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Chapter.78
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熱がある感じもないが、なんだか怠い。それに、いま一緒にいたら要らぬことを言ってしまいそうだ。
好きだと何度言ってもらっても、それに応えられるほどの自信もない。そんな自分より、美しくきらびやかなツナミのような女性のほうが良かったんじゃない?
そう言ったら、攷斗は怒るだろうか。
(そういえば……)
彼女は攷斗のことを“コイト・ウタナ”と呼んでいた。
ひぃなが好んで身に着けるブランドの一つであるその名前。
(もしかして……)
そう考え始めたところで、ひぃなの部屋のドアがノックされた。
「起きてる?」
室外から、攷斗の声。
ドアを開けることで返答する。
そこには、風呂上がりの攷斗が立っていた。
「少し、時間いいかな」
「うん」
呼び出され、リビングへ移動する。ソファに座ると、攷斗がひぃなに向き直った。
「謝りたい、ことがあって」
「うん?」
「その……いろいろ、黙ってたことがあるから」
「うん」
攷斗の謝罪の意味がいまいち酌み取れず、首肯しか出来ない。
「帰ってきたとき待ってたヒトに、俺が呼ばれた名前、憶えてる?」
「うん。コイト・ウタナ、でしょ?」
「そう」
何故その名前を? と思ったし、そもそもその名前を知っているから忘れるはずもない。
「その、コイトウタナ、俺なんだ」
「……え?」
ちょっとうまく理解が出来ない。
「だよね。そうなるよね」なんか証明できるもんあるかな……とつぶやき「ちょっと、待ってて」とリビングを出た。ほどなくして両手にスケッチブックやクリアファイルを抱えて戻ってくる。
「これ、いままでのデザイン画」
テーブルに資料を広げる。
「あとこれ、入社のときに配られる社内報。社外秘だから、社員しか見たことない」
そこには、社長である攷斗の写真とインタビュー記事が掲載されている。しかし名前は【棚井 攷斗】ではなく【小糸 謳南】と表記されている。
デザイン画の中にも、アパレル誌に掲載されていたものや、ひぃなが持っている服の原画がいくつか含まれている。
「これの中にも、ショーのときの画像とかあるんだけど」
とスマホを出そうとしたので
「いい、いいよ。大丈夫」
もう充分理解したと、手で制した。
「驚いてるし、まだ全部受け止められてる気はしないけど、信じる。社内報だけでも、充分」
供給が多過ぎても、かえって飲み込みづらい。
「そう。良かった。ごめんね、急で」
「いや、うん、まぁ……」
「あー、ちなみに、名前」
と傍らのスケッチブックを手に取り、カタカナで【コイトウタナ】と書く。
「これ、アナグラムになってて」
と、一文字ずつ矢印を引きながら、下部の空欄に【タナイコウト】と書き足していく。
スケッチブックに書かれたその文字と矢印は、余ることなく全て繋がった。
「……全然気付かなかった……」
服のタグやショップバッグに使われている社名のロゴは英語表記だし、そもそもアナグラムになっていると知らなければ、文字を入れ替えてみようなどと思わない。
「っていうか、私、一緒に住むようになってからもウタナの服、着てたよね?」
「うん。着てくれてるなーって思ってた」
「なんでそのとき言ってくれなかったの」
「言う機会なくて。それ、俺がデザインしたんだーとか、ちょっと恥ずかしい」
世界的有名人が何を言っているのか。
“俺が”と“デザイン”の間に、“ひぃなに似合いそうな服”という言葉が入るから、よけいに恥ずかしいとは口が裂けても言えない。
「あと、その……押しかけてきた人……」
「モデルの人だよね。ツナミ? さん?」
「うん。うちのショーにけっこう出てくれてる人でさ。カタログとかにも起用させてもらってるんだけど」
「うん。雑誌とかで見たことある」
会社の休憩室に置いてあるモード系の雑誌で良く見る顔だ。
「……ほんとに、なにも、なかったから」
「うん」
あまりにあっさりした返答に、攷斗が拍子抜けしたような顔になる。
「なんか、もっと、こう……いや、いいや」
「ごめん。なんか反応間違ってた?」
