11 / 70
Chapter.11
しおりを挟む
「あっ…」
「?」(あ……)
華鈴がキッチンで朝食の準備をしていると、リビングにキイロが顔を出し、そして後ずさった。華鈴を遠巻きに見てダイニングテーブルの一角に陣取る。
「……おはようございます」華鈴が声をかけると
「おはようございます……」視線をそらしたまま小さく会釈する。
郵便受けから持って来た新聞を黙々と読むキイロに、
「おはよー。おはよーさん」
声をかけたのは紫苑だ。ぼさぼさの頭に指を入れて髪をほぐし、華鈴にも声をかける。「おはよう」
「おはようございます」
「早いね」
「もう習慣で……」
姉と同居中、食事は華鈴が担当していて、二人の朝食と弁当を作っていた。その関係で、朝が早い。
「一緑は?」
「まだ寝てます」
「よぉ寝るよな」紫苑が眠たそうに笑う。「コーヒー、ええ匂いやね」
Tシャツの中に右手を入れ、腹部をさすりながら猫が匂いを嗅ぐような顔でコーヒーの香りを察知する。
「飲みますか? 多めに作ったので、お二人の分もありますよ」
「うん、飲む飲む。キイロも呼ばれたら?」
「えっ、あ……いや…。手ぇわずらわせるのも悪いし……」
「一杯も二杯も変わらんのんちゃう? ねぇ?」
「はい。カップにつぐだけなので」
「ほれ」
「…じゃあ…お願いします」
新聞から華鈴に向き直り言うが、その視線は定まっていない。
「はい」華鈴は笑顔になって「簡単で良ければ、朝食も一緒にお作りしますよ?」続けた。
「ほんまに? ええの?」
紫苑がキッチンへ移動する。
「はい。パンと卵料理くらいですけど」
二人分のコーヒーをカップにつぐ華鈴の隣に紫苑が立つ。
「じゅーぶんじゅーぶん!」
華鈴が調理スペースに並べている食材を見て、大体のレシピを把握した紫苑が目を細めた。
「卵、混ぜますか? 目玉焼きがいいですか?」
「面倒じゃなかったら混ぜてほしいな」
「はーい」
「キイロは?」
「紫苑くんと同じで……」
「はい。少々お時間いただきますね」
「うん、なんぼでも待つわ。コーヒー、もらってってええ?」
「はい、お願いします」
華鈴がトレイに乗せたカップを紫苑がダイニングテーブルへ運ぶ。
「よぉオレらのってわかったね」
紫苑が黄色いカップをキイロに、紫のカップを自分の前に置きながら言った。
「はい。お名前と色、同じなのかなって思って」
「さすがやね~」
トレイに乗っていたシュガーポットとミルクピッチャーを置きながら紫苑が感嘆の声を上げる。
「いえ……」
華鈴は照れ笑いを浮かべつつ、三人分の朝食を調理し始めた。
自分用にオムレツとサラダとトースト、キイロと紫苑にはそれにプラスしてボイルしたソーセージを添えて、それぞれ大皿に盛り付けてテーブルへ運ぶ。
作り終えるころには、紫苑はコーヒーを飲み終えていて。「あ、ごめん。カウンターでええよ、運ぶ運ぶ」
「ありがとうございます」
紫苑の申し出を有難く受けて、キイロと紫苑用のプレートをカウンターに置いた。中継した紫苑がキイロと自席の前に置く。
「わー、めっちゃ旨そう~」
紫苑が嬉しそうに言って、冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取り出した。一緒に持ってきたトレイに、グラスを三個乗せて席へ戻る。
「ホントに簡単ですけど……」カトラリー類の入ったケースをテーブルに置いて、自分用の皿とコーヒーが入ったカップを運んだ華鈴は、二人から少し離れた席に陣取った。
「作ってもらえるだけでありがたいよ」
紫苑は目を細めて、手を合わせた。
華鈴が落ち着くのを確認した紫苑が「じゃあ、いただきます~」手を合わせたまま軽くお辞儀する。
華鈴とキイロもそれに倣って、いただきますと唱和した。
「いやー、こんなちゃんとした人様の手作り朝食、久しぶりやわ~」
「普段は朝はどうなさってるんですか?」
「一人分作るか、面倒やったらコンビニとかかなー」
「自炊なされるんですね」
「オレと一緑と橙山はな」
「俺と黒枝くんもたまにはやるよ」キイロがぽそりと言葉を挟む。
「たまにな。キイロは手際もいいしな。もっとやったらええのに思うけど」
「黒枝くんめっちゃ手際悪い」
「ゆーてやんなよ」
言いながらキイロと紫苑が笑う。二人とも、顔がくしゃくしゃになって愛らしい。
(笑うとこんな顔なんだ……)もっと笑ったらいいのに。華鈴はキイロを見て思う。
「ゆうてオレらかて人の分作らんしなぁ」
「時間あわんねんもん」
「朝は特になぁ。職業が違うとこんなに違うもんか思うよな」
「みなさん、お仕事バラバラなんですね」
華鈴の言葉にキイロと紫苑がうなずく。
「キイロはほとんど在宅やしなぁ」
「紫苑くんは通勤せなあかんしね」
「毎朝決まった時間に通勤してる人のが少ないやろ、うちは」
「そうやなぁ」
