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12.プラン変更『生活に完全に溶け込め』
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鈍感ボウヤに人生で初めてとも言える種類の敗北を喫した李壱だったが、その後視点を変えて敢えて無理に意識させない方向で行こうと決めた。
このまま自分に対して警戒心を一切持たせず、少しずつ少しずつ距離を詰めて「傍に居るのが当たり前」と恭一が知らず知らずに思ってしまう程近くに入り込めば良いのだと思ったからだ。
方向性を定めた大人は、冷静に行動した。
さり気無く食だけでなく色々な事を聞き出して、恭一が快適に過ごす為の情報を掴みこれまたさり気無い時間の共有を積み重ねた結果『出社日の火曜日の夜は翡翠に寄って、その後李壱の家に泊まる』と言うサイクルを見事に形成したのだ。
最初どの程度酒を飲めるか分からない恭一をいきなり店に連れて行って何かあったら困ると判断した李壱は恭一がどの程度飲める人間なのかを見定めることにしたのだが……聞いて驚けこのボウヤ。
酒がクッッソ強かった。
自他共に強いとされる李壱がちょっと引くレベルで強かったのだ。
ウワバミじゃない。ザルでもない。本気の輪だ。初めて見るレベルの酒豪で急性アルコール中毒を心配した李壱が思わず早めの段階でストップをかけるほど恭一は酒に強かった。
いくら飲んでも顔色一つ変えず「お酒ってどれも美味しいんですね」とカパカパ杯を重ねる様はちょっとしたホラー。本気でハラハラした。……だってほぼ空きっ腹だよ? どうなってるのこのスリムボディ。
しかも翌日も二日酔いの気配すら無くけろっとした顔で普通に起きて来たからさらに怖かった。
「えっと……普段は飲まないのよね?」
「そうですね。会社の飲み会で乾杯だけ付き合って、後は周りのお世話をしながら一次会が終わるのを待つ感じです」
「そ……そうなの」
どうしよう。
このレベルの人間に酒の美味しさを教えてしまった。
アル中になる前に酔うという状態すら自覚無く肝臓を壊して手遅れになる余計なきっかけを与えてしまったかも知れないと恐れ戦く李壱はさり気無く軌道修正を計る。
「一人酒ってほら、寂しいから飲みたかったら私と一緒に飲みましょうよ」
「……? はい、別に僕は毎日飲みたいとか無いので良いですよ」
こくりと素直に頷いた恭一に李壱は頷いた。
この子、可愛い顔して李壱が好きな度数の高いブランデーを普通にいったからね。
閉店後の店に連れて行って、味の好みを把握しようと舐めさせるだけのつもりで数種類並べたのをいくら少量とはいえちゃんぽんしたのにずーっと顔色もテンションも振る舞いも一切の乱れが無かったからね。
「これ一番美味しいです」
ってさ、辛口の日本酒だよ? しかも味わう様にゆっくり口に含んでにっこり笑ったんだよ? 渋くない?
普段一切飲まずにたまにある会社の飲み会で乾杯にビールを気持ち程度付き合うレベルでその行動する? しかも「甘い飲み物は苦手なんです」ってさ、カルーアミルク飲んでそうな顔で言うんだよ?