「間違ってるとかじゃないよ。気にしてないならいいんだ」
「正直驚いたけど、過去のことをとやかく言う権利、私にはないし…それより……」
「ん?」
「セキュリティ、大丈夫かな、って。鍵とか持ってないのに玄関先まで来れたってことだよね……?」
「そう、だね」
思いがけない疑問に、攷斗が神妙な面持ちを見せる。
「オートロックは下のドア開いてれば誰でも入ってこれるの知ってるけど、不測の事態のときに対応できる力があるかが不安……かな」
「うーん。今度管理人さんに話しておくわ」
「うん。お願いします」
ひぃなの脳裏に特定の人物が浮かんだことは内緒だ。
「あ、あともういっこ、言っておかないとだわ」
「ん?」
「この家、賃貸じゃないから、使い勝手悪いところあったら教えて。リフォームする」
「……ん?」
「持ち家なんだ。婚姻届出すちょっと前に買って、すぐに出ていくのもアレだから、ひなに引っ越してきてもらったの」
ウタナの業績をもってすれば、社長がこのレベルの家を買えてもおかしくはない。とは思うものの、やはり純粋に驚きはした。
「リフォームは、不要です。とても、住み心地が良いので」
「そう? ならいいけど。海外移住でもしない限り、ずっと住むつもりだからさ。まぁ、しないけど」
「ないの? そういう話」
「海外拠点? ないかなー。ひながいいならそれでもいいけど」
「うーん……」
「でしょ?」
「いえ。それが棚井さんの飛躍につながるのでしたら、ワタクシのことはお気になさらず……」
「なんで業務口調なの」
「だって、私の都合で足引っ張りたくないし」
うつむいたひぃなの声は、どんどん小さくなっていく。
「で? ひなに構わずひなを日本に残して俺だけ海外行っていいよって?」
「そしたら保証人不要の住居探しゅぎゅ」
攷斗がひぃなの頬を手で挟み、言葉を無理矢理止めた。押し出された唇がとがってうまく喋れない。
「俺の気持ち無視しないでよ。俺はひなと一緒にいたいんだから」
いままでだって海外拠点の話は出たが、会えないうちに誰かに持って行かれたくなくて断り続けていた。
それでも日本を拠点にすることを武器に変えて、急成長を遂げたのだ。いまでは海外に支店を置いて、移住を希望する日本人スタッフや現地スタッフに仕切らせ、スキルアップに繋げようという話もでている。
(このままチューして押し倒してやろうか)
しっとり濡れ、弾力がありそうな唇に、愛しさともどかしさとが絡まって感情が揺さぶられる。
「しゅみましぇん……」
とがったままの口でしゃべるから、口語がおかしい。
「ははっ」
思わず笑って、手を離した。
「なんで笑うの。コウトのせいでしょ」
「ごめんごめん」
ラッコの毛づくろいのように頬をマッサージして、ひぃなが自ら口を尖らせる。
「かわいいなぁ」
思わず口をついて出た言葉に、ひぃなが動きを止めた。
「……かわいいよ」
優しいまなざしと柔らかいその口調に見える愛情が伝わったのだろうか。
「……ありがとう」
所在投げに視線をさまよわせ、ふてくされたようにひぃなが礼を言う。
かわいい、と言うと、怒ったような拗ねたような顔で礼を言う。
好きだよ、と言うと、恥じらいと困惑が混ざったような顔をしてうつむいて、やはり礼を言う。
嫌われてはいないけど、好かれてもいないのかと、積み上げてきた自信がなくなる。
心なしか照れたように恥じらう困り顔のひぃなは、いつも攷斗の理性を叩き壊そうとする。
これ以上一緒にいたら、無理矢理手を出してしまいそうで、攷斗は大きく呼吸をした。
「夜遅くにごめんね。部屋、戻るよね?」
「そうだね。…おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
リビングで別れて、各々の部屋へ移動する。
振り返って、抱き寄せたら、受け入れてくれるのだろうか。
毎夜自室へ戻るたび、そんなことを思う。実行する勇気もないくせに、ただ妄想だけが膨らんで、いまにも破裂しそうだ。
“偽装”結婚から半年が経って、現状では満足出来なくなっていた。
それは、攷斗も、ひぃなも、同様だった。
好きだと何度言ってもらっても、それに応えられるほどの自信もない。そんな自分より、美しくきらびやかなツナミのような女性のほうが良かったんじゃない?