現にいまも食卓には三人しかいない。一緑も会社員ではあるが、在宅作業と通勤とか入り混じっていて、今日は在宅の日だからと遅寝を楽しんでいる。
(ヒロハラさんいてくれてよかった)
キイロと二人きりだったら、こんな会話すらできていないかもしれない。
思わず見つめてしまった華鈴にキイロが気付いて、身を固くして視線をそむけた。
(あっ……)「すみません……」慌てて目をそらした華鈴に
「悪いんキイロや、謝らんでいいよ」紫苑が顔の前で手を左右にヒラつかせながら鼻にシワを寄せた。その態度が意図していない反射からくるものだと知っているからだ。
「キイロも、もうええトシなんやから、ええ加減克服したら? いい機会や思うけど」
「紫苑くんには怖いもんがないからそんなん言えんねん」
「あるよ、こわいもん」
「なにぃさ」
「むしムシ、虫!」紫苑が顔をしかめ、小さくかぶりを振る。
「それ克服できる?」
「できひん!」食い気味の回答に
「な? それと一緒やねん」諭すようにキイロが続けた。
(虫と一緒かー)という華鈴の表情に気付き、
「あっ! ちゃうねん! 女性と虫が同等や思てるわけじゃないねん! ヒトにはどうしても苦手なナニかがあるって話で!」
視線は定まらないものの、華鈴に向かい慌ててフォローするキイロに
「大丈夫です! ちゃんと、わかってます」華鈴が慌てて答えた。
「なんか、すんません」
「いえ、こちらこそ」
その一部始終を、朝食をつつきながら眺めていた紫苑が
「悪いやつやないんやで?」
言うと、華鈴がうんうんうなずいた。
「まぁ、悪いやつやったら女性恐怖症にはなってないんやろけど」
紫苑は朝食をとりおえ、コップに水を注ぐと一気に飲み干した。
「ごちそうさまでした!」
手を合わせ、お辞儀をする。
「おそまつさまでした。足りました?」
「うん、ちょうどよかったし旨かった」
「良かったです。あ、一緒に片付けるので……」
手早く食器を片付けようとする紫苑に、華鈴が声をかける。
「ん? 洗うのまでお願いしていいの?」
「はい」
「あら、ありがとう。今日は二人とも休み?」
「はい、私はお休みです」
「俺、これから寝る」
「また徹夜したん」
「夜のがはかどんねん。それに徹夜は俺だけちゃうし」言って、キイロが二階を見た。視線の先には青砥の部屋があった。
「夜型増えたなぁ」言いながら紫苑が席を立ち「ほんなら、オレこれから出勤やから、行くわ」二人に伝える。
「うん」
「はい」
「ありがとうね。あとお願いします」
「はい、いってらっしゃいませ」
華鈴の見送る言葉に紫苑が手を振り、自室に戻った。
「……大丈夫でしたか?」
「えっ?」
「これから寝るのに、食事とか、コーヒーとか……」
「あぁ……。メシは腹減ってたから丁度良かったし、コーヒーは常飲しててカフェインで寝れないとかないから大丈夫」
「そうですか」
華鈴は安心したように笑顔を見せて、朝食を食べ終えた。
「一緒に片付けていいですか?」
空になった食器を見やり、華鈴がキイロに問う。
「はい。……ありがとう。うまかった……です」
ごちそうさま、と小さくお辞儀をして、飲みかけのコーヒーが入ったカップを手に立ち上がった。
「はい。ありがとうございます」
穏やかに微笑む華鈴に「じゃあ」と言い残してキイロも自室へ戻る。
悪い人ではないのなんて、初対面からわかっていた。嫌がっていたけど、出ていけ、とは一言も言わなかったから。
引っ越してきた初日の夜、同じベッドで寝転がっていた一緑から、キイロの話を聞いた。
「子供のころのトラウマらしいんやけど」
天井を見ながら一緑が話し始める。
キイロはその顔の美しさも相まって、幼少時代から寄ってくる女性が多かった。
同級生の女の子にしつこくつきまとわれたり、電車内で遭遇した大人の女性に痴漢まがいのことをされたり、他校の女生徒たちに写真を隠し撮りされ、仲間内で勝手に共有されたり……。
思春期の頃までに体験したそれらの出来事が、キイロの心に傷をつけ、トラウマを植え付けた。
大人になるにつれ防御策や対抗策を身に付けて、やがて信頼出来る恋人ができた。幸せだったし、その幸せは続くものだと思っていた。生まれて初めて、一生を共にする女性に出会ったと思えた。
なのに、酷く裏切られる形で別れてしまった。
やはり、自分は信用のできる女性とは出会えないんだ。そう思い込んでしまったキイロは、女性に対して心を閉ざしてしまう。
以来、女性不信が女性恐怖症へと変化してしまったそうだ。
「相当酔っぱらったときに話したことやし、あんまり言うのもどうかと思ってんけど……」
歯切れの悪い一緑に、華鈴が「うん」と小さく返事した。「教えてくれてありがとう。聞いたのは言わないし、近付き過ぎないように気を付ける」
自分がいることでキイロの行動を制限させるのは忍びない。
「あんまり過度にする必要もないから」
「うん、大丈夫」
