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「フェンリル……容器から出してしまったのですね……」
「光栄に思えよ、狼王の餌食になれるんだからな」

 2人はギスギスして言葉を交わす。
 湖の真ん中で氷のフィールドを広げつづける太古の覇狼を感慨深そうに見つめる。

 氷のチカラを行使する怪物の周囲には、水色の魔力のかたまりが発光して浮かんでいる。
 それらが伝説の怪物フェンリルの数百年の時を超えた降臨にわきたつ自然精霊だとは、まだ幼い魔術師たちは知るよしもないが。

 あれだけ威勢の良かったアイリスですら、ずっと遠くに見える狼の姿に萎縮してしまっていた。

「空白の100年を制覇した怪物。流石のオーラ……あの獣毛は血刃でも易々とは通してくれなそうですね……」

 アイリスは剣を握る手をだらりとさげる。

「質問をしていいですか、アルバート」

 彼女は武力の行使を諦めて対話を求める。

「敵と話す事なんかない」

 アルバートは聞く耳をもたなかった。
 ここまで彼女の声に耳を傾けたせいで、秘術やキメラの情報を盗まれたのだ。
 少女への想いを捨てきれない今の自分にとっては、アイリスとの会話はそれだけで危険なように思えて、彼には仕方がなかった。

「憎しみがあなたを変えてしまったんですね」
「……なに他人事で話してるんだよ」

 彼女の話の切り口は、無言を決め込もうとしていたアルバートの癇に障る。

「そもそも、全部、お前たちのせいだろ……ッ。婚約を破棄した時からそうだ! ハハッ、今にして思えば本当に上手いやり方だよ。俺を絶望に突き落としてから、救いの手を差し伸べるなんてな……本当に勉強になった」
「アルバート、本当にあなたが何のことを言ってるのか、わからないんです」
「ドブネズミ、いつまでしらを切るつもりだよ」
「……ひとつ聞きます。我ながら気に留めていなかったのですが……ワルポーロ様は亡くなられてしまっているのですか?」
「聞くな。不快だ」
「アルバート……。もう、わたしと話をしてくれないのですか?」

 少年は話すことはないと言わんばかりに、怪書に視線を落とした。
 すると、2人のことを静観していた湖のフェンリルが一歩前へ動いた。
 動いた分だけ湖に氷足場が形成される。

 もう和解などありえない。

 アイリスは彼の徹底的な拒絶をひしひしと感じ、今の自分では言葉を重ねるだけ逆効果であると理解する。

「あなたはきっと大きな誤解をしているんです。でも、今のわたしにはその誤解を解くための手段がない」
「フェンリル、殺せ。裏切り者を血祭りにあげろ」

 アルバートは顎をくいっと動かす。

「……?」

 しかし、フェンリルの動きが鈍いことに気がつく。

 なぜだ?
 どうして動かない?

 内心で事態に気がつき、アルバートは驚愕していた。

「ッ」

 そんなことがありえるのか?

 目を見開いてフェンリルを凝視する。

「わかりました。今は手を引きましょう」
「っ」

 ハプニングに焦るアルバートとは違い、あの大怪物フェンリルが、いつけしかけられるのか分からない立場のアイリスは、早々に決断をしなくてはいけなかった。幸い、アルバートのピンチは彼女には伝わっていない。

「……俺が逃すと思うのか?」
「いいえ──なので眠ってもらいます」

 アイリスはまぶたを閉じて、アルバートの身体に打ち込んだ楔を起動させる。

「ッ!?」

 瞬間、アルバートは心臓を万力で潰されているかのような不快感に襲われ、息ができなくなってしまった。
 肩に穴を開けられるなど生ぬるい。
 一瞬で脳が沸騰して神経がちぎれる激痛。
 
「ぐぁ、が、ぁああ……ッ!」
「ごめんなさい。でもこうするしかないのです」
「あ、い、リス……!」
「わたしは戻って来ます。いつか必ずあなたを憎しみから解放します。絶対に諦めません」
「ま、で……ふぇん、リル…やれ……ッ!」

 一向に動かないフェンリルを横目に、アイリスは気を失っていくアルバートを見下ろしていた。

 やがて、アルバートが完全に眠りについた。
 アイリスは命令を与えられず、喉を鳴らすだけのモンスターたちのあいだを抜けて、しゃがみ込み、血の魔術をもちいてアルバートの肩の傷の止血を行う。