そう言ったら、攷斗は怒るだろうか。
(そういえば……)
彼女は攷斗のことを“コイト・ウタナ”と呼んでいた。
ひぃなが好んで身に着けるブランドの一つであるその名前。
(もしかして……)
そう考え始めたところで、ひぃなの部屋のドアがノックされた。
「起きてる?」
室外から、攷斗の声。
ドアを開けることで返答する。
そこには、風呂上がりの攷斗が立っていた。
「少し、時間いいかな」
「うん」
呼び出され、リビングへ移動する。ソファに座ると、攷斗がひぃなに向き直った。
「謝りたい、ことがあって」
「うん?」
「その……いろいろ、黙ってたことがあるから」
「うん」
攷斗の謝罪の意味がいまいち酌み取れず、首肯しか出来ない。
「帰ってきたとき待ってたヒトに、俺が呼ばれた名前、憶えてる?」
「うん。コイト・ウタナ、でしょ?」
「そう」
何故その名前を? と思ったし、そもそもその名前を知っているから忘れるはずもない。
「その、コイトウタナ、俺なんだ」
「……え?」
ちょっとうまく理解が出来ない。
「だよね。そうなるよね」なんか証明できるもんあるかな……とつぶやき「ちょっと、待ってて」とリビングを出た。ほどなくして両手にスケッチブックやクリアファイルを抱えて戻ってくる。
「これ、いままでのデザイン画」
テーブルに資料を広げる。
「あとこれ、入社のときに配られる社内報。社外秘だから、社員しか見たことない」
そこには、社長である攷斗の写真とインタビュー記事が掲載されている。しかし名前は【棚井 攷斗】ではなく【小糸 謳南】と表記されている。
デザイン画の中にも、アパレル誌に掲載されていたものや、ひぃなが持っている服の原画がいくつか含まれている。
「これの中にも、ショーのときの画像とかあるんだけど」
とスマホを出そうとしたので
「いい、いいよ。大丈夫」
もう充分理解したと、手で制した。
「驚いてるし、まだ全部受け止められてる気はしないけど、信じる。社内報だけでも、充分」
供給が多過ぎても、かえって飲み込みづらい。
「そう。良かった。ごめんね、急で」
「いや、うん、まぁ……」
「あー、ちなみに、名前」
と傍らのスケッチブックを手に取り、カタカナで【コイトウタナ】と書く。
「これ、アナグラムになってて」
と、一文字ずつ矢印を引きながら、下部の空欄に【タナイコウト】と書き足していく。
スケッチブックに書かれたその文字と矢印は、余ることなく全て繋がった。
「……全然気付かなかった……」
服のタグやショップバッグに使われている社名のロゴは英語表記だし、そもそもアナグラムになっていると知らなければ、文字を入れ替えてみようなどと思わない。
「っていうか、私、一緒に住むようになってからもウタナの服、着てたよね?」
「うん。着てくれてるなーって思ってた」
「なんでそのとき言ってくれなかったの」
「言う機会なくて。それ、俺がデザインしたんだーとか、ちょっと恥ずかしい」
世界的有名人が何を言っているのか。
“俺が”と“デザイン”の間に、“ひぃなに似合いそうな服”という言葉が入るから、よけいに恥ずかしいとは口が裂けても言えない。
「あと、その……押しかけてきた人……」
「モデルの人だよね。ツナミ? さん?」
「うん。うちのショーにけっこう出てくれてる人でさ。カタログとかにも起用させてもらってるんだけど」
「うん。雑誌とかで見たことある」
会社の休憩室に置いてあるモード系の雑誌で良く見る顔だ。
「……ほんとに、なにも、なかったから」
「うん」
あまりにあっさりした返答に、攷斗が拍子抜けしたような顔になる。
「なんか、もっと、こう……いや、いいや」
「ごめん。なんか反応間違ってた?」
「間違ってるとかじゃないよ。気にしてないならいいんだ」
「正直驚いたけど、過去のことをとやかく言う権利、私にはないし…それより……」
「ん?」
「セキュリティ、大丈夫かな、って。鍵とか持ってないのに玄関先まで来れたってことだよね……?」
「そう、だね」
思いがけない疑問に、攷斗が神妙な面持ちを見せる。
「オートロックは下のドア開いてれば誰でも入ってこれるの知ってるけど、不測の事態のときに対応できる力があるかが不安……かな」
「うーん。今度管理人さんに話しておくわ」
「うん。お願いします」
ひぃなの脳裏に特定の人物が浮かんだことは内緒だ。
「あ、あともういっこ、言っておかないとだわ」
「ん?」
「この家、賃貸じゃないから、使い勝手悪いところあったら教えて。リフォームする」
「……ん?」
「持ち家なんだ。婚姻届出すちょっと前に買って、すぐに出ていくのもアレだから、ひなに引っ越してきてもらったの」
ウタナの業績をもってすれば、社長がこのレベルの家を買えてもおかしくはない。とは思うものの、やはり純粋に驚きはした。
「リフォームは、不要です。とても、住み心地が良いので」
「そう? ならいいけど。海外移住でもしない限り、ずっと住むつもりだからさ。まぁ、しないけど」
「ないの? そういう話」
「海外拠点? ないかなー。ひながいいならそれでもいいけど」
「うーん……」
「でしょ?」
「いえ。それが棚井さんの飛躍につながるのでしたら、ワタクシのことはお気になさらず……」
「なんで業務口調なの」
「だって、私の都合で足引っ張りたくないし」
うつむいたひぃなの声は、どんどん小さくなっていく。
「で? ひなに構わずひなを日本に残して俺だけ海外行っていいよって?」
「そしたら保証人不要の住居探しゅぎゅ」
攷斗がひぃなの頬を手で挟み、言葉を無理矢理止めた。押し出された唇がとがってうまく喋れない。
「俺の気持ち無視しないでよ。俺はひなと一緒にいたいんだから」
いままでだって海外拠点の話は出たが、会えないうちに誰かに持って行かれたくなくて断り続けていた。
それでも日本を拠点にすることを武器に変えて、急成長を遂げたのだ。いまでは海外に支店を置いて、移住を希望する日本人スタッフや現地スタッフに仕切らせ、スキルアップに繋げようという話もでている。
(このままチューして押し倒してやろうか)
しっとり濡れ、弾力がありそうな唇に、愛しさともどかしさとが絡まって感情が揺さぶられる。
「しゅみましぇん……」
とがったままの口でしゃべるから、口語がおかしい。
「ははっ」
思わず笑って、手を離した。
「なんで笑うの。コウトのせいでしょ」
「ごめんごめん」
ラッコの毛づくろいのように頬をマッサージして、ひぃなが自ら口を尖らせる。
「かわいいなぁ」
思わず口をついて出た言葉に、ひぃなが動きを止めた。
「……かわいいよ」
優しいまなざしと柔らかいその口調に見える愛情が伝わったのだろうか。
「……ありがとう」
所在投げに視線をさまよわせ、ふてくされたようにひぃなが礼を言う。
かわいい、と言うと、怒ったような拗ねたような顔で礼を言う。
好きだよ、と言うと、恥じらいと困惑が混ざったような顔をしてうつむいて、やはり礼を言う。
嫌われてはいないけど、好かれてもいないのかと、積み上げてきた自信がなくなる。
心なしか照れたように恥じらう困り顔のひぃなは、いつも攷斗の理性を叩き壊そうとする。
これ以上一緒にいたら、無理矢理手を出してしまいそうで、攷斗は大きく呼吸をした。
「夜遅くにごめんね。部屋、戻るよね?」
「そうだね。…おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
リビングで別れて、各々の部屋へ移動する。
振り返って、抱き寄せたら、受け入れてくれるのだろうか。
毎夜自室へ戻るたび、そんなことを思う。実行する勇気もないくせに、ただ妄想だけが膨らんで、いまにも破裂しそうだ。
“偽装”結婚から半年が経って、現状では満足出来なくなっていた。
それは、攷斗も、ひぃなも、同様だった。
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