最高過ぎて惚れ直したわマジで。
体調を鑑みつつ酒量を適正に制御した上でなら一緒に楽しく過ごせそうで嬉しかったわ。……ちょっと驚いたのは事実だけどね。
そして今、二人は海外ドラマにハマっている。
特に見始めた時点でシーズン3まで出ているシリアスなサスペンスモノに二人揃って夢中だ。
「もう一話だけ見ませんか?」
「本音で言うと見たいわ。でももう三時よ? 私は明日休みだけど、アナタは違うでしょ?」
「う……」
恭一の仕事は規定量を熟せばある程度融通が利くようで最近は李壱と同じ水曜日に固定休を持って来て働いているのだが、明日……正確に言えば今日は午前九時にオンライン会議があると言っていた。
テレビを見る習慣と言うか娯楽を楽しむことにあまり積極的でなかった恭一に何か二人で一緒に出来る日常生活の楽しみを……と思って始めた動画鑑賞だが、思ったよりも合っていたみたいだ。
「僕、ちゃんと起きます」
健気なことを真横で言われ李壱はちょっと揺れた。
自分の睡眠時間が減る分には一向に問題無いが、睡眠は健康の基本だ。食事・睡眠・運動が健康の大事な柱であることは誰も否定しないだろうが、恭一は『食事』が圧倒的に欠けている。その彼からさらに睡眠時間を減らすのはやはり避けたかった。
「私も一緒に見たいけど、恭ちゃんちょっと考えてみて? これシーズン3まであるのよ? 私達、まだシーズン1の途中……きっとキリがないわ。私もアナタと一緒じゃないと見ないって約束するから今日はもう寝ましょう?」
「……はい、分かりました」
しゅんとした顔で頷かれると李壱はちょっと困ってしまう。
一緒に過ごす時間を増やし、年齢差による遠慮の壁を取り払うように尽力した結果恭一は以前より素を出してくれるようになった。
なったのだが……表情のレパートリーが増えた分ハッキリ言ってクソ可愛い。たまに本気で奇声を上げてハグして頬をスリスリして可愛がりたくなる時がある。
しかしまだ早いとぐっと堪えて李壱はいつもと同じ笑顔を必死にキープした。
「またいつでも来れば良いだけよ。いっそ住む? 家でも良いし、上も空いてるわよ」
「……」
上、と言うのはこのビルの三階部分のことだ。
喫茶店翡翠が入るビルは全部で三階建てで一階部分がお店、二階部分が居住スペース。そして三階部分は元々祖父がコレクションしている様々な物を保管する為に使われていた。
その道が好きな人間が涎を垂らしいくらでも出すから売ってくれ! と土下座せんばかりに価値のある物をただ並べておくだけでは勿体ないから、自分が死んだら価値を理解出来る人間に譲ってやってくれと祖父は生前李壱によく言っていたのでその遺言に従い生前祖父と親交のあった人間とその信頼出来る人間が紹介して来た人たちにコレクションの類は全て引き取られ現在は完全に空いている。
ここは駅から程よい距離で立地も良いしリフォームして賃貸に出すことは簡単だが李壱は他人が自分のテリトリーに入ることを好まないのでその計画は保留にしていた。
しかし恭一との関係を真剣に考えてからは念の為……と三階部分を賃貸に出せる様に手を入れたのだ。
一人だけがワンフロアぶち抜きで居住するには広過ぎるし、がらんどうの空間は好まないという言葉もあって敢えて区画を二つに区切り、手前を居住できる配置にして奥の部分は全てを取っ払って敢えて倉庫として作った。
そしてこの話はそれとなーく恭一の耳に入れている。
「三階部分が余ってるんだけど、誰も住まないと建物が傷むって言うじゃない? 一応リフォームは済んでいるんだけど知らない人が入るのってちょっと抵抗あるのよねー」
と。その時恭一は完全な世間話の一つとして聞いていたが、先ほどの「……」に李壱は微かな可能性を感じた。
絶対ちょっと検討する余地が生まれていた沈黙だと言える。
――久し振りに少しだけ踏み込んでみようか。
「因みに今の物件、更新はいつ?」
「えっと……確かそろそろ? だった気がします」
「駅から何分で、お家賃は?」
「徒歩十五分は掛からない位で、七万二千円ですね」
ふぅん? と李壱は相槌を打ちつつ考えた。
ぶっちゃけお金には一切困っていないのでタダで良いのだが、それだと恭一の性格上無理だろう。
ここは信頼を勝ち取るために敢えて無駄な交渉術を駆使せずシンプルな両面提示で行こう。デメリットを強調させて、下から。
「ここは駅からはご存じの通り七、八分かしら? そのくらいなんだけれど、階段の三階だから家賃は六万八千円にしようかなーって思ってるの。今どきの人はエレベーターに慣れちゃってるから階段はちょっと弱いのよねえ」
嘘ではないけど本当でもない。
全然弱くない。
この立地と広さ、設備面の充実を考えれば格安だと言えるし募集を掛ければ恐らく数日で埋まる可能性すらある。
そこまで言うと恭一は明らかに考える素振りを見せた。……あれ、これイケるんじゃない?
