな気持ちで今まで耐えてきたのか何も知らないくせに、分かったようなことばっかり言うなよ。
親も姉ちゃんも兄ちゃんも家族全員有名大学出身で、みんな頭良くて、家族の中で一人だけ頭悪くて出来の悪い俺の気持ちが分かるの?
サッカーでどれだけ活躍しても、他のことでどれだけがんばっても、勉強が出来ないだけで、たったひとつ普通のことがクリア出来ないだけで、それだけで認めてもらえなかった。家にいても、学校にいても、ずっとみじめで悔しい思いをしてきたんだよ!
月子なら……、月子なら俺の気持ちを分かってくれるかと思ったのに!」
 
「かず……や、く……、ごめ……」
 
 声を荒げて、一気にまくし立てられ、思わず涙がこぼれた。 
 
 本当だよ、和也くんの言う通りだ。何で私、分かったようなことえらそうに言ったんだろう。自分だって、本当のことを自分のことを認められないくせに……。
 
 誰もいない静かな図書室に、私の泣き声だけが響く。
 
 泣き出した私を見て、和也くんはばつの悪そうな顔で頭を下げる。
 
「ごめん、完全にただの八つ当たりだ。月子が悪いわけじゃない。いきなり大きい声出したりしてごめん、びっくりさせちゃったよな」
 
 違うよ、違う。そうじゃない。
 和也くんが大きい声出したから泣いているわけでもないし、びっくりしたからでもない。
 
 自分があまりにも愚かで最低だから。自分だってありのままの自分を受け入れて生きていけないくせに、和也くんにだけえらそうなこといって。
 
 言うのは、簡単だよね。だけど実行するのはすごく難しいって、私が一番知ってるくせに。
 
 和也くんはあんなに私に良くしてくれて、いつも優しくしてくれたのに、こんな風に和也くんを傷つけるなんて本当に最低だよ。
 
 和也くんに進級を諦めてほしくなくて言ったことだったけど、完全に失敗した。和也くんのためだと言って、私は和也くんの気持ちを無視してしまっていたんだ。
 
 ちゃんと、そう言わないと。
 ちゃんと、謝らないと。
 
 そう思っているのに何も言葉にならず、ただ涙だけが流れる。  
 
「ごめんな」  
 
 泣き止まない私を見て責任を感じてしまっているのか、申し訳なさそうな顔をしている和也くんを見るとますますいたたまれなくなる。
 
 早く何か……、何かを、言わないと。必死で言葉を探すんだけど、あせればあせるほどによけいに言葉が出てこない。
 
「さっき、好きだって言ってくれてありがとう。嬉しかった。だけど、ごめん。月子とは付き合えない」
 
 どのくらいの時間がたったのか分からないけど、外から野球部のかけ声が聞こえ始めた頃。先に口を開いたのは、和也くんだった。
 
「そっか、うん、分かった。そういう対象には思えないなら、仕方ないよ。やっぱり私じゃ、ダメだよね」
 
「そうじゃないよ。そうじゃなくて、俺は……本当は俺だって……」
 
 和也くんは何かを言おうとして口をつぐみ、苦しそうにこぶしを握りしめる。
 
「月子がダメだからとかじゃなくて、俺と付き合ってもがっかりさせるだけだと思う。
俺は、月子が憧れてたような男じゃないよ。……文字も読めない彼氏なんて嫌だろ?」
 
「そんなこと……」
 
 そんなことないよ、とはっきり言いたかったけど、どうしても言葉が出てこない。
 
 私がはっきり否定できないでいると、和也くんは悲しそうに笑う。
 
「俺は、月子が思っていてくれていたような完璧な人間なんかじゃないんだ」
 
 私は、和也くんが完璧だから好きになったわけじゃない。
 
 たしかに最初は、手の届かない存在で、いつもキラキラしてて目立っていた和也くんに憧れていた。
 
 だけど、和也くんと仲良くなって、友達思いで優しい和也くんを知って、好きになったんだよ。
 
 そう言いたいのに、何も言葉が出てこない。
 どうやって伝えたらいいのか分からない。
 
 肝心な時に大事な言葉は出てこないくせに、余分な言葉ばっかり出てきて、やっぱり私の口は役立たずだ。
 
「圭佑はみんなの前であんなに堂々と認めたし、月子だって俺に悩みを打ち明けてくれたのに、俺は……今までどっちも出来なかった。
月子にも何度も言おうと思ったけど、がっかりさせたくなくてどうしても言えなかった。
本当は今日だって、先生がこなかったら月子に打ち明けるつもりなんてなかったんだよ。ずるいよな。
月子にはあんな風に言ったけど、本当は俺もみんなが出来ることが出来ないとはっきり認める勇気がなかったんだ」
 
 私が和也くんに憧れてたとか和也くんは完璧だと思うとか言ったから、よけいに言い出しにくくなっちゃったのかな。
 
 圭佑くんは、たしかにすごく勇気があって強い人だと思う。でも……だからって、同じことができない和也くんが弱い人間だなんて私は思わない。
 
 打ち明けることもすごく勇気がいることなら、隠し続けることもまた勇気のいることだと思うし……。誰にも打ち明けず、笑われてもただ受け流すことも辛いことだと思うし、ずっとそれに耐えてきた和也くんはすごくすごく強い人なんだと思う。
 
「カミングアウトするのもしないのも本人の自由だし、私に言うのも言わないのも和也くんの自由だし……。ありのままの自分をさらけ出したい人もいれば隠したい人もいると思うし、それぞれ事情も違うから、だから、カミングアウトしなかったら勇気がないとか、そういうわけじゃ……」
 
 もうダメだ、何が言いたいのかよく分からなくなってきた。いくらなんでも支離滅裂過ぎて、和也くんにも伝わってないよね。
 
「俺は、いつも笑ってごまかしてただけで、ずっと逃げ続けてきたんだ。ネタにして笑ってる方が楽だったから、ずっとそうしてきた。結局さ、楽な方に逃げてただけなんだよ」
 
 私みたいに泣いてはいなかったけど、辛そうな和也くんの表情が、声が、すごく痛くて辛い。見ているだけで痛くて、自分のことみたいに痛くなる。
 
 そんなことないよって言いたかったのに、言葉が出てこなくて、泣きながらただ首を横に振るしか出来ない。
 
「みんなが普通に出来ることが出来ないことに何回も苛立って、それを認める勇気もなくて、」
 
 もうやめて、違うよ。和也くんは素敵な人なのに。なんでそんな……。
 
 自分を下げるようなことばかりを言う和也くんに涙が止まらない。悲しみに押し潰されそうになる。
 
「自分が大嫌いだ」
 
 それを聞いた瞬間、急に目の前が真っ暗になって、息が上手く出来なくなって、そして……。
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