日々の欠片

小海音かなた

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4/30『アカシアの本棚』

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 図書館にいた。それ以外はわからない。
 私は一体何者なのか……。
 果てが見えぬほどの広い室内。棚にぎっしり詰まった本の装丁や書体、言語はバラバラ。外国の言葉なんて熱心に勉強した覚えはないけれど、なぜかすべての言葉が理解できた。
 本、本、本。ゆけどもゆけども本ばかり。
 ふと気になって、一冊の本を手に取った。表紙に書かれているのは……顔を伏せた途端、手に持った本が勝手に開いた――。
* * *
「この子は“聡一”! ここいらで一番聡明な子に育ってほしいから、聡一にしよう」
 ベビーベッドで眠る赤子を見つめて、男が言った。
「いいですね、そうしましょう」
 ベッドに横になっている女は、嬉しそうに笑った。
* * *
「聡一、お前は大きくなったらなにになりたいんだ?」
「うーん……お菓子屋さん!」
「好きだもんね、お菓子」
「うん!」
「そうか。将来は職人になるのかなぁ」
 男が覗き込んだ少年の瞳には、希望に満ちた光が宿っている。
* * *
「父さん」
「おぉ、来てたのか」
 男がベッドから起き上がろうとするのを、青年が優しく制した。
「すまんな」
「大丈夫。これ、母さんから」
 青年が渡した紙袋には、数冊の雑誌と文庫本が入っている。
「助かるよ。入院生活は暇でなぁ」
「仕事ばっかしてたもんね」
「そうだなぁ。家族旅行に行ったのはいつだったか」
「僕が小学生のとき、かな」
「そうか……ずいぶんご無沙汰だな」
「そうだね」
「退院できたら、また行こうか」
「いいね。大学入学のお祝いに連れてってよ」
「そうだな」
 男が静かに笑う。
 青年は男の髪に白いものが増えたことに気づき、寂しさを感じた。
* * *
 祭壇の前で坊主が読経する。次々と人が入れ替わり焼香を済ませる。
 青年の横で疲れ切った顔の女が、青年同様参列者に頭をさげる。
 花の中に飾られた写真の中で、男は静かに笑っていた。
* * *
「ただいま」
「おかえり。ようこそ、初めまして」
「初めまして。三枝美香と申します」
「ご丁寧にありがとう。寒いでしょ、あがってあがって」
 少し戸惑う女性に笑いかける女に続き、青年が室内に入るよう促した。
「お父さん、美香さんいらっしゃったわよ」
「あの……手を合わせても……」
「ぜひ。お父さんもきっと喜んでるわ」
 仏壇に手を合わせる女を、青年は愛おしそうに見つめていた。
* * *
「うーん、いざとなれば浮かぶと思ってたんだけどなー」
「まだ時間あるから、ゆっくり考えようよ」
「そうだねぇ」
「聡一って名前は、誰がつけてくれたの?」
「父さん。“地域で一番聡明になれるように”、だったかな」
「そうなんだ」
「美香は?」
「生まれたとき、金木犀の香りが美しかったから、ってママが」
「芸術的な表現だね」
「そうね」
 ふふっと笑い合って、ベビーベッドで眠る赤子を覗き込んだ。
* * *
「おぉ、一美。来てくれたんだ」
「うん。今日はいい天気だね」
「そうだな」
 少女はベッド脇に置かれた椅子に座り、持参した林檎を剥き始める。
「ママから?」
「そう。いい香りだからって」
「手際いいな」
「学校でやってるからね」
 花梗から萼に向かい包丁をすべらせて皮を剥く作業に、男が感心する。
「4月からプロの料理人か」
「うん。お客さんに出せるようになったら、ママと一緒に食べに来てね」
「あぁ。そのときまでには全快させるよ」
「うん」
 綺麗に剥かれた林檎を一口かじると、爽やかな香りが鼻腔に広がった。
* * *
 ――涙が零れ落ちた。
 棚に詰まった本は、人生そのものだった。
 手の中の、私の一生が綴られた本。最終ページに書かれていた死因は、父と同じ病名。
 最期のほうは意識が混濁していてあまり覚えていないが……そうか、こういう結末だったんだ。
 手の中の本を棚に戻し、歩き出す。いまならきっと、見つけられるはず。
 人の人生を読むなんて良くないのはわかっているけど、どうしても気になって……見つけたのは妻と娘の【本】。
 私がいなくなってから――いまはどうしているかを読ませてもらう。
* * *
「パパね、小さいころ、お菓子作る人になりたかったんだって」
「だからこの格好?」
「そう」
 微笑する女の視線の先、アルバムの中には、少年がコック帽を被り泡立て器を掲げる写真が貼られている。
「いい写真」
「そうね。でも遺影にするには若すぎるわよね」
「うん……」
 うまく笑えなくて伏せた頭を、疲れた手が撫でた。
「パパに、料理、食べてほしかった」
「そうね」
 優しく笑う女の目からも、涙が零れていた。
* * *
 二人とも、落ち込んではいるけれどきっと気丈に生きてくれるだろう。いつか私の代わりに彼女たちを守る人が現れると信じて、本を棚にそっと戻した。
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