逸る心が外に出ない様に李壱は気を付けていつも通りを心掛け言う。
「私の友達の不動産屋に仲介と管理を頼もうと思ってるんだけど、恭ちゃんが借りてくれるなら敷金礼金無しで良いわよ。知らない人を建物に入れるよりずーっと安心だもの」
「……一回……見せて、貰っても……良いですか?」
「勿論よ~」
一か月後、恭一は見事引っ越して来てくれた。
それはとっても、とーっても嬉しいことだが李壱は自分の気持ちをさらに引き締める。絶対に浮かれて油断しない様に。
家まで押さえて無理に迫るなんて真似をしたら、恭一のメンタルに掛ける負荷は甚大だ。
あれだけ排他的だった彼が自分を信じて傍に来てくれたのに、逃げ場所を奪うような追い詰め方は絶対にしてはいけない。
あくまでも自然に。
ストレスも不安も与えず恭一の世界に溶け込んで、気付いた時には付き合ってた! と言うようなペースで構わないから確実に行きたい。
物理的な距離を縮めて、接触回数を増やす。それはとても効率的な方法で心理学でも立証されている。
「お世話になります、李壱さん」
「こちらこそ~、末永く住んで頂戴ね」
引っ越して来た恭一だが、基本的な生活サイクルはほぼ変わらない。
基本は在宅ワークで火曜日に出社。自宅での作業に疲れると降りて来て珈琲を飲んでリフレッシュして戻って行く。
ただ今までは週一回だった海外ドラマ鑑賞会が二回になって、それまでは前日までにちゃんとお互いアポを取っていたのが「今から来る?」と言う簡単なやり取りで済むようになって来た。
李壱は恭一に気を使わせないように……あわよくば食に興味を持ってもらえるように自作の手料理を食べて、恭一はその時気が向いた物を摘まむ。
この頃には主食+軽めのデザートをセット化する習慣付けに成功したので出会った当初よりは幾分、本当に少しだが顔色が良くなって来たように思えた。
順調だ。
正式に恋人になるまで何年掛かるかは相変わらず不透明だけど、李壱はそれでなんの不満も無い。
最近の恭一はかなり李壱に慣れて大きな口を開けて笑ったり、ちょっとだらしない体勢で寛ぐ姿を見せてくれるようになって来ているから、確実に進歩していると言える。
そんなある日の火曜日。
その日は朝から強めの雨が降っていて、恭一は渋々会社に出社して行った。
「こんな日に限って忙しいからきっと遅くなると思う」なんて可愛らしくぶーたれていた。
天気が悪い日に客の入りが悪いのは別に毎度のことなので客が誰もいない店内で李壱は特に気にもせず雑務を熟し過ごす。
――リリンッ
ドアベルが鳴ったので反射的に視線を上げる。
入り口には多く見積もっても六十代になったばかりなのでは? という背筋をピンと伸ばした身なりの良い紳士が立っていた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
接客用の顔で言った李壱の顔をじっと眺めて、紳士は穏やかな声で返す。
「高宮 恭一の祖父です。恭一がいつもお世話になっております」