微笑んで言った華鈴の言葉に、一緑は安堵の笑みを浮かべ、髪をなでる。
(華鈴と接することで、少しでも緩和されたらええんやけど……)
一緑は思いながら、華鈴を優しく抱き寄せた。
「?」(あ……)
華鈴がキッチンで朝食の準備をしていると、リビングにキイロが顔を出し、そして後ずさった。華鈴を遠巻きに見てダイニングテーブルの一角に陣取る。
「……おはようございます」華鈴が声をかけると
「おはようございます……」視線をそらしたまま小さく会釈する。
郵便受けから持って来た新聞を黙々と読むキイロに、
「おはよー。おはよーさん」
声をかけたのは紫苑だ。ぼさぼさの頭に指を入れて髪をほぐし、華鈴にも声をかける。「おはよう」
「おはようございます」
「早いね」
「もう習慣で……」
姉と同居中、食事は華鈴が担当していて、二人の朝食と弁当を作っていた。その関係で、朝が早い。
「一緑は?」
「まだ寝てます」
「よぉ寝るよな」紫苑が眠たそうに笑う。「コーヒー、ええ匂いやね」
Tシャツの中に右手を入れ、腹部をさすりながら猫が匂いを嗅ぐような顔でコーヒーの香りを察知する。
「飲みますか? 多めに作ったので、お二人の分もありますよ」
「うん、飲む飲む。キイロも呼ばれたら?」
「えっ、あ……いや…。手ぇわずらわせるのも悪いし……」
「一杯も二杯も変わらんのんちゃう? ねぇ?」
「はい。カップにつぐだけなので」
「ほれ」
「…じゃあ…お願いします」
新聞から華鈴に向き直り言うが、その視線は定まっていない。
「はい」華鈴は笑顔になって「簡単で良ければ、朝食も一緒にお作りしますよ?」続けた。
「ほんまに? ええの?」
紫苑がキッチンへ移動する。
「はい。パンと卵料理くらいですけど」
二人分のコーヒーをカップにつぐ華鈴の隣に紫苑が立つ。
「じゅーぶんじゅーぶん!」
華鈴が調理スペースに並べている食材を見て、大体のレシピを把握した紫苑が目を細めた。
「卵、混ぜますか? 目玉焼きがいいですか?」
「面倒じゃなかったら混ぜてほしいな」
「はーい」
「キイロは?」
「紫苑くんと同じで……」
「はい。少々お時間いただきますね」
「うん、なんぼでも待つわ。コーヒー、もらってってええ?」
「はい、お願いします」
華鈴がトレイに乗せたカップを紫苑がダイニングテーブルへ運ぶ。
「よぉオレらのってわかったね」
紫苑が黄色いカップをキイロに、紫のカップを自分の前に置きながら言った。
「はい。お名前と色、同じなのかなって思って」
「さすがやね~」
トレイに乗っていたシュガーポットとミルクピッチャーを置きながら紫苑が感嘆の声を上げる。
「いえ……」
華鈴は照れ笑いを浮かべつつ、三人分の朝食を調理し始めた。
自分用にオムレツとサラダとトースト、キイロと紫苑にはそれにプラスしてボイルしたソーセージを添えて、それぞれ大皿に盛り付けてテーブルへ運ぶ。
作り終えるころには、紫苑はコーヒーを飲み終えていて。「あ、ごめん。カウンターでええよ、運ぶ運ぶ」
「ありがとうございます」
紫苑の申し出を有難く受けて、キイロと紫苑用のプレートをカウンターに置いた。中継した紫苑がキイロと自席の前に置く。
「わー、めっちゃ旨そう~」
紫苑が嬉しそうに言って、冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取り出した。一緒に持ってきたトレイに、グラスを三個乗せて席へ戻る。
「ホントに簡単ですけど……」カトラリー類の入ったケースをテーブルに置いて、自分用の皿とコーヒーが入ったカップを運んだ華鈴は、二人から少し離れた席に陣取った。
「作ってもらえるだけでありがたいよ」
紫苑は目を細めて、手を合わせた。
華鈴が落ち着くのを確認した紫苑が「じゃあ、いただきます~」手を合わせたまま軽くお辞儀する。
華鈴とキイロもそれに倣って、いただきますと唱和した。
「いやー、こんなちゃんとした人様の手作り朝食、久しぶりやわ~」
「普段は朝はどうなさってるんですか?」
「一人分作るか、面倒やったらコンビニとかかなー」
「自炊なされるんですね」
「オレと一緑と橙山はな」
「俺と黒枝くんもたまにはやるよ」キイロがぽそりと言葉を挟む。
「たまにな。キイロは手際もいいしな。もっとやったらええのに思うけど」
「黒枝くんめっちゃ手際悪い」
「ゆーてやんなよ」
言いながらキイロと紫苑が笑う。二人とも、顔がくしゃくしゃになって愛らしい。
(笑うとこんな顔なんだ……)もっと笑ったらいいのに。華鈴はキイロを見て思う。
「ゆうてオレらかて人の分作らんしなぁ」
「時間あわんねんもん」
「朝は特になぁ。職業が違うとこんなに違うもんか思うよな」
「みなさん、お仕事バラバラなんですね」
華鈴の言葉にキイロと紫苑がうなずく。
「キイロはほとんど在宅やしなぁ」
「紫苑くんは通勤せなあかんしね」
