神様は僕に笑ってくれない

一片澪

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05.初対面の人間が僕に家族を語って来る

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李壱に家まで送って貰った次の出社日の帰り、恭一は久し振りに翡翠のドアを潜った。
お客さんはそれなりに居るけれど皆珈琲と人によっては軽食を頼んでゆったりとした独特の空間を楽しんでいる。ちなみにこの店のお客さんの『何かを読んでいる率』の高さはすごい。その反面スマホを見ている人間はほぼいない。

――おや。

見覚えのある数人がそんな風に僅かに目を見開いたがにこりと微笑んだだけで直接声は掛けて来なかった。
そんな配慮が自然と出来る大人になりたいなぁと漠然と思った恭一は軽く会釈だけしていつもの席に座ると程無くしていつものモスグリーンのエプロンを身に付けた李壱が「いらっしゃいませ」と笑顔を浮かべて水とおしぼりを置きに来てくれた。

「珈琲ください」
「畏まりました。今日はアイスでも美味しいお客様好みの豆もご用意しておりますが、如何なさいますか?」

接客モードの真面目な口調。でも顔はいつも通り優しく微笑んでいる。
恭一は速足で歩いて来て少し喉が渇いていたので李壱の魅力的な誘い文句も相まっていつもはホットだけど珍しくアイスを頼んでみた。

にこりと微笑んだ李壱がキッチンスペースに戻って行く背中を数秒だけ見送ってこの店の皆に影響を受けて本屋に行って選んだ文庫本を何気なく開く。
読書=電子書籍と言う世代の恭一だけど、紙の本もまた良いものだ。
特にネットじゃなく直接本屋さんに行って選ぶのがまた楽しい。街の本屋さんが消えて行くと言う悲しいニュースもあるけれど、実際の本屋さんで見る書店員さんが厳選した手書きのポップ。あの文化はどれだけ時代が進もうとも無くならないで欲しいなと心の底から思う。
数ページ世界観に没入するように読み進めているとアイス珈琲が届いた。

「お待たせ致しました」
「ありがとうございます」

お礼を言うと李壱は何故かウインクを残して去って行った。
恭一がそんな真似をするときっと大惨事だろうけれど、やる人がやれば様になってカッコいいのだから世の中とは不平等なものである。

ストローに口を付けて飲み込むと……美味しい。うん、すごく美味しい!
これが珈琲通の人なら「酸味と苦味のバランスが」とか「爽やかな後口が」とか小一時間語れるのかも知れないけれど、そんな表現力を恭一は持ち合わせてはいないので感想は「すっごく美味しいです!」のみになってしまう。
けれど李壱はそれだけで何かをくみ取ってくれる様で気付けばいつも美味しい珈琲が必ず出て来ると言う魔法のような状態が出来上がったのだ。

あの夜言われた時は「相手を間違うとセクハラで訴えられますよ?」と本気で思った「舌と喉を掴まれている」と言う表現はあながち嘘では無いのかも知れない。

美味しいからごくごく飲みたい。でも、勿体ない。けど、放置している間に氷が溶けて変に薄くなってしまったら丁寧に淹れてくれた李壱に悪い。
そんな葛藤を抱き結局は文庫本に栞を挟んでいったん閉じて、ちびちびとゆっくり味わうことを恭一は選んだ。
それくらい今日飲んだアイス珈琲は美味しい。
でも同じ豆を買って帰って恭一が家でチャレンジしても絶対に同じ味にはならないのは分かっているので、またここに来てしまうと思う。

――うん、やっぱりこの店が好きだ。
李壱の淹れてくれる珈琲が好きだ。
あの時感じた妙な感情は記憶の彼方に葬り去って、前みたいにちょくちょく来よう。

そう思った時あの馴染んだドアベルの音がした。
ここは喫茶店。色々な人がそれぞれの目的でやって来て自由な時間を過ごして許される場所だ。だから特に気にせず目の前の珈琲に舌鼓を打っていると、誰かが傍にやって来て足を止めた。

「……――?」

恭一の座っていた席の脇を抜けて奥の方に行くのかと思ったが、誰かが明らかに恭一の傍で足を止めたので流石に視線を向けてしまう。
見上げた先に居たのは五十代前後の高そうなスーツを当然のように着こなしている男性だった。

恭一も一応社会人なのでスーツは持っているけれど、言うなればスーツに着られている系の残念なタイプなのだが、目の前の男は背が高くて精悍な顔をした年の割には一切の緩みを感じさせない体形で髪の毛もきちんと櫛を通してお洒落にセットしている。こういう人をイケオジって言うのかな? でもこの人誰だろう? 初対面なのはまず間違いないけれど、何か用でもあるのだろうか?
無言のまま視線を向ける恭一に、男は名刺を差し出しながら低い声で言った。

