会えてよかった

千野恵

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第一部 会えてよかった

3.吟遊詩人イリス

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3.吟遊詩人イリス

ハープの調律が終わったらしく、美しい旋律を奏でながらおもむろに彼は唄いだした。

 天上の歌声とこのことを言うのだろうか。なんて美しいのか。つたない僕の語彙ごいでは人に伝えられることはできないほどの歌声だった。

  わたしはここで祈っている
  あなたの無事を祈っている
  あなたは遠い空の下にいるけれど
  あなたの身に何もないことを祈っている

  あなたは今どこにいるのだろう
  お腹はすいていないだろうか
  夜は眠れているだろうか

  あなたが見るもの聞くものを
  わたしは何も知らない
  あなたが誰と話し
  誰と過ごしているのか
  わたしは知らない

  けれどわたしはあなたを知っている
  あなたがすべてに感動することを
  あなたが行く先々(さきざき)で感動させることを

  ああけれど
  どうかどうか無事でいて

  ああどうかどうか無事でいて
  いつか疲れてしまったとき
  この母の胸に帰っておいで

  あなたが元気でいてくれることを
  あなたが笑顔でいてくれることを
  あなたが無事でいることを
  わたしはここで祈っている

 唄い終って彼はニコリと笑ったが、僕は涙が止まらなかった。

それは、誰が作り唄ったのかわからない作品の一つなのだが、よく唄われている歌で「祈り」という題の曲だった。僕も去年だったか吟遊詩人が広場で吟遊詩人が歌っていたのを聞いた。その時は普通に聞けた。ただの歌だったから。普通の歌だったからうまいなと感心したけれど、感動するほどではなかった。

 けれど。
 僕は彼の歌声と情感たっぷりの歌い方に感動して声もなく涙が流れた。
 まるでいま目の前で母親の祈っている姿が見えたように思えたからだ。

 声もなく泣いている僕を見て、彼は少し驚いたように目を瞠みはり、おもむろに次の歌を唄ってくれた。

  おかあさん おかあさん
  僕は元気だよ
  この空の下で僕は元気にしているよ
  とても珍しいものを見たよ
  とても楽しい体験をしたよ

  おかあさん おかあさん
  僕は元気だけれど
  おかあさんは元気かなぁ
  いつもにこにこしてるけど
  ほんとは悲しいこともあったよね

  おかあさん おかあさん
  朝となく昼となく夜となく休みなく
  ぼくたちのために身を粉にして
  働きまわっていたよね
  いつ休めていたんだろうなぁ

  僕を心配してると思うけど
  僕は大丈夫だから
  だから心配しないで

  旅の途中で僕は祈るよ
  おかあさんが元気でいるように
  苦しいことの無いように
  病に倒れることが無いように

  いつか帰るよ
  心配しないで
  この世界を見終わったら
  おかあさんの元に帰るからね
  それまで元気でいてね
  元気で暮らしていてね

 今度の歌はだいぶん時期がたってから唄われるようになったし、手紙の返事のような内容なので、「返しの歌」とよばれていた。ただの、何の変哲もない親子のやり取りにしか聞こえなかったので、何度聞いても、よかったな、と軽く思っただけだったのだが、今回の歌は違う。いや、彼の唄った歌は違う。

 もう内容ではない。
 彼の声だ。
 彼の情感だ。
 それがここまで僕を感動させたのだ。

 歌が終わってもかなりの時間動くとこともできず、また声も出さずじっくりと感動を噛みしめていたら、外が騒がしいのに気付いた。
 せっかくの良い気分なのになんだろうと思ってしまった。

 彼も唄い終ってからゆっくりしたかっただろうに、気分を害したようにはなく顔を見合わせるとまたニコリと笑った。

 「なんか外が騒がしいから見てくるよ。」

 僕は涙を拭きつつ、彼に断わって扉に向かい外に出てみた。
 するとそこには近所の人たちがみな集まっていた。
 そして僕が外に出ると待ち構えたようにして、

 「あんた、今の歌を唄ってたのは誰なんだい」
 「ちょっと誰が唄ってたんだ」
 「あの歌声はいったい誰なんだ」
 「なんてすごい歌なんだ」
 「なんてすばらしい歌声なんだ!」
 「ここで歌ってたのはわかってるんだよ。合わせておくれよ。」

 などなど似たようなことを口々に問いかけてきた。
 騒がしい人たちの後ろでは、ただただ涙を流している人もいたけれども。

 僕はあっけにとられてしまった。

 彼の歌声が外に漏れていたのは仕方がない。ふつうのレンガ造りだし防音もされていないので、普通ならば生活音やらは多少は隣に聞こえることもある。
 しかし、僕の工房兼住宅は、家が密集した街中からやや外れているので、近所と言っても隣の家の音が聞こえるなんてことはないのだから。

 だから、音が漏れたとしても、人がこんなに集まるほど外に漏れ聞こえていたとは思えなかった。
 それなのに、ここに集まった人たちは、漏れ聞こえてきた彼の歌声に聞きほれて感動し、その声をを辿たどって僕の家から聞こえることをつきとめ、二曲目の歌が終わるまで外でじっと聞いていたのだ。

 振り返ると、彼は「やりすぎちゃった?」みたいな顔で舌を出していた。

 しかし、意を決したようにして彼は扉の外に一歩出て優雅に腰を折り、見事な口上をのべた。

 「みなさま、しがないわたくし吟遊詩人イリスの歌を聴いて下さりありがとうございます。
  さて、夜も更けてきました。明日、広場でわたくし目の歌をご披露させていただきますので、今宵はこれまでとさせていただきます。ご静聴ありがとうございました。願わくば、また明日皆様にお目にかかれんことを」

 そして、彼が腰を折ったままにしていると、外の騒がしさは収まりやがて皆は静かに去っていった。

 吟遊詩人イリス。

 果物屋の露店先で、自己紹介をしあったときに吟遊詩人であるとは聞いていた。そして名前がイリスというのも聞いていた。
 なのにうかつにも、僕はあの有名な《吟遊詩人イリス》というのと結びつけていなかった。

 だって誰が思う?《あの》有名人であるイリスが彼だなんて。

 《あの》イリスには色々な逸話があるし、各国から請こわれて王たちからの依頼は引きも切らないとも言われている伝説級の有名人だ。それに、年は五十歳は過ぎていると聞いたことがあったのだから。

 そんな彼がこんな片田舎の、大都市でもない国境の町に来るなんて誰が思うだろうか。

 しかし、この歌声を聴いたらまぎれもなく、彼があの《吟遊詩人イリス》であることは間違いない。
 これほどまでに人を感動させることができるのは、伝説と言っても良いほどの歌い手であることは。

 衝撃の事実に言葉もなく立ち尽くす僕の前に彼、イリスが扉を締めてゆっくりともどってきて静かに口を開いた。
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