――あらまあ、随分お若いのね。
雨脚が強い。
きっと他に客は来ないだろう。
「こちらこそお世話になってます。奥へどうぞ~、何か私に込み入ったお話でもあるのかしら?」
李壱は笑って恭一の祖父を奥へと招き入れ、一言断ってからドアに掛かるプレートをCLOSEDに裏返した。
このまま自分に対して警戒心を一切持たせず、少しずつ少しずつ距離を詰めて「傍に居るのが当たり前」と恭一が知らず知らずに思ってしまう程近くに入り込めば良いのだと思ったからだ。
方向性を定めた大人は、冷静に行動した。
さり気無く食だけでなく色々な事を聞き出して、恭一が快適に過ごす為の情報を掴みこれまたさり気無い時間の共有を積み重ねた結果『出社日の火曜日の夜は翡翠に寄って、その後李壱の家に泊まる』と言うサイクルを見事に形成したのだ。
最初どの程度酒を飲めるか分からない恭一をいきなり店に連れて行って何かあったら困ると判断した李壱は恭一がどの程度飲める人間なのかを見定めることにしたのだが……聞いて驚けこのボウヤ。
酒がクッッソ強かった。
自他共に強いとされる李壱がちょっと引くレベルで強かったのだ。
ウワバミじゃない。ザルでもない。本気の輪だ。初めて見るレベルの酒豪で急性アルコール中毒を心配した李壱が思わず早めの段階でストップをかけるほど恭一は酒に強かった。
いくら飲んでも顔色一つ変えず「お酒ってどれも美味しいんですね」とカパカパ杯を重ねる様はちょっとしたホラー。本気でハラハラした。……だってほぼ空きっ腹だよ? どうなってるのこのスリムボディ。
しかも翌日も二日酔いの気配すら無くけろっとした顔で普通に起きて来たからさらに怖かった。
「えっと……普段は飲まないのよね?」
「そうですね。会社の飲み会で乾杯だけ付き合って、後は周りのお世話をしながら一次会が終わるのを待つ感じです」
「そ……そうなの」
どうしよう。
このレベルの人間に酒の美味しさを教えてしまった。
アル中になる前に酔うという状態すら自覚無く肝臓を壊して手遅れになる余計なきっかけを与えてしまったかも知れないと恐れ戦く李壱はさり気無く軌道修正を計る。
「一人酒ってほら、寂しいから飲みたかったら私と一緒に飲みましょうよ」
「……? はい、別に僕は毎日飲みたいとか無いので良いですよ」
こくりと素直に頷いた恭一に李壱は頷いた。
この子、可愛い顔して李壱が好きな度数の高いブランデーを普通にいったからね。
閉店後の店に連れて行って、味の好みを把握しようと舐めさせるだけのつもりで数種類並べたのをいくら少量とはいえちゃんぽんしたのにずーっと顔色もテンションも振る舞いも一切の乱れが無かったからね。
「これ一番美味しいです」
ってさ、辛口の日本酒だよ? しかも味わう様にゆっくり口に含んでにっこり笑ったんだよ? 渋くない?
普段一切飲まずにたまにある会社の飲み会で乾杯にビールを気持ち程度付き合うレベルでその行動する? しかも「甘い飲み物は苦手なんです」ってさ、カルーアミルク飲んでそうな顔で言うんだよ?
