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Chapter.32

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「…すごい……キレイだね……」
「うん、そうやな……」
 順路の途中で立ち止まり、手を繋いだ一緑と華鈴が大きな水槽の中を眺めている。
 二人は数日前にした約束の通り、都内の水族館に訪れていた。

* * *

 残業帰りの一緑がシャワーを終え、自室に戻ってくるや机の上に目を止める。
「この封筒、華鈴の?」聞きながら、一緑が一通の封筒を手に取った。
「あっ」思い出したように口を開き「そうなの。青砥さんがね?」読んでいた雑誌を閉じて、一緑に向き直った。
「シュウちゃん?」意外そうに一緑が反復する。
「うん。こないだの試着のお礼って、くださったの」
「へぇ。開けていい?」
「うん」
 華鈴の承諾を得て一緑が桜色の封筒を開き、中を覗く。
「一緑くんと一緒にどうぞって」
「へぇ~、水族館かぁ~」
 封筒から取り出した二枚のチケットの表と裏を幾度かひっくり返しながら、書かれている文字を読んだ。
「予定あうときあったら、一緒にどうでしょう?」
 首をかしげた華鈴に
「うん、行こうか。いつがいい?」
 一緑が答えて、スマホの予定表を表示させた。

* * *

「わぁ……!」
 館内に入り少し歩いたあと、華鈴が小さく歓声をあげた。
「おー、すごいな」
 薄暗い室内に、ぼぅ…っと水槽が浮かび上がるように光を放つ。小さく区切られた水槽の中に、テーマに沿った水草、石、木などの装飾品と、メインである魚が展示されている。
 水槽は順路をたどるうちに大きくなっていく水槽の中を覗き込むたびに、「わー」や「おー」と小さく声をあげる華鈴も含めて、一緑は楽しんでいた。
 ひとつずつ、ゆっくりと鑑賞して回ると、フロアの中央に設置されたひときわ大きな水槽の前にたどり着いた。円筒状の空間で、小魚の群れに交じりエイがひらひらと泳いでいる。
「エイって…笑ってるよね」
 華鈴が水槽の中を見上げながらぽつりとつぶやく。
「んん?」
 言われて、一緑もまじまじとエイを見つめる。
 遠くを泳いでいたエイは、腹を見せながら分厚いアクリル板の内側に沿って、二人の目の前までゆっくりと旋回してくる。
 ようやくはっきりと目視できた一緑が「あ、ほんまやー」エイの腹側と同じような顔で笑った。
「かわいいね」
「かわいいな」
 くすくす笑い合いながら水槽の前を離れ、二階へ続く階段へと向かう。
 その手前の通路はトンネル状の水槽になっていて、その中を無数のクラゲがたゆたっていた。
 二人とも言葉を忘れ、しばしそのトンネルの中でクラゲが浮遊するさまを眺めていた。
「…すごい……キレイだね……」
「うん、そうやな……」
 四方を囲むほどの大きな水槽の中を眺めていると、クラゲと一緒に水の中に入れられているような気分になる。
 少し不安。
 けれど、繋がっている手のぬくもりがそれを上回る安心を生み出していた。


 二階への階段をあがってすぐ見える水槽は、水草がメインの展示だ。中では透明な熱帯魚が泳ぎ、小さなエビが歩いたり泳いだりしてくつろいでいる。
 たくさんの水草は、整備された庭園のようだ。
「わー、こういう水槽ええなー。やりたいなー」
 一緑が瞳を輝かせて、じっと水槽の中を覗き込む。
「エビが水槽を掃除してくれるんだって」
 華鈴が水槽の下に貼られたプレートの説明を読むと、一緑はますます笑顔を広げる。
「えー、かわいい~。いいな~。維持大変かなぁ~」
 一緑は割と真剣に導入を考えているようだ。
「どうだろう。お掃除とかは大変かも?」
「そうよねぇ。でもいいなぁ」
「置くならリビングかなぁ?」
 華鈴も一緒になって考えると、
「そうやなぁ。華鈴はいい?」
 水槽を見つめたまま、一緑が問うた。
「うん。いたら可愛いよね。あとで調べてみる?」
「そうやなぁ……でもリビングの広さにもよるから、まずは家さがすとこからかなぁ」
「え?」
「え?」
赤菜邸いまの家の話じゃなくて?」
「ん? うん。この先、二人で住む家」
 突然の発言に、華鈴がきょとんと一緑を見つめる。しかし一緑の視線はまだ目の前の水槽に注がれたままで。
「華鈴も好きなもの置いてね。ペットOKの家やったら、犬とか猫とか飼うでもいいし」
 その将来が当然訪れると信じて疑わない口調の一緑に、華鈴がふと、はにかんだ。
「うん。考えておく」
「ゆうて、ペット可の家、探されへんかったらごめんな?」
「うん、大丈夫だよ」
 一緑が見ている未来に自分が当然のようにいることが嬉しくて、華鈴は繋いだ手に、そっと力を込めた。
 水草の水槽から離れ、小さな水槽をいくつか見ていくと、両生類の水槽と爬虫類の水槽が並んだゾーンにさしかかる。中に入っている生き物を見るや一緑は「ぅぉっ」と小さく言って、軽く視線を背けた。
「苦手?」
「あんまし」
「じゃあ次行こう」
「えぇよ、気にせんで、見たいでしょ?」
「ううん? 大丈夫だよ。無理してもらうほど好きってわけじゃないから」
「そう?」
「うん」
「ごめんな」
「ううん? 将来飼いたくなっても、両生類と爬虫類は飼わないようにするね?」
「うん。お願いします」
「はぁい」
 華鈴は笑いながら返事をして、
「初めて会ったときのツジシタさんみたい」
 ぽつりと言う。
「え? キィちゃん?」
「うん。見てるようで見てなくて、少しおびえてて」記憶の中のキイロを呼び起こし、また少し笑う。「いまはもう、そんな感じじゃないけど」
「……そうなんや」
 自分がいないときの華鈴とキイロの関係性がいまいちつかめず、一緑はそう言うしかなかった。
「あ、次の水槽は大きいっぽいよ?」
 そんな一緑の気持ちに気付くこともなく、視線が定まらない一緑の手を引いて華鈴は次の水槽の前へ移る。
「わ、可愛いね」
 華鈴が指を指した先には、アザラシがいた。浮島のように設置された足場に、のったりと寝そべっている。
「やる気ないなぁ」
 気持ちを切り替えるように言って、一緑が笑う。
「眠いのかな」
 しばらく水槽の前で観察を続けるが、アザラシは浮島で寝そべったままその場を動こうとしない。前足で器用に自分の身体を掻いたりして、それもまた可愛くて。二人で終始にこやかにアザラシを眺めていると、一緑から負の感情は浄化されていた。