「高宮 恭一君ですね? 私は栖原サイバラと申します。あなたにどうしても話があって参りました。……同席させて頂いても宜しいですか?」
「……?」

恭一は相手を知らないけれど、相手は恭一を知っているらしい。
視線の先に居る老紳士が視線だけで「大丈夫か?」と尋ねて来てくれたので取り敢えずは頷いた。
これが全く味方の居ない知らない飲食店なら少し違ったかも知れないけれど、ここ翡翠は恭一にとってちょっとした安心出来る場所になっている。それを証明するように別のテーブルの客が何も注文していないのに李壱がさり気無く様子を見に来てくれた。

それになんだかとても強い安心を抱いた恭一は警戒心は一切解かないが取り敢えず「どうぞ」と硬い声で返す。
その後李壱はいつものオネェ言葉の「オ」の字も出さずに注文を取りに来て栖原と名乗った男はメニューすら見ずにブレンドコーヒーを一つ注文した。

李壱は「畏まりました」と言って下がる時恭一の目をじいっと見てくれた。言葉のやり取りは無かったのに「何かあったらすぐに呼びなさい」と言われた気がして同じように視線だけで返す。
栖原は李壱が十分に離れたのを確認してから真っすぐ恭一の顔を見て単刀直入に言った。

「突然だけど聞いて欲しい。『可純』が先週事故に遭って入院したんだ。今はもう目を覚ましているけれど意識が混濁している間中ずっと君のことを呼んでいた……頼む、少しで良いから顔を出してやって貰えないか?」

その一言で恭一には男の正体が分かった。この男は、あの女の結婚相手だ。
それが分かった時点で恭一の対応は決まる。

「お断りします。どうぞお引き取りください。これ以上僕には話すことは何一つありません」

いつものどちらかと言うとぼんやりしているように見られがちな恭一にしてはかなり棘のある視線と突き放した口調に奥の席に居た老紳士が少し驚いたように目を見開いたことを恭一は知らない。
恭一はただ、目の前の栖原を感情をそぎ落としたような目で冷たく見ているだけだ。
しかし栖原は引かなかった。

「君の事情は聞いている。だがたった一人の『母親』が病床で君を呼んでいるんだよ? 君ももういい大人だろう。意地を張っている間に取り返しのつかない何かが起きて、一生後悔を背負うことになる可能性もゼロじゃないんだ。少しくらい、ずっと君を想っている母親に歩み寄るチャンスを与えてやっても良いんじゃないか? 君がいくら否定しようとも『家族』であることはどうやったって変えられないんだよ?」

栖原のその言葉は、恭一の地雷を踏み抜くには十分過ぎた。

――事情は聞いている? だから何だよ?
本当に、本当に正確に事情を聞いていてその言葉を言うならお前は現時点を以て明確な敵だ。
先に俺を「家族じゃない」と言ったのは他でもないあの女だと言う事実が抜け落ちているくせに訳知り顔で他人が何を言っているんだ?

本当ならこのアイス珈琲の入ったグラスを傷害罪覚悟で投げ付けてやりたいが、ここは大好きな翡翠だ。
グラスも、テーブルもソファも……李壱や常連の皆が大事にしている特別な財産だ。それを、恭一の怒りの発散の為に傷つけることは絶対にしたくなかった。

それを思うと怒りが一周回って、逆に冷静になる。……自分でも知らなかったけれど大人になった恭一はそう言うタイプだったみたいだ。
冷静に、抑揚の乏しい冷めた声がすらすらと出て来る。

「戸籍でも取りに行きます? 僕の母親は『恵子』ですよ。……それに初対面の得体の知れない赤の他人に家族を語られても薄気味悪いだけです」
「恭一君!」
「……気安く呼ばないで貰えますか? すみませーん! 『店長さん』助けてください! 警察呼んで貰って良いですか? この人いきなりやって来て意味の分からないことを言ってて怖いんです」
「恭一君!!」

丁度栖原が注文した珈琲を持って来た李壱に言うと李壱は珈琲を丁寧な動作でテーブルに置いて、トレーをさっと脇に挟んで緊急通報に即発信出来るスマホ画面をわざとこちらに向ける。

「お客様、ご事情は分かりかねますが店内でのトラブルに関しては店の方針として即警察を呼ぶことにしております。如何なさいますか」

長身で肩幅が広い体格も勿論あるが、整った李壱の真顔にはすごい迫力がある。
笑顔と言う物がどれだけ人間の印象を変える力があるのかをまざまざと見せつけられて少し呆気に取られた恭一の前に座る栖原は一つ咳払いをしてからすっと片手を上げた。