「毎朝決まった時間に通勤してる人のが少ないやろ、うちは」
「そうやなぁ」
現にいまも食卓には三人しかいない。一緑も会社員ではあるが、在宅作業と通勤とか入り混じっていて、今日は在宅の日だからと遅寝を楽しんでいる。
(ヒロハラさんいてくれてよかった)
キイロと二人きりだったら、こんな会話すらできていないかもしれない。
思わず見つめてしまった華鈴にキイロが気付いて、身を固くして視線をそむけた。
(あっ……)「すみません……」慌てて目をそらした華鈴に
「悪いんキイロや、謝らんでいいよ」紫苑が顔の前で手を左右にヒラつかせながら鼻にシワを寄せた。その態度が意図していない反射からくるものだと知っているからだ。
「キイロも、もうええトシなんやから、ええ加減克服したら? いい機会や思うけど」
「紫苑くんには怖いもんがないからそんなん言えんねん」
「あるよ、こわいもん」
「なにぃさ」
「むしムシ、虫!」紫苑が顔をしかめ、小さくかぶりを振る。
「それ克服できる?」
「できひん!」食い気味の回答に
「な? それと一緒やねん」諭すようにキイロが続けた。
(虫と一緒かー)という華鈴の表情に気付き、
「あっ! ちゃうねん! 女性と虫が同等や思てるわけじゃないねん! ヒトにはどうしても苦手なナニかがあるって話で!」
視線は定まらないものの、華鈴に向かい慌ててフォローするキイロに
「大丈夫です! ちゃんと、わかってます」華鈴が慌てて答えた。
「なんか、すんません」
「いえ、こちらこそ」
その一部始終を、朝食をつつきながら眺めていた紫苑が
「悪いやつやないんやで?」
言うと、華鈴がうんうんうなずいた。
「まぁ、悪いやつやったら女性恐怖症にはなってないんやろけど」
紫苑は朝食をとりおえ、コップに水を注ぐと一気に飲み干した。
「ごちそうさまでした!」
手を合わせ、お辞儀をする。
「おそまつさまでした。足りました?」
「うん、ちょうどよかったし旨かった」
「良かったです。あ、一緒に片付けるので……」
手早く食器を片付けようとする紫苑に、華鈴が声をかける。
「ん? 洗うのまでお願いしていいの?」
「はい」
「あら、ありがとう。今日は二人とも休み?」
「はい、私はお休みです」
「俺、これから寝る」
「また徹夜したん」
「夜のがはかどんねん。それに徹夜は俺だけちゃうし」言って、キイロが二階を見た。視線の先には青砥の部屋があった。
「夜型増えたなぁ」言いながら紫苑が席を立ち「ほんなら、オレこれから出勤やから、行くわ」二人に伝える。
「うん」
「はい」
「ありがとうね。あとお願いします」
「はい、いってらっしゃいませ」
華鈴の見送る言葉に紫苑が手を振り、自室に戻った。
「……大丈夫でしたか?」
「えっ?」
「これから寝るのに、食事とか、コーヒーとか……」
「あぁ……。メシは腹減ってたから丁度良かったし、コーヒーは常飲しててカフェインで寝れないとかないから大丈夫」
「そうですか」
華鈴は安心したように笑顔を見せて、朝食を食べ終えた。
「一緒に片付けていいですか?」
空になった食器を見やり、華鈴がキイロに問う。
「はい。……ありがとう。うまかった……です」
ごちそうさま、と小さくお辞儀をして、飲みかけのコーヒーが入ったカップを手に立ち上がった。
「はい。ありがとうございます」
穏やかに微笑む華鈴に「じゃあ」と言い残してキイロも自室へ戻る。
悪い人ではないのなんて、初対面からわかっていた。嫌がっていたけど、出ていけ、とは一言も言わなかったから。
引っ越してきた初日の夜、同じベッドで寝転がっていた一緑から、キイロの話を聞いた。
「子供のころのトラウマらしいんやけど」
天井を見ながら一緑が話し始める。
キイロはその顔の美しさも相まって、幼少時代から寄ってくる女性が多かった。
同級生の女の子にしつこくつきまとわれたり、電車内で遭遇した大人の女性に痴漢まがいのことをされたり、他校の女生徒たちに写真を隠し撮りされ、仲間内で勝手に共有されたり……。
思春期の頃までに体験したそれらの出来事が、キイロの心に傷をつけ、トラウマを植え付けた。
大人になるにつれ防御策や対抗策を身に付けて、やがて信頼出来る恋人ができた。幸せだったし、その幸せは続くものだと思っていた。生まれて初めて、一生を共にする女性に出会ったと思えた。
なのに、酷く裏切られる形で別れてしまった。
やはり、自分は信用のできる女性とは出会えないんだ。そう思い込んでしまったキイロは、女性に対して心を閉ざしてしまう。
以来、女性不信が女性恐怖症へと変化してしまったそうだ。
「相当酔っぱらったときに話したことやし、あんまり言うのもどうかと思ってんけど……」
歯切れの悪い一緑に、華鈴が「うん」と小さく返事した。「教えてくれてありがとう。聞いたのは言わないし、近付き過ぎないように気を付ける」