「また会う日まで、しばしお別れです」

 眠りについたアルバートの頭を抱きしめて、アイリスは憂いの言を漏らす。

 と、そこへ、

「はあ、はあ、アイリス様……っ! ぶ、無事ですか……!」

 ボロボロのメイド騎士がやってきた。

「サアナ、早急にここを離れます」
「っ、アルバート・アダンはどうするのですか?」
「このままにしておきます」
「どうして! そいつはアイリス様のことを裏切り、殺そうとしたのですよ!?」
「どうして、ですか。そうですね……」

 アイリスはちいさな顎に手を当ててうーん、とうなり声をだす。

 サアナは湖の真ん中にたたずむ、明らかにヤバそうなモンスターに身震いしながら、アイリスの袖を引っ張る。

「あ、アイリス様、必ず後悔しますよ! これがアルバート・アダンを殺す最後のチャンスかもしれないんです。あの怪物を見てください……! 彼の魔術は危険すぎます。この男はイカれてるんです、きっと魔術世界全体に影を落とします!」
「それは言い過ぎでは?」
「いいえ、なんだかそんな気がするです!」

 なんとか始末をつけようと焦るサアナは「嫌ならば、私が殺ります!」と進言して、血の剣をふりあげる。

 その時、ようやっとアイリスは「あ、理由。わかりましたよ」と、ボンっと手を打った。

「……その心は?」
「ふふ、きっとアルバートの事がまだ大好きだからですね」

 いつものアイリスの回答に、サアナは「そんなぁ……」と、主人の意思を覆すことは出来ないと察してしまった。
 穏やかに眠りにつくアルバートを見下ろし、剣の血をはらって武装を解除する。

「ありがとうございます、サアナ」
「アイリス様にそう言われたら、殺せるわけないです……」

 サアナはため息をつく。

「でも、あたりのモンスター達がいつ襲ってくるのかわからないです! はやくここを離れないと。よろしいですね、アイリス様」
「そうですね。それが賢明な選択です。わたしも、もう、長く立っていられなそう、ですから……」
「っ、魔力欠乏症…なんて無茶を……!」
「前借りしすぎました……数ヶ月じゃ効かなそうです……」
「し過ぎどころじゃないですよ……! もういいですから、座って待っててください!」

 無茶なんて言葉では形容しきれないほど無茶を重ねた瀕死の主人。
 慌ただしいサアナは涙目で弱りきったアイリスを案じて横たえた。

「ただいまキララを連れてきます! ──むっ!」

 馬を連れてくるべく口笛をふいたサアナ。
 しかし、直後、彼女は凄まじい勢いで、剣に血を纏わせて臨戦体制に入った。
 
 突如として背後に気配が現れたからだ。

 睨みつけるサアナと、静かに見据えるアイリスの視線の先。
 そこには、木の影から姿をあらわした灰色の少女たちがいた。

「あなたたちは……アルバートの暗殺者ですね」
「アイリス様、お下がりください!」

 サアナは主人を庇うように前に出る。

「必要ない。私たち、戦う気ないから」
「血の一族と戦って勝てるなんて、暗殺者の私たちは思ってないです」

 瓜二つの少女はそういい、満身創痍のアルバートを見る。

「私たちが受けていた命令は森の管理、拠点作成、身辺警護だけ」
「──それとあなたたちとマスターが戦ってるあいだに″来客″がいたら知らせることです」

「来客?」

 アイリスは問いかえす。

「マスターは時期的にサウザンドラ家がここへやってくるかも、と危惧していました」
「っ、どうしてそんな事を……」

 アイリスは思考に入ろうとする。
 が、ここで気がついた。
 双子がこの場にいる理由に。

「サアナ! 走りますよ!」
「え……あ、はい! というか走っちゃだめですよ、アイリス様、本当に死んじゃいます……ッ」

 従者の静止を聞かずに、猪突猛進の勢いでアイリスは起きあがり駆け出した。
 サアナは只者ではない気配の双子や、湖のオーラが凄すぎる怪物に後ろ髪をひかれながら、主人のあとを追いかけた。

 ──しばらく後

 アイリスたちは急ぎ段層の一番下にあるジャヴォーダンの都市城壁へとやってきてきた。すぐに城壁を出てくる一団を発見した。

 サアナとアイリスは、その一団の進路を塞ぐように馬を止めた。

 長大な隊列を組む先頭が、アイリスとサアナの姿を見て「あっ」と声をあげる。

 すぐにそのものは後列へと走っていく。

 少しして、先程男が向かったほうから数人のフルプレートアーマーに身をつつんだ騎士に身辺を守られた、老齢の男が現れる。

 アイリスにとってよく見知った顔だった。

「4ヶ月ぶりだな、アイリス」
「お父様……」

 久しぶりに見る父の顔は、底が読めない不気味な穏やかさをかぶっていた。
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