上 下
10 / 33

Chapter.10

しおりを挟む
 データを入稿した翌日、岳元出版から電話が来た。
『データ拝見しました~。こちら、もう直しはないので、納品完了になります~』
「はい。ありがとうございます」
 電話の相手は尾関だ。チヤはパソコンの画面を見ながら通話中。前日に送信した画像を表示させていたが、もうこれ以上手を入れる必要はなくなったので、安堵してクローズする。
『こちらこそいつも締切前にありがとうございます~。あ、そういえば。新成先生から、お二人で直接打ち合わせする機会を設けるかもって伺ったんだけど』
「はい、そういうお話はいただいてます。尾関さんにご了承いただければ、のお話ですけど」
『こちらは大丈夫ですよ~。都度ご報告いただければ安心だし、直接お話したほうが意思の疎通も早くていいんじゃないかな? と思ってますよ~』
「なら良かったです」
『困ったこととか疑問点とかは、いつもみたいにご連絡くださいね』
「はい、助かります」
『じゃあ、また、別のカット依頼の件と新成先生の件、決まり次第ご連絡しますね~』
「はい。お願いします」
 失礼します、と通話を終えて、またじわじわと“新成先生とお仕事する”実感が湧いてきた。
リテイクがあるかもと取っておいた時間が空いたので、散歩がてら外出することにした。
 外は晴れていて良い天気。けれど時折吹く風は冷たく、本格的な冬の到来を予感させる。
 本屋と画材屋に寄って、新しい商品がないか物色する。文具や画材は、使わなくてもつい買ってしまいそうになって危ない。
 なくなりそうな色のマーカーだけ買い足して家路につこうとするが、少し遠回りして【月に雁】へ寄ることにした。
 早めの夕飯を兼ねるか考えて時間を確認するためにコートのポケットからスマホを取り出す。夕刻にはまだ早く、昼時には遅い。着いた時の空腹具合で決めればいいかと、とりあえず店へ向かう。
 ドアを開けるといつもの音。カランコロンカラン♪
「いらっしゃいませー」
「こんにちは」
「お、チヤちゃんこんにちは。今日はなにがいい?」
「んんー、どうしようかな……」
 カウンターに置かれたメニューを見ながらチヤが悩む。
「珍しいね、いつも即決なのに」
「んー、今日はなんだか決まらなくて」
「疲れてるのかもよ? 疲れてるとき、食べたいものが決まらない人がいるってなんかで読んだ」
「えー、疲れるようなことしてないんですけどね…」
「まぁ、ゆっくり決めてよ。そこの椅子、使って?」
「ありがとうございます」
 カウンター席に浅く腰かけたチヤは、思考が定まらないままメニューの同じページを何度も繰り返し見て自分の食欲と相談する。
 雁ヶ谷は微笑みながらカップを拭いている。
 数分悩んで、「マスター、決まりました」ティラミスと紅茶のセットをオーダーした。
「かしこまりました。用意できたらすぐ持っていくね。お好きな席どうぞ」
 たまにはカウンター席もいいかなと思ったが、常連の男性客が二人でミニ将棋盤を持ち込んであれやこれやと勉強会を開いていたので、邪魔するのも悪いかと結局いつもの奥の席へ向かう。
 ブーツの底と板張りの床がぶつかり、歩幅と同じリズムでコツコツ鳴る。いつものように先にリュックをおろしつつ席に近づくと、
「こんにちは」すぐ近くから声がして
「ひゃっ」思わず小さく悲鳴をあげてしまう。
「あ、ごめんなさい。気付いてるかと思ってた」
 【予約席】に座っていた宿が、チヤと同じように驚いた顔で謝罪した。
「こ、こんにちは。こちらこそすみません。通路からこちらの席、全然見えなくて」
「あー、そうですね。そういえばそっか。あまり気にしてなかったです」
 背後に置かれたパーテーションを振り返って、宿が首筋を手で撫でる。
「いえ、全然。驚いてスミマセン…」手前の椅子にリュックとコートを置いてから、「失礼します」挨拶をして、チヤは奥の席に座る。
 宿はテーブルの上に資料とタブレットPCを広げていた。傍らに置かれているコーヒーカップの中身は半分ほど。
「お仕事ですか?」
「そうですね。調べもの、の帰りです」
 宿が指さした向かいの椅子には、中身が詰まったトートバッグが置かれている。口の開いたバッグの中には様々な厚さの数冊の本。
「近所にでかい図書館あると、便利ですね」
 宿が嬉しそうに本の束を眺める。
「あー、最近リニューアルした……」
「そうですそうです。学生の頃は良く使ってたんですけど、しばらく違う土地に住んでたもんで」
「そうなんですね」
 学生時代やしばらく違う土地に住んでいたことなど、色々聞きたいところだが、あまりプライベートなことを聞けるほどの関係性でもないとチヤは相槌だけ打つ。