「大きな声を出してしまったことはお詫びします。しかし私は彼と紛れもなく親族関係です。詳しいことはお話出来ませんが、詐欺や恫喝など警察の世話になる様な用件で会いに来た訳では断じて無いんです」
「……」

栖原の言葉を聞いて李壱は恭一に視線を向けた。
だから恭一はハッキリと嘘偽りの無い自分の中の認識を正直に言う。

「僕はこの人を知りません。百パーセント初対面です。いくら親族関係を主張されてもこの人の存在自体を知りませんから赤の他人です。だから、お話することは何もありません。出来るならさっさと出て行って欲しいです。もし仮に僕を尾行して自宅を突き止めようとしたり、最初から調べ上げていて後で訪ねて来るようなことがあれば即通報します」

恭一がそうハッキリと迷いの無い口調で言うと李壱は頷いて再度栖原を見た。

「お代は結構ですのでどうぞお引き取りください。他のお客様のご迷惑にもなりますのでこれ以上ここに留まると言うことでしたら通報させて頂きます」
「――恭一君、また後で話そう。いくらでも待つから」

栖原は硬い顔で財布を取り出そうとしたが李壱が制した。そしてそのまま李壱は栖原をエスコートするように見えて一切隙の無い動作でとても優雅かつ丁寧な雰囲気を出しつつも確実に追い出してくれたのだ。

「……――」

ぼうっとしていると気遣わしげな声が落ちて来た。

「大丈夫かしら? あの男車で待つ気満々みたいだからちょっと見えないようにブラインド降ろすわね」
「ご迷惑をお掛けしてごめんなさい。……皆さんも、お騒がせして申し訳ありませんでした」

李壱が恭一の座っている席を隠すようにブラインドを降ろしてくれている間に恭一は他の客に頭を下げた。
しかし常連客達は「良いんだよ」と誰もが優しく笑顔で返してくれる。

カラカラに乾いた口の中を潤したくてアイス珈琲を飲んだけど、気持ちのせいか美味しさは激減してしまっていた。
そのことがなんだかとても申し訳なかった。



「しつこいオッサンねぇ~、まだ居るわー。不審車がずっと停まってますーって警察呼んでやろうかしら」
「……本当に、すみません」
「やだー、アナタ全然悪くないでしょー?」

結局恭一は帰るに帰れず閉店時間の十九時を迎えてしまった。
流石にこれ以上は李壱に迷惑を掛けるので裏口から出してもらったり出来ないか相談してみようかな、と言う前に彼はサクサクと動いて外の看板を中に入れて、ドアをしっかりと施錠して表示をクローズに切り替えドアのカーテンも閉める。

「えと……え?」
「いいから座ってなさいな。ごめんね、もうちょっと待ってくれる?」
「あ、はい」

李壱の行動は素早かった。全ての窓のブラインドを落としてさらに流れる様な動作で照明を二段階くらい落とす。

「明日は丁度定休日なの! 良かったら泊って行くと良いわ」
「え?!」
「流石にここに一晩中居るとは思わないだろうから、きっと裏口から帰ったって思って引き上げるわ。で、多分アナタの自宅マンションに移動する……でも電気が点いてないからアレレ? ってなると思うわよ」

言いながらも李壱は絶えず動き続けて一切の迷いの無い動作で閉店作業を続ける。
その動きがあまりにも熟練過ぎて下手に手伝いを申し出れない恭一を見て李壱は朗らかに笑った。

「やだ何その顔? お客様に閉店作業を手伝わせる飲食店経営者なんていないわよ! ちゃちゃっと済ませちゃうからスマホゲームでもして待っててね」
「あ……す、すみません」

それから小一時間待っていると李壱が「お待たせ、こっちにどうぞー」と声を掛けてくれた。今まで入ったことの無いキッチンスペースの奥のドアの向こうは、内階段になっていたらしい。


「はーい、ようこそー。お持ち帰りありがとうございまーす」
「……やめてください」


――おかしいな。

ずっと、何か嫌な事があると恭一は一人の世界に閉じ籠って自分なりに心を落ち着かせてなんとかして生きて来た。
でも、今は一人じゃないことに安心している自分が居る。

初めて入った李壱の居住スペースはなんて言えばいいんだろう? だだっ広くてお洒落だった。……語彙が少なくて本当にごめんなさい。
なんて言えばいいんだろう? キッチンも見えるしリビングもあるし奥の方にはちょっと死角もあるけどベッドっぽいのも見える……そう言うドラマとかに出てきそうなお洒落部屋だった。

「なにー? 何か気になるー?」

ひょこりと顔を覗き込まれて恭一は首を左右に振った。

「僕……誰かのお家に泊めてもらうの初めてです。お邪魔します、お世話になります」

ぺこりと頭を下げた恭一に李壱は「あはは!」とまた朗らかに笑った。
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