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4/2『約束の白詰草』
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それは私にとって、婚約指輪と同等の価値があった。
「なにもない村だろう?」
「そんなことないわ。素敵な所」
若い男女が談笑しながら散策していた。娘の頭には、青年が贈った花の冠が乗せられている。
「ねぇ、あそこは、森?」
「そうだよ。でもあんまり近づかないでね」
「なぜ?」
「湖のヌシがいて、若い娘を食ってしまうって言い伝えが昔からあるんだ」
「やだ、怖い」
「本当にただの言い伝えだけどね。そんな事件、起こったことないから」
「そう……」
笑いながら言う青年とは裏腹に、少しの気味悪さを感じて娘は森から視線を外した。
娘は青年と祝言を挙げた。村一番の桜が咲き誇る春のことだった。
娘の器量の良さは村人たちをたちまち魅了した。狭い集落の中で蝶よ花よと大事にされ、夫婦は幸せに暮らしていた。
しかしその幸せも長くは続かなかった。
「大変だぁー! 晤郎が、晤郎がぁ!」
夕餉の支度をしている娘のもとに、村人がこけつまろびつやってきた。ただ事ではない様子に、娘の顔がこわばる。
数名の村人と共に辿り着いた森の奥。湖のほとりで横たわる青年は、もう息をしていなかった。
亡骸にすがりつき泣き叫ぶ娘に、声を掛けられる者はいなかった。
晴れの日も雨の日も雪の日も娘は湖に赴き、花を手向けた。
いつか聞いた“湖のヌシ”が本当にいるなら、夫がどうしてあんなことになったのかを聞きたかった。
食事も摂れず、人の言葉は耳をすり抜け、娘はとうとう骨と皮のようになってしまった。
弱い足取りで道を行き、道端に咲いていた一輪の花を手折り森の奥へ。
湖面に手向けた花を喰うように、湖が大きな口を開け、娘を飲み込んだ。
水中で見えたのは、ある日の出来事。
~~~
水面で小鳥が藻掻いている。
巣立って間もない羽ばたきでは足りず、落ちてしまったようだ。
青年は草鞋の底で水底を探りながら湖に入る。水位は腰ほどしかなく、小鳥を救うのはたやすかった。
首にかけた手拭いで小鳥を優しく拭い、羽が乾いたのを確認してそっと放った。小鳥は羽ばたいて近くの木にとまり、羽根の毛繕いを始めた。
青年は顔をほころばせ、他に溺れそうな生き物がいないことを確認してから湖岸へ向かう。その途中、混生する藻が足に絡まり、行く手を阻んだ。摂取しそびれた栄養を補完するように藻は足をすくいとり、やがて青年は湖に呑まれた。
~~~
頬を伝うのは涙か水滴か……。
木の上に作られた巣の中で、小鳥が巣立とうとしていた。羽ばたく手本を見せるその親鳥は、かつて青年が助けた小鳥。
繋がる命と絶たれた命。その重さは等しいとわかってはいるけれど……。
――来るか。
なにかが言った。
娘は命の糸をほどくように、湖に溶けた。
湖の中はただ、心地良かった。
村一番の桜が咲き、散って、また咲いて――。幾度となく繰り返される季節を何度も巡り、そうしてまた、出会った。
そっと手向けられた花冠。それはかつて青年から贈られたのと同じもの。生まれ変わっても魂の芯は同じなのだと知って嬉しかった。
もう決して繋がれないことはわかっているのに、少しの期待にすがってしまいそうになる。
そんなのとっくに終わったのだ。言い聞かせるように何度もつぶやく。
その“言葉”は泡になって弾けて、誰にも届かず消えた。
「ココ様、おはようございます」
愛しい声に呼ばれ、顔を逸らした。もうこれ以上、近づいてはいけないという意思表示、のつもり。
「ココ様?」
駐在が不思議そうに問いかける。けれど振り向くことはもうしない。それがお互いのためなのだ。
背後で水の音が聞こえる。駐在が湖の中に入る音だ。
いけないとわかっているのに、押し戻すことができない。
駐在が“ココ様”を背後からそっと抱き寄せた。
伝わる体温、響く鼓動。そのどれもが愛おしくて、離れがたくて、独り占めしたくなる。
このまま溺れさせてしまおうか。そうすればまた、同じ時を過ごすことができる。
「……なんだか、懐かしい……」
そうよ。だって貴方は、私の……。
言いかけて、やめた。
湖の奥底から、黒い渦が湧き始めていたから。
駐在の腕の中をすり抜け湖の中へ潜り、波を立てて駐在を湖岸へ押し返した。身体を濡らしていた水滴をすべて吸い取り、湖の底で膝を抱える。
駐在は声をかけようとしてやめ、あの日と同じように花冠を手向けると、その場を去った。
もう同じ輪に入ることは叶わない。それでもいいからここにいると決めた。同じ悲劇を二度と繰り返さないように。もう誰も悲しませないように。
以前とは違うヒトだとわかっているのに、こんなにも心が揺れる。
湖底に落ちた花冠をそっと抱き寄せた。そこにはまだ、あの人の温もりが残っているようだった――。
「なにもない村だろう?」
「そんなことないわ。素敵な所」
若い男女が談笑しながら散策していた。娘の頭には、青年が贈った花の冠が乗せられている。
「ねぇ、あそこは、森?」
「そうだよ。でもあんまり近づかないでね」
「なぜ?」
「湖のヌシがいて、若い娘を食ってしまうって言い伝えが昔からあるんだ」
「やだ、怖い」
「本当にただの言い伝えだけどね。そんな事件、起こったことないから」
「そう……」
笑いながら言う青年とは裏腹に、少しの気味悪さを感じて娘は森から視線を外した。
娘は青年と祝言を挙げた。村一番の桜が咲き誇る春のことだった。
娘の器量の良さは村人たちをたちまち魅了した。狭い集落の中で蝶よ花よと大事にされ、夫婦は幸せに暮らしていた。
しかしその幸せも長くは続かなかった。
「大変だぁー! 晤郎が、晤郎がぁ!」
夕餉の支度をしている娘のもとに、村人がこけつまろびつやってきた。ただ事ではない様子に、娘の顔がこわばる。
数名の村人と共に辿り着いた森の奥。湖のほとりで横たわる青年は、もう息をしていなかった。
亡骸にすがりつき泣き叫ぶ娘に、声を掛けられる者はいなかった。
晴れの日も雨の日も雪の日も娘は湖に赴き、花を手向けた。
いつか聞いた“湖のヌシ”が本当にいるなら、夫がどうしてあんなことになったのかを聞きたかった。
食事も摂れず、人の言葉は耳をすり抜け、娘はとうとう骨と皮のようになってしまった。
弱い足取りで道を行き、道端に咲いていた一輪の花を手折り森の奥へ。
湖面に手向けた花を喰うように、湖が大きな口を開け、娘を飲み込んだ。
水中で見えたのは、ある日の出来事。
~~~
水面で小鳥が藻掻いている。
巣立って間もない羽ばたきでは足りず、落ちてしまったようだ。
青年は草鞋の底で水底を探りながら湖に入る。水位は腰ほどしかなく、小鳥を救うのはたやすかった。
首にかけた手拭いで小鳥を優しく拭い、羽が乾いたのを確認してそっと放った。小鳥は羽ばたいて近くの木にとまり、羽根の毛繕いを始めた。
青年は顔をほころばせ、他に溺れそうな生き物がいないことを確認してから湖岸へ向かう。その途中、混生する藻が足に絡まり、行く手を阻んだ。摂取しそびれた栄養を補完するように藻は足をすくいとり、やがて青年は湖に呑まれた。
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頬を伝うのは涙か水滴か……。
木の上に作られた巣の中で、小鳥が巣立とうとしていた。羽ばたく手本を見せるその親鳥は、かつて青年が助けた小鳥。
繋がる命と絶たれた命。その重さは等しいとわかってはいるけれど……。
――来るか。
なにかが言った。
娘は命の糸をほどくように、湖に溶けた。
湖の中はただ、心地良かった。
村一番の桜が咲き、散って、また咲いて――。幾度となく繰り返される季節を何度も巡り、そうしてまた、出会った。
そっと手向けられた花冠。それはかつて青年から贈られたのと同じもの。生まれ変わっても魂の芯は同じなのだと知って嬉しかった。
もう決して繋がれないことはわかっているのに、少しの期待にすがってしまいそうになる。
そんなのとっくに終わったのだ。言い聞かせるように何度もつぶやく。
その“言葉”は泡になって弾けて、誰にも届かず消えた。
「ココ様、おはようございます」
愛しい声に呼ばれ、顔を逸らした。もうこれ以上、近づいてはいけないという意思表示、のつもり。
「ココ様?」
駐在が不思議そうに問いかける。けれど振り向くことはもうしない。それがお互いのためなのだ。
背後で水の音が聞こえる。駐在が湖の中に入る音だ。
いけないとわかっているのに、押し戻すことができない。
駐在が“ココ様”を背後からそっと抱き寄せた。
伝わる体温、響く鼓動。そのどれもが愛おしくて、離れがたくて、独り占めしたくなる。
このまま溺れさせてしまおうか。そうすればまた、同じ時を過ごすことができる。
「……なんだか、懐かしい……」
そうよ。だって貴方は、私の……。
言いかけて、やめた。
湖の奥底から、黒い渦が湧き始めていたから。
駐在の腕の中をすり抜け湖の中へ潜り、波を立てて駐在を湖岸へ押し返した。身体を濡らしていた水滴をすべて吸い取り、湖の底で膝を抱える。
駐在は声をかけようとしてやめ、あの日と同じように花冠を手向けると、その場を去った。
もう同じ輪に入ることは叶わない。それでもいいからここにいると決めた。同じ悲劇を二度と繰り返さないように。もう誰も悲しませないように。
以前とは違うヒトだとわかっているのに、こんなにも心が揺れる。
湖底に落ちた花冠をそっと抱き寄せた。そこにはまだ、あの人の温もりが残っているようだった――。
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