最高過ぎて惚れ直したわマジで。
体調を鑑みつつ酒量を適正に制御した上でなら一緒に楽しく過ごせそうで嬉しかったわ。……ちょっと驚いたのは事実だけどね。
そして今、二人は海外ドラマにハマっている。
特に見始めた時点でシーズン3まで出ているシリアスなサスペンスモノに二人揃って夢中だ。
「もう一話だけ見ませんか?」
「本音で言うと見たいわ。でももう三時よ? 私は明日休みだけど、アナタは違うでしょ?」
「う……」
恭一の仕事は規定量を熟せばある程度融通が利くようで最近は李壱と同じ水曜日に固定休を持って来て働いているのだが、明日……正確に言えば今日は午前九時にオンライン会議があると言っていた。
テレビを見る習慣と言うか娯楽を楽しむことにあまり積極的でなかった恭一に何か二人で一緒に出来る日常生活の楽しみを……と思って始めた動画鑑賞だが、思ったよりも合っていたみたいだ。
「僕、ちゃんと起きます」
健気なことを真横で言われ李壱はちょっと揺れた。
自分の睡眠時間が減る分には一向に問題無いが、睡眠は健康の基本だ。食事・睡眠・運動が健康の大事な柱であることは誰も否定しないだろうが、恭一は『食事』が圧倒的に欠けている。その彼からさらに睡眠時間を減らすのはやはり避けたかった。
「私も一緒に見たいけど、恭ちゃんちょっと考えてみて? これシーズン3まであるのよ? 私達、まだシーズン1の途中……きっとキリがないわ。私もアナタと一緒じゃないと見ないって約束するから今日はもう寝ましょう?」
「……はい、分かりました」
しゅんとした顔で頷かれると李壱はちょっと困ってしまう。
一緒に過ごす時間を増やし、年齢差による遠慮の壁を取り払うように尽力した結果恭一は以前より素を出してくれるようになった。
なったのだが……表情のレパートリーが増えた分ハッキリ言ってクソ可愛い。たまに本気で奇声を上げてハグして頬をスリスリして可愛がりたくなる時がある。
しかしまだ早いとぐっと堪えて李壱はいつもと同じ笑顔を必死にキープした。
「またいつでも来れば良いだけよ。いっそ住む? 家でも良いし、上も空いてるわよ」
「……」
上、と言うのはこのビルの三階部分のことだ。
喫茶店翡翠が入るビルは全部で三階建てで一階部分がお店、二階部分が居住スペース。そして三階部分は元々祖父がコレクションしている様々な物を保管する為に使われていた。
その道が好きな人間が涎を垂らしいくらでも出すから売ってくれ! と土下座せんばかりに価値のある物をただ並べておくだけでは勿体ないから、自分が死んだら価値を理解出来る人間に譲ってやってくれと祖父は生前李壱によく言っていたのでその遺言に従い生前祖父と親交のあった人間とその信頼出来る人間が紹介して来た人たちにコレクションの類は全て引き取られ現在は完全に空いている。
ここは駅から程よい距離で立地も良いしリフォームして賃貸に出すことは簡単だが李壱は他人が自分のテリトリーに入ることを好まないのでその計画は保留にしていた。
しかし恭一との関係を真剣に考えてからは念の為……と三階部分を賃貸に出せる様に手を入れたのだ。
一人だけがワンフロアぶち抜きで居住するには広過ぎるし、がらんどうの空間は好まないという言葉もあって敢えて区画を二つに区切り、手前を居住できる配置にして奥の部分は全てを取っ払って敢えて倉庫として作った。
そしてこの話はそれとなーく恭一の耳に入れている。
「三階部分が余ってるんだけど、誰も住まないと建物が傷むって言うじゃない? 一応リフォームは済んでいるんだけど知らない人が入るのってちょっと抵抗あるのよねー」
と。その時恭一は完全な世間話の一つとして聞いていたが、先ほどの「……」に李壱は微かな可能性を感じた。
絶対ちょっと検討する余地が生まれていた沈黙だと言える。
――久し振りに少しだけ踏み込んでみようか。
「因みに今の物件、更新はいつ?」
「えっと……確かそろそろ? だった気がします」
「駅から何分で、お家賃は?」
「徒歩十五分は掛からない位で、七万二千円ですね」
ふぅん? と李壱は相槌を打ちつつ考えた。
ぶっちゃけお金には一切困っていないのでタダで良いのだが、それだと恭一の性格上無理だろう。
ここは信頼を勝ち取るために敢えて無駄な交渉術を駆使せずシンプルな両面提示で行こう。デメリットを強調させて、下から。
「ここは駅からはご存じの通り七、八分かしら? そのくらいなんだけれど、階段の三階だから家賃は六万八千円にしようかなーって思ってるの。今どきの人はエレベーターに慣れちゃってるから階段はちょっと弱いのよねえ」
嘘ではないけど本当でもない。
全然弱くない。
この立地と広さ、設備面の充実を考えれば格安だと言えるし募集を掛ければ恐らく数日で埋まる可能性すらある。
そこまで言うと恭一は明らかに考える素振りを見せた。……あれ、これイケるんじゃない?
