猫をかぶるにも程がある

如月自由

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番外編

3 ご両親へご挨拶

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 千冬くんの実家は、旅館ほどではないが立派な日本家屋だった。俺の家とは全く違うから新鮮だ。
 千冬くんのお父様ががさごそと押し入れの奥を漁る。「あれーギターどこにやったんだっけな」なんて呟きながら。やがて奥から発掘されたのは、スタンダードなアコギだった。
 俺は橘家に囲まれて、促されるがままに何曲か弾き語りをした。なんだか自慢げな表情をしていた千冬くんをよく覚えている。

 そうこうしているうちに日が暮れて、「一樹くんは今日うちに泊まってくれるのよね?」「あっ、は、はい! ぜひ!」なんて会話をした後に夕飯の時間になった。
 橘家は一家皆で食事の準備をするらしい。聞けば家族皆料理ができるそう。家業が旅館経営だからだろうか。
 俺も色々と手伝いながら、俺の実家の夕飯は家事代行の人が作ったものか買ってきた惣菜がほとんどで、父親も母親も料理なんてしなかったな、と思い出した。そういえば俺、実家の味ってものをよく知らないんだな。

 やがて食卓に並んだのは、温かみのある和食だった。しっかり塩を振って焼いたサバと湯気をたてる味噌汁が食欲をそそられる。「こんなものでごめんね」なんて千冬くんのお母様は言うが、とんでもない。
「いただきます」と橘家四人が声を合わせて言う。俺も慌ててそれに続いた。声を合わせた「いただきます」なんて、中学校時代の給食ぶりだ。
 なんだか、俺に視線が集まっているような気がする。俺はやや気まずくなりながら箸を取り、そうっと味噌汁に口をつけた。

「……一樹、どう?」

 不安げに尋ねてくる千冬くん。俺は何も答えず塩サバに箸をつけ、つやつやとした白米を口に運び、もう一度湯気をたてる味噌汁を飲んだ。
 温かい。温かくて美味しい。俺は無言のまま口の中に広がる旨みを噛み締めた。言葉はどうしても出てこなかった。何か一言でも口にしたら、出さなくていい余計なものまで出てしまいそうで。

『