 一階へ戻り、さきほどまでいたフロアに併設された屋外エリアへ入る。
 階段から少し離れた頭上を、一頭のアシカが通り過ぎて行った。
「うわ」
「えっ、すごい」
 空中を飛んでいるように見えるアシカは、高速道路のように設置された水槽の中を泳いでいた。
 水槽の真下は大人が立って入れるほどの高さがあり、アシカの泳ぐ姿を様々な角度から楽しむことができる。
 そのすぐそばにはパフォーミングステージがあるが、ショーの時間は決まっているため、いまは観客もおらず静かだった。
 アシカを横目に奥へ進むと、また区切られた展示スペースがある。
「あっ」語尾に音符マークかハートマークがつきそうなくらい弾んだ声で小さく言って、一緑の手を引き水槽に小走りで近寄った。「可愛い~」
 視線の先にはコツメカワウソ。
 ブースは水辺を模していて、プールと草原の空間でコツメカワウソの群れが思い思いにくつろいでいる。
「写真、撮って、いい?」
 珍しくハフハフと高揚する華鈴が、一緑の顔を覗き込み問う。
「ん? うん、もちろん」
 一緑の返答に華鈴がパァッと笑顔になり、繋いでいた手をそっと離した。バッグからスマホを取り出し、何度かシャッターを切る。
「好き?」
「うん! 可愛いよねぇ」
 デレデレと相好を崩して、草むらで折り重なって寝ているカワウソをじっと見つめている。
 枝や小石で遊んだり、水の中を泳ぐカワウソを堪能して、華鈴がほぅと息を吐いた。
「おまたせ」
 満足げな顔で一緑を見つめる。
「もういいの?」
「うん。堪能した」
 頬を染め、瞳を輝かせる華鈴にふと笑って、「引っ越したらカワウソ飼おうか」華鈴の手を取り、繋ぎなおす。
「えっ、いいかも」案外本気で考えた華鈴が「や、でも大変そうだし」尚も本気で考えだす。
「あとで調べる?」くすくす笑いながら聞く一緑に
「うん、水槽と一緒に調べよう」握りこぶしを作って、何かに誓うように華鈴が答えた。
「ペンギンも可愛いよ、どう?」一緑は目の前に見えたペンギンの群れを指さし言う。
「ペンギンは難しいなぁ」
 笑いながら、岩と草むらがケーキのように積み重なったエリアの柵に手をかける。
 群れで暮らすペンギンたちは、移動するときも複数羽で集まり、よちよちと歩いている。
「かわいい……!」
 悶絶せんばかりに華鈴が小さく叫ぶ。
「こういうとこにいるペンギンって新鮮やなぁ」
「ねー。氷の上とか水の中のイメージが強いよね」
「なぁ。なんかのどかやなぁ」
 ひなたぼっこするペンギンたちは、どこか穏やかな雰囲気で、見ているだけで和んでくる。
 そのうち、一羽のペンギンを皮切りに、併設されたプールへトプントプンと飛び込んだ。二人も一緒に移動すると、オーバーハングした大きな水槽の下に入る。
「うわ、すげぇな」
「わぁ~!」
 見上げて、自然と声が出た。
 光が差し込み、水のきらめきと浮遊するペンギンの影が床に落ちる。目の前の水槽越しには都会の高層ビル群が広がり、頭上では大量の水の中をペンギンが泳ぎ回る。
 水を通して見える景色はかすかに揺らめき、幻想的だ。
 思わずぽかんと口を開き、頭上を見上げてしまう。
「すごーいねぇー」
「なぁ~」
 手を繋ぎながらゆっくり歩く。頭上でペンギンが泳ぎ、足元で水面みなもの影がゆらめく。
 遠くに見えるビル群とのコントラストが、現実感をむしろ遠ざける。
 二人はペンギンたちと一緒に泳いでいるような楽しさを味わった――。

* * *
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