上 下
45 / 70

Chapter.45

しおりを挟む
 照明が足元を照らす中、階段をおりて暗いリビングに入る。先ほどまでの団欒が嘘のように、シンと静まり返っている。
 冷えたフローリングの床が裸足に沁みる。けれどその場に留まりたくもなくて、薄着のまま靴を履く。
 玄関の間接照明が人の気配を察知して点灯した。
「誰かおる?」
 急に点いた明かりに気付き、足音が近付いてくる。
「なに? こんな遅くに……」声をかけたのはトイレ帰りのキイロだった。「サクラさん……?」
 華鈴は一瞬振り向いてキイロを黙視すると、小さく会釈をしてそのまま家を出た。

 その瞳には、涙が浮かんでいた。

* * *

 家から離れようと、華鈴はひとり暗い道を歩く。財布もスマホも持っていないからどこかに入ることもできない。
 行く当てもなくさまよっていると、無意識に最寄りの駅前にたどり着いた。
 電車はもう終わっていて、駅前に人影はなく、明かりだけが残る。
 歩みを止めたくなくて、そのまま駅を通り過ぎ歩く。
 寒さに震えながら吐く息は白く、こらえきれず流れる涙が頬を伝う。
 悲しいよりも悔しくて、一緑との会話だけが頭の中をめぐる。
 あのまま部屋にいたほうが良かったのか。ちゃんと納得するまで話し合うべきだったのか。
 一緑の言葉が本心だとしたら、もうあの家に自分の居場所はない。そして、一緑の心の中にも。
 辺りに人影はなく、華鈴の嗚咽が、白い息とともに夜道に消えていく。
 涙を流し、鼻をすすりながらただ歩く。寒さからなのか泣いているからか、だんだん頭がぼうっとしてくる。
 ここがどこなのか、華鈴にはもうわからない。
 道なりにまっすぐ歩いているだけだから、来た道を戻れば駅に着くが、その気もない。

 いまごろ一緑は、なにを思ってるんだろう――。

 考えても答えが出ない疑問が生まれては、涙と一緒に流れていく。
 一緑の優しさに甘えて、自分のことばかりを考えていたんだ、と責める。
 もっと早く気付いていれば良かった。いや、気付いてはいたけど、ほったらかしてしまった。一緑ならきっとわかってくれると、勝手に決めてしまっていた。
 一緑との時間をちゃんと取るようにすれば良かった。
 ただ後悔ばかりが溢れ出る。
 いくら考えても過去に戻ることはできなくて、胸を締め付ける。

 どのくらい泣いていただろう。
 指先は冷え、流れた涙のあとは乾いている。体温も低くなっているのか、吐く息ももう白くはならない。
 次に会ったら気まずいままなのか。それより、また会うことはあるのだろうか。
 どうしても暗い未来しか思い浮かばなくて、冷え切った身体を無理やり動かした。
 道の向こうから車のヘッドライトが近付いてくる。小さな光はどんどん大きくなり、トラックが華鈴の横をすり抜けた。
 強めの風が華鈴の身体をあおる。
 動きづらくなっていた身体がふらつき、その場に倒れそうになった瞬間――
「華鈴!」
 聞き覚えのある声が、聞きなじみのない呼び方で華鈴を呼んだ。
 よろめく身体を支えたのは……
「……キイロさん……」
 顔を上げた華鈴の口から、目の前に現れた人物の名前がこぼれる。
 キイロの口から白い息が激しく出て、消える。
「ぶつけた?! ケガは?!」
 通り過ぎたトラックとの因果関係を確認するように、キイロが華鈴の身体を確認した。
「だい、じょぶ…です……」
 驚いて、それでもなんとか出した声で返事をする。
「良かった……」
 キイロは安堵の息を吐き、自分の首から大判のマフラーを取るとそのまま華鈴に巻いた。急ぎ足で進んだから出たのであろう身体の熱を吸ったそれは、冷え切った華鈴の身体に沁みた。
「ど…して……」
「……見えたから……」キイロは少し気まずそうに言葉を切って、そして小さく告げた。「泣いてんの、見てもうたから」
 激しい呼吸が徐々に収まっていく。
 整えるように一度、深呼吸して、華鈴を見つめた。
「帰ろ」
 華鈴は驚きに満ちた瞳でキイロを見つめ返す。
「……帰ろっ!」
 先ほどより強い口調とともに、キイロが華鈴に左手を差し出した。
 その勢いに後押しされるようにおずおずと出した右の手首を掴んで、キイロが優しく引き寄せる。
 冷え切った指に、キイロの熱が伝わる。冷たさが移ってしまいそうで手を引くが、キイロは離さない。
「ちょっと待ってて」
 キイロがコートのポケットから、手袋を取り出した。華鈴の左手を取り、はめる。
 右手はそのまま握って、自分の手と一緒にコートのポケットに入れた。
 少し困る華鈴に「危なっかしいから」言い訳めいたことを言って、小さく顔をしかめる。
 その温かさを断ることができなくて、華鈴はおとなしく受け入れた。
 二人は黙ったまま、来た道を戻る。
 キイロに引かれて歩を進める華鈴は、すねた子供のような顔でキイロの足取りを見つめている。
「あんま、危ないこと、せんとって」
 優しく言って、手首を掴んでいるポケットの中の手が、華鈴の指先に触れた。冷えた肌を温めるように、ゆるやかに、手を繋ぐ。
 キイロの体温が、止まったはずの涙を誘う。
 ありがとうございますと伝えたいのに、言葉が出てこない。
 泣きじゃくる華鈴の前を、キイロが歩く。手を離さないよう、ゆっくりと。
「き…いろさ……」
「ん?」
「ありがと……ござ……」
 嗚咽交じりの感謝の言葉にキイロが少し笑って。
「うん」
 照れくさそうにうつむいた。