逸る心が外に出ない様に李壱は気を付けていつも通りを心掛け言う。
「私の友達の不動産屋に仲介と管理を頼もうと思ってるんだけど、恭ちゃんが借りてくれるなら敷金礼金無しで良いわよ。知らない人を建物に入れるよりずーっと安心だもの」
「……一回……見せて、貰っても……良いですか?」
「勿論よ~」
一か月後、恭一は見事引っ越して来てくれた。
それはとっても、とーっても嬉しいことだが李壱は自分の気持ちをさらに引き締める。絶対に浮かれて油断しない様に。
家まで押さえて無理に迫るなんて真似をしたら、恭一のメンタルに掛ける負荷は甚大だ。
あれだけ排他的だった彼が自分を信じて傍に来てくれたのに、逃げ場所を奪うような追い詰め方は絶対にしてはいけない。
あくまでも自然に。
ストレスも不安も与えず恭一の世界に溶け込んで、気付いた時には付き合ってた! と言うようなペースで構わないから確実に行きたい。
物理的な距離を縮めて、接触回数を増やす。それはとても効率的な方法で心理学でも立証されている。
「お世話になります、李壱さん」
「こちらこそ~、末永く住んで頂戴ね」
引っ越して来た恭一だが、基本的な生活サイクルはほぼ変わらない。
基本は在宅ワークで火曜日に出社。自宅での作業に疲れると降りて来て珈琲を飲んでリフレッシュして戻って行く。
ただ今までは週一回だった海外ドラマ鑑賞会が二回になって、それまでは前日までにちゃんとお互いアポを取っていたのが「今から来る?」と言う簡単なやり取りで済むようになって来た。
李壱は恭一に気を使わせないように……あわよくば食に興味を持ってもらえるように自作の手料理を食べて、恭一はその時気が向いた物を摘まむ。
この頃には主食+軽めのデザートをセット化する習慣付けに成功したので出会った当初よりは幾分、本当に少しだが顔色が良くなって来たように思えた。
順調だ。
正式に恋人になるまで何年掛かるかは相変わらず不透明だけど、李壱はそれでなんの不満も無い。
最近の恭一はかなり李壱に慣れて大きな口を開けて笑ったり、ちょっとだらしない体勢で寛ぐ姿を見せてくれるようになって来ているから、確実に進歩していると言える。
そんなある日の火曜日。
その日は朝から強めの雨が降っていて、恭一は渋々会社に出社して行った。
「こんな日に限って忙しいからきっと遅くなると思う」なんて可愛らしくぶーたれていた。
天気が悪い日に客の入りが悪いのは別に毎度のことなので客が誰もいない店内で李壱は特に気にもせず雑務を熟し過ごす。
――リリンッ
ドアベルが鳴ったので反射的に視線を上げる。
入り口には多く見積もっても六十代になったばかりなのでは? という背筋をピンと伸ばした身なりの良い紳士が立っていた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
接客用の顔で言った李壱の顔をじっと眺めて、紳士は穏やかな声で返す。
「高宮 恭一の祖父です。恭一がいつもお世話になっております」
――あらまあ、随分お若いのね。
雨脚が強い。
きっと他に客は来ないだろう。
「こちらこそお世話になってます。奥へどうぞ~、何か私に込み入ったお話でもあるのかしら?」
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