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当主の決断
しおりを挟む夜、暗い魔術工房のなか、ひとつの影がろうそくの灯りに揺れている。
つめたい部屋を横断する風は、寂しげな少年の背中を代弁するかのようだ。
彼は黙々と日記を見返していた。
この日記は本格的な実験の開始にともない、習慣となった資料の作成の息抜きではじめたものだった。
人は苦労から逃げるために、ちょっとだけ苦労度の低い趣味を持つ生き物だ。
日記を書く習慣などそれまでなかったが、書いてみると、これがなかなか悪くない。
先代ワルポーロ・アダンが没し、若すぎる年齢で家を引き継いだアルバート。
そんな、怒涛の日々を記録した、1日1ページの文字列は、アイリスの来訪以来、彼女との思い出を書きつのる事でいっぱいだ。
『今日はアイリスと湖へ行った』
『彼女は″カインの花″が好きらしい』
『ジャヴォーダンの花屋ではカインはなかなか見つからない』
1ページ書くのは億劫な日もあった。だが、彼女が住み着いてからは、むしろノルマをのページ数を増やそうかと考えることのほうが多かった。
アルバートは日記を見返しおえて、いたたまれない気持ちになっていた。
「なにを浮かれていたんだ……敵を前に……」
アルバートは愚か者が嫌いだ。
それは第三者からすれば、あまりにも自己中心的で、典型をつらぬく貴族としてのプライドが先行したものである。
だが、彼は自分に誇りを持っている。
尊敬できる人格者であり、あたえられた責務を全うし、自らの偉大なる役目の意味を理解しようとしつづける人間だ。
それゆえに、家を守り、アダンに属するすべてを背負う立場でありながら、恋に盲目になり、敵につけいられたという事実は、彼に彼自身を失望させた。
「……愚者か」
アルバートは歯を食いしばり瞑目する。
次に瞳を開いた時、彼はろうそくの燃る火で、手に持つ紙切れをもやしていた。
それはもう、彼の思い出ではなかった。
「……俺はアダンを守る」
当主としての役目。
秘術を受け継いだ誇りを、名誉ある家を、外敵の薄汚い思惑に犯させないため。
弱くとも尊敬できた父のように、自分に一分の負い目無く、真に胸を張って生きるため。
すべてはアダンを守るため。
彼がアルバート・アダンがゆえ。
10歳の少年は信頼すべてが無に還ろうとも、愛情すべてが裂傷にさらされようとも、大切な物のために決断をした。
──1ヶ月後
アルバートは新しいキメラの実験のために湖にやってきていた。
今日は助手のティナだけだ。
アイリスはいない。
あるいは2名ほど高度な隠密能力をもちいて、見えぬ警護として控えてはいるだろうか。
ただ、その事実を知るのはアルバートと、彼の使役する隠密ニャオ部隊くらいだが。
何も知らないティナは、『銀の鞄』が10個ほど綺麗に収められた荷車を引きながら、主人の顔色をうかがっていた。
「アルバート様、最近はすこし痩せられましたね」
つとめて明るい声調で湖までの話題をふる。
ただの使用人にすぎないメイドとしては不要な気遣いであり、礼節に欠ける行為だ。
とは言え、以前のアルバートならばアダンの使用人はみんな家族のように扱っていたし、このようなくだけた態度はむしろ歓迎されていた。
──以前ならば。
「……あんま変わらないだろ」
アルバートは談笑に乗り気でない。
「いえいえ、痩せました、絶対ですよ」
「しっかりと食べているけどな」
「嘘ですね。1ヶ月ほど前に数日、何も口にしない時があってからは、『ちょっと量を減らしてくれ』とばかり、食事のたびに給仕に申されているではないですか」
「そういう時期なんだ。今は特に大切な時期だ」
アルバートは思いつめたような顔で、荷車をちらりと見やる。
「ところで、アルバート様。すこし銀の鞄のデザインが変わりましたね!」
「軽量化の一環だ。将来的にはトランクサイズを卒業したくてな。ずっと持ってると腕が疲れるんだ」
アルバートはローテンションな声でいうと、深くため息をもらした。
ティナは思う。
やはり、主人のなかで何かが変わったと。
「アルバート様、なにかお悩みのことがありましたら、なんなりとこのティナにお申しつけくださいね」
「いつもそうしてる」
「ええ、ですが、より一層です」
「より一層、か……」
アルバートはつぶやく。
そんな会話をしていると、ちょうど湖に到着した。
「じゃあ、ティナ、ひとつ問おう」
「?」
「夜、家のない子猫を家に迎え入れた。大変に可愛く、愛嬌のある猫だ。しかし、それは家に住む人間すべてを毒牙にかけようとする蛇だったんだ」
アルバートは見開いた瞳を、湖面に固定しながら続ける。
「気がついた時には、蛇は家のなかで秘密を掌握し、ひいては皆の信頼を集める地位まで築いた。誰にも真の目的を気づかれることなく」
彼は拳を強く握りしめる。
ティナへと向き直るその瞳には、おもわず彼女が萎縮してしまうほどの強い憎悪がひそんでいた。
ティナは怖かった。
以前の優しく気さくで、されどちょっと無理強いしてくるアルバートではなかったからだ。
「その蛇は強く賢い。されど、駆除しなくてはならない。なぜなら、彼女はすでに家の秘密すべてを口の中に丸呑みしてしまったのだから」
「あ、アルバート様……それは、もしかして……」
「俺はアダンを守らなくてはならない。俺だけがアダンを守れるんだから」
「……アルバート様」
ティナは憂いの眼差しを主人へむける。
「……は、話を変えましょうか!」
彼女は逃げてしまった。
これ以上、踏み込んではならない。
主人の抱える大きな闇へと関与は、助手であり、数少ない友人とも呼べるティナでさえ恐れるものだったのだ。
「そ、そうです! はやくこの子たちを湖に出してあげましょう!」
ティナは銀の鞄をひとつ手にとり、湖のほとりに走りよる。
「箱の中では窮屈でしょうしね!」
「その心配は必要ない。中に生物は入っていないからな」
「……はい?」
ティナは目を丸くして、銀の鞄を持ちあげる。
アルバートは怪書を召喚して、あるページを開くと、羊皮紙のうえに魔力で焼き刻まれた文字を指でなぞった。
そのページは登録モンスターのいずれかの情報が記載されたものではない。
1ヶ月前のエドガー・アダンが作った原型の怪書にはなかった新しい項目だ。
上部の章別見出しには『キメラ管理』と記されている。
「今しばらくは耐えそうだな」
怪書を見下ろすアルバートの顔は、とても穏やかだった。
しかし、瞳の中に光はなかった。
「今となっては、使役モンスターへの繋がりだけが唯一信頼できる」
「それは、どういう……」
「現段階の怪書には字の裏に、モンスターたちのすべてが記されているんだ。たとえば名を持たなかった彼は今、満腹で機嫌がいいらしい」
「……彼?」
「──ニア・リヴァイアサン。彼の仮名だよ」
アルバートは怪書から目を離すと、湖面を揺らす巨影を見つめた。
「ぇ、な、なんですか、あれ…は……」
「俺は怪物学者だ。だから、秘術を奪おうとする蛇のため、憐れな怪物を用意したのさ」
彼の冷たい声は、湖面を破る巨大なモンスターを見て、固まってしまったティナの耳裏に強く残ることになった。
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