 少しだけ、もう少しだけ、近付きたくて。
 歩速をゆるめたキイロが立ち止まった。
「このまま……」
 ぽつりとつぶやき、言葉を探すように黙るキイロを、華鈴が見上げる。
「…………帰って、いい? 家」
「…………はい」
 小さくうなずく華鈴を見つめて、
「うん」
 キイロが答える。その瞳には優しさが宿っている。

 少し悩んで、本当に言おうとした言葉を飲み込んで、紡いだ言葉。
 少しの緊張。少しの後悔。手にしてはいけない幸福。
 繋いだ手の温もりを忘れなければ、それでいい。

 ふたりだけの秘密を持てた。それだけでいい。

 遠くに駅の明かりが見えてくる。
「ごめん。マフラーじゃなくて、コート着せたら良かったな」
 ようやく温まってきた華鈴の指先を確認して苦笑するキイロに、華鈴は首を振った。
「暖かいから、大丈夫です」
 泣き顔で笑う華鈴と同じような表情を見せて、キイロがうなずいた。
 また、赤菜邸に向かって、ゆっくり歩きだす。

 時折走り去る車が風を起こし、音を立てる。
 冷たい風が肌を切りつけるけれど、二人の間に流れる穏やかな時間がそれを紛らわせてくれる。
 ほんの束の間の宝物のような時間を、いつまでも忘れないでいようと思った。


 そんな二人を、広い道路を挟んだ向かいの道で、一緑が呆然と眺めていた。
 目の前の光景が、テレビに映った非現実のもののように見える。

 なんで……どうして――。

 華鈴を迎えに来たキイロに対して。
 キイロを受け入れた華鈴に対して。
 選択肢を間違えた自分に対して……。

 何度となく問いかけても、答えは出てこない。

「どうしたら……良かったんや……」
 苦笑交じりにつぶやいた言葉は、白い息とともに夜の闇に消えた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

帰らなければ良かった

jun
恋愛
ファルコン騎士団のシシリー・フォードが帰宅すると、婚約者で同じファルコン騎士団の副隊長のブライアン・ハワードが、ベッドで寝ていた…女と裸で。 傷付いたシシリーと傷付けたブライアン… 何故ブライアンは溺愛していたシシリーを裏切ったのか。 *性被害、レイプなどの言葉が出てきます。 気になる方はお避け下さい。 ・8/1 長編に変更しました。 ・8/16 本編完結しました。

【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。

文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。 父王に一番愛される姫。 ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。 優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。 しかし、彼は居なくなった。 聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。 そして、二年後。 レティシアナは、大国の王の妻となっていた。 ※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。 小説家になろうにも投稿しています。 エールありがとうございます!

やり直すなら、貴方とは結婚しません

わらびもち
恋愛
「君となんて結婚しなければよかったよ」 「は…………?」  夫からの辛辣な言葉に、私は一瞬息をするのも忘れてしまった。

冤罪から逃れるために全てを捨てた。

四折 柊
恋愛
王太子の婚約者だったオリビアは冤罪をかけられ捕縛されそうになり全てを捨てて家族と逃げた。そして以前留学していた国の恩師を頼り、新しい名前と身分を手に入れ幸せに過ごす。1年が過ぎ今が幸せだからこそ思い出してしまう。捨ててきた国や自分を陥れた人達が今どうしているのかを。(視点が何度も変わります)

愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。

石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。 ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。 それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。 愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。 この作品は他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。

「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。 因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。 そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。 彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。 晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。 それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。 幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。 二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。 カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。 こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

砕けた愛は、戻らない。

豆狸
恋愛
「殿下からお前に伝言がある。もう殿下のことを見るな、とのことだ」 なろう様でも公開中です。

処理中です...