「今度行ってみようかな」
「是非。図録も充実してますよ」
「それはいいですね。調べてみます」
 チヤはいつもように腰を浮かせてバッグの中からノートやペンケースを取り出す。
 会話が途切れたタイミングで、雁ヶ谷がトレイを持ってやってきた。
「失礼します。ケーキセットお待たせしました」
「ありがとうございます」
「あ、旨そう」雁ヶ谷が持つトレイの上を見て、宿が呟く。「俺も休憩しようかな」
「新成くんもケーキセットにする?」
「そうですね、そうします」宿がテーブルに置かれたメニューを見て、「モンブランと、アイスコーヒーで」オーダーする。
 はーいと返事して、雁ヶ谷はカウンターへ戻った。
「なんだかお邪魔しちゃったみたいでスミマセン」
「え? 全然? そろそろ集中力も切れてきたころだったんで、お気になさらず」
 宿は微笑みながら広げた資料をまとめて、ケーキセット置き場を作っている。
「あ、そうだ。今日、尾関さんに会ってきたんですけど…シガラキさんと直接打ち合わせしたいって話、もう行ってます?」
「はい。さっき尾関さんからお電話いただいたときに伺いました」
「なので、本格的に作画指定できるようになったら、お時間いただくと思います」
「はい」
「シガラキさんも、細かいところとか、不明点あったらご連絡ください」
「助かります。ありがとうございます」
 すでに設定ができているキャラクターの絵を仕事として描くのは初めての経験で不安だったので、チヤも安堵の笑みを浮かべた。
「お待たせしましたー。モンブランとアイスコーヒーのセットです」
 宿が空けたテーブルの隙間にオーダー品が置かれる。
「ありがとうございます」
 宿は早速モンブランにフォークを入れ、あー、うま、と呟きながらケーキをパクつく。
 チヤも思い出したようにティラミスを口に入れた。ほろ苦いケーキのはずだが緊張であまり味がしないような、でもとびきり甘いような……。
「あっ。仕事の話で申し訳ないんですけど」
「はい」
「来週中には、プロットというか、登場人物の設定表をお渡しできると思うので、もう少しお待ちください」
「はい。初めてのことなので、不慣れなところがあるかと思いますが」
「それは俺もなので、その辺は尾関さんに頼りましょう」
「そうですね」
「依頼してくれるくらいだから、きっと経験者なんでしょうし」
 その言葉の裏に何かあるような気がして。
「……もしかして、乗り気じゃなかったですか?」
「ん?」
「挿絵、入れるの……」
 チヤが遠慮がちに聞いた。
「んー……」
 宿は考えるように視線を斜め下に固定させた。発する言葉を選んでいるように見える。
 聞かないほうが良かったかな、とチヤが後悔し始めたとき、
「正直」
 宿が口を開いた。
「尾関さんからお話をもらったときは、断るつもりでした」
 予想通りの回答に、チヤが神妙な面持ちになる。
「けど、岳元保有のポートフォリオを見せてもらって、考えが変わりました」
 宿は少し考えて、そして、チヤを見やる。
「シガラキさんの、風景画」
 チヤの心臓がドキリと反応した。同時に、脳内に画像が浮かぶ。
「僕が書いた話に、似たような風景が出てくるんです。それは架空の街の風景なんだけど、もし自分と似たような風景(もの)を見ることができているなら、僕が思い浮かべている映像を、視覚的に再現してくれるんじゃないか、って」
 聞き終わった瞬間、チヤの胸に熱いものが広がる。その絵は、宿が書いた作品の風景のイメージそのものだったから。
 美しい文章で構成された描写を読んだ瞬間、チヤの脳内に見たことのない風景が鮮明に浮かんだ。それは感動的な体験で、強く印象に残った。それを絵にして残すことが、自分の絵描きとしての使命だと感じた。
 いつか宿の小説に自分の作品が起用される日を夢見て描いたその風景画が、夢を叶えるきっかけになっていたなんて――。
 こみ上げるものを押し戻すように意識していたからか、
「ありがとうございます」
 礼を言うその声は震え、いまにも消え入りそうだった。
「あー、いや、こちらこそ」潤むチヤの瞳から意図的に視線を逸らし、宿は続ける。「自分でもそういう風に思えると思ってなかったので、良い経験になると思います。……思ってばっかですね」
 自分の言葉に納得いかなかったのか、宿が苦笑して自分にツッコミを入れた。
「私も、良い経験になると思ってます」
 少し笑って言ったチヤの言葉に、宿もふっと笑う。
「良い作品になるよう、頑張って書きたいと思います」
「私も、頑張って描きたいと思ってます」
 お互いにふふっと笑い合って、ケーキセットを堪能した。