自分がいることでキイロの行動を制限させるのは忍びない。
「あんまり過度にする必要もないから」
「うん、大丈夫」
微笑んで言った華鈴の言葉に、一緑は安堵の笑みを浮かべ、髪をなでる。
(華鈴と接することで、少しでも緩和されたらええんやけど……)
一緑は思いながら、華鈴を優しく抱き寄せた。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
帰らなければ良かった
jun
恋愛
ファルコン騎士団のシシリー・フォードが帰宅すると、婚約者で同じファルコン騎士団の副隊長のブライアン・ハワードが、ベッドで寝ていた…女と裸で。
傷付いたシシリーと傷付けたブライアン…
何故ブライアンは溺愛していたシシリーを裏切ったのか。
*性被害、レイプなどの言葉が出てきます。
気になる方はお避け下さい。
・8/1 長編に変更しました。
・8/16 本編完結しました。
【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。
文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。
父王に一番愛される姫。
ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。
優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。
しかし、彼は居なくなった。
聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。
そして、二年後。
レティシアナは、大国の王の妻となっていた。
※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。
小説家になろうにも投稿しています。
エールありがとうございます!
【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。
愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。
石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。
ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。
それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。
愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。
もう彼女でいいじゃないですか
キムラましゅろう
恋愛
ある日わたしは婚約者に婚約解消を申し出た。
常にわたし以外の女を腕に絡ませている事に耐えられなくなったからだ。
幼い頃からわたしを溺愛する婚約者は婚約解消を絶対に認めないが、わたしの心は限界だった。
だからわたしは行動する。
わたしから婚約者を自由にするために。
わたしが自由を手にするために。
残酷な表現はありませんが、
性的なワードが幾つが出てきます。
苦手な方は回れ右をお願いします。
小説家になろうさんの方では
ifストーリーを投稿しております。
「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。
木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。
因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。
そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。
彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。
晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。
それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。
幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。
二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。
カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。
こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる