日々の欠片

小海音かなた

文字の大きさ
上 下
264 / 366

9/21『恋するガトーショコラ』

しおりを挟む
 出勤のために店の裏口を開ける。更衣室兼バックヤードに直結したドアから建物内へ入ると、すぐに目に入る派手なのぼり。
 濃いピンク色の布地に、白抜きの文字で【食べると恋が叶う⁈ 恋するガトーショコラ】と書かれている。
 最近のうちの看板商品用なのだけど……。
 食べると恋が叶うかもしれないガトーショコラ自体が恋してるってどういうこと? と見るたび思う。しかし、ハートマークがたくさん描かれたのぼりは女性客の目を惹く。
 謳い文句につられて入店した客は、みんなガトーショコラを買っていく。
 っつーか、ガトーショコラ食べたくらいで恋が叶うなら、俺なんてとっくに両想いだっての。
 コックコートに着替えながら溜息をつく。

 今日も彼女は来るだろうか。

 数か月前、初めて会話した片想い中の相手は、恋人に浮気されて失恋したばかりだった。
 心の弱みにつけこむみたいで、自分の気持ちは伝えられなかった。美味しいケーキ作って待ってる、なんて、ただの営業トークだよ。
 しかし、彼女と勝手に約束したつもりの俺は、新しいケーキを開発した。
 それが件のガトーショコラだ。
 彼女のためだけに試作していたのが店のみんなにバレて、旨いからと商品化されてしまった。未完成作品を商品にするのは気が引けるけど、オーナーが乗り気だから仕方ない。
 のぼりに書かれた謳い文句と商品名は接客担当の若い女性スタッフが考えたもの。男だけのパティシエ陣じゃ思いもつかなかった。
「でもでも、実際ここのガトーショコラを一緒に食べて、告白してもらえたって友達がいるんですよ」
「そりゃそもそも両想いだったんでしょ」
「もー、斐川さんはすぐそういう~」
「そんな都合のいい話ないよ、漫画や小説じゃあるまいし」
「でも絶対、誰か近くにいてほしい時期ですよ。他の人にその場所取られないうちに、斐川さんが行かないと」
「いや……」
 ただの店員とお客さんだよ? しかもただの俺の片想い。
 言いあぐねていたらパティシエの後輩がやってきた。
「無理だよアンズちゃん、斐川チーフは一緒にメシ食ったのに連絡先も聞けない草食系なんだから」
「北本」
「えー、もったいなーい」
 あぁもう、ほっといてくれ。
「絶対モテると思うけどな~、吉見さん」
「……ヨシミさんっていうんだ」
「え、知らなかったんですか? 好きなくせに」
「なんでアンズちゃんは知ってんの」
「ご予約を承るときに、お名前伺うので」
「なるほど」
 ヨシミさんか……。下の名前で呼べるなんて、親しげでいいな。
「メシ行った後もご来店くださってるし、チーフのこと、嫌じゃないんでは?」
「それは知らないけどさ」
 俺はいましがたまで彼女の名前すら知らなかったんだよ? メシったって流れで行けただけだし、俺らの関係性なんて、そんなもんなんだよ。

 成形に失敗したガトーショコラを休憩時間に食べる。実はもうレシピを完成させてるんだけど、それを彼女に言う機会がないんだよな。
 と考えながら歩く帰り道に声をかけられた。
「ヒカワさん」
「はい? あっ」
 振り向いたらそこに、ヨシミさんがいた。
「こっ、こんばんは。よ、ヨシミさん」
「こんばんは」
「すみません、いきなりお名前で呼んで」
「はい? あ。えっと。私、吉見茅子といいます」
「あ、名字……」
「そうなんです。良く間違われるんです」
 なんだ、ドキドキして損した。
 なんとなく、二人で並んで歩き始める。
「新作のガトーショコラ、美味しいですね」
「あっ、ありがとうございます」
「アンズちゃんから、ヒカワさんが開発したって聞きました」
「そうですか、そうなんです。実は……」
 貴方のために……とは言えなくて。
「あのガトーショコラ、まだ完成してないんです」
「え? そうなんですか?」
「はい。開発途中だったのを、旨いからって商品化されて……無責任な話ですけど」
「いえいえっ、途中の段階であんなに美味しいなんて、驚きです」
「それで、その……この間、レシピを完成させたので、貴女に食べていただきたくて」
「え、いいんですか?」
「はい。というか、食べてほしいんです。貴方のために、作ったケーキなので」
 ヨシミさんは驚いて目を丸くした。
「それって……この間言ってくださった、“特別なケーキ”……?」
「っ! はい!」
「……嬉しい」
 柔らかく、嬉しそうな笑みを浮かべるヨシミさん。
 あぁ、やっぱり可愛い……。
「もしよければ、これからも、完成品の第一号を、食べてもらえませんか?」
「……私でよければ、ぜひ」
 告白のつもりの言葉がどう伝わったかわからないけど、これから少しずつ仲を深めていけばいい。
 彼女のためなら、いくらでも特別なケーキを作れるから。

 恋が叶うかも知れないガトーショコラ、案外効果あるかもな。
しおりを挟む

処理中です...