* * *
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

アフォガード

小海音かなた
恋愛
大学生になった森町かえでは、かねてより憧れていた喫茶店でのバイトを始めることになった。関西弁の店長・佐奈田千紘が切り盛りするその喫茶店で働くうちに、かえでは千紘に惹かれていく。 大きな事件もトラブルも起こらない日常の中で、いまを大事に生きる二人の穏やかな物語。

想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月
恋愛
 第7回ほっこり・じんわり大賞 奨励賞をいただきました。応援くださり、ありがとうございました。 ――珈琲が織りなす、家族の物語  バリスタとして働く桝田亜夜[ますだあや・25歳]は、短期留学していたローマのバルで、途方に暮れている二人の日本人男性に出会った。  ほんの少し手助けするつもりが、彼らから思いがけない頼み事をされる。それは、上司の婚約者になること。   亜夜は断りきれず、その上司だという穂積薫[ほづみかおる・33歳]に引き合わされると、数日間だけ薫の婚約者のふりをすることになった。それが終わりを迎えたとき、二人の間には情熱の火が灯っていた。   旅先の思い出として終わるはずだった関係は、二人を思いも寄らぬ運命の渦に巻き込んでいた。

【完結】maybe 恋の予感~イジワル上司の甘いご褒美~

蓮美ちま
恋愛
会社のなんでも屋さん。それが私の仕事。 なのに突然、企画部エースの補佐につくことになって……?! アイドル顔負けのルックス 庶務課 蜂谷あすか(24) × 社内人気NO.1のイケメンエリート 企画部エース 天野翔(31) 「会社のなんでも屋さんから、天野さん専属のなんでも屋さんってこと…?」 女子社員から妬まれるのは面倒。 イケメンには関わりたくないのに。 「お前は俺専属のなんでも屋だろ?」 イジワルで横柄な天野さんだけど、仕事は抜群に出来て人望もあって 人を思いやれる優しい人。 そんな彼に認められたいと思う反面、なかなか素直になれなくて…。 「私、…役に立ちました?」 それなら…もっと……。 「褒めて下さい」 もっともっと、彼に認められたい。 「もっと、褒めて下さ…っん!」 首の後ろを掬いあげられるように掴まれて 重ねた唇は煙草の匂いがした。 「なぁ。褒めて欲しい?」 それは甘いキスの誘惑…。

前の野原でつぐみが鳴いた

小海音かなた
恋愛
鶫野鹿乃江は都内のアミューズメント施設で働く四十代の事務職女性。ある日職場の近くを歩いていたら、曲がり角から突然現れた男性とぶつかりそうになる。 その夜、突然鳴った着信音をたどったらバッグの中に自分のものではないスマートフォン入っていて――?! 『ほんの些細な偶然から始まるラブストーリー』。そんなありきたりなシチュエーションにもかかわらず、まったく異なる二人の立場のせいで波乱含みな恋愛模様をもたらしていく――。

今更だけど、もう離さない〜再会した元カレは大会社のCEO〜

瀬崎由美
恋愛
1才半の息子のいる瑞希は携帯電話のキャリアショップに勤めるシングルマザー。 いつものように保育園に迎えに行くと、2年前に音信不通となっていた元彼が。 帰国したばかりの彼は亡き祖父の後継者となって、大会社のCEOに就任していた。 ずっと連絡出来なかったことを謝罪され、これからは守らせて下さいと求婚され戸惑う瑞希。   ★第17回恋愛小説大賞で奨励賞をいただきました。

【完結】こっち向いて!少尉さん - My girl, you are my sweetest! - 

文野さと@ぷんにゃご
恋愛
今日もアンは広い背中を追いかける。 美しい近衛士官のレイルダー少尉。彼の視界に入りたくて、アンはいつも背伸びをするのだ。 彼はいつも自分とは違うところを見ている。 でも、それがなんだというのか。 「大好き」は誰にも止められない! いつか自分を見てもらいたくて、今日もアンは心の中で呼びかけるのだ。 「こっち向いて! 少尉さん」 ※30話くらいの予定。イメージイラストはバツ様です。掲載の許可はいただいております。 物語の最後の方に戦闘描写があります。

雨宮課長に甘えたい

コハラ
恋愛
仕事大好きアラサーOLの中島奈々子(30)は映画会社の宣伝部エースだった。しかし、ある日突然、上司から花形部署の宣伝部からの異動を言い渡され、ショックのあまり映画館で一人泣いていた。偶然居合わせた同じ会社の総務部の雨宮課長(37)が奈々子にハンカチを貸してくれて、その日から雨宮課長は奈々子にとって特別な存在になっていき……。 簡単には行かない奈々子と雨宮課長の恋の行方は――? そして奈々子は再び宣伝部に戻れるのか? ※表紙イラストはミカスケ様のフリーイラストをお借りしました。 http://misoko.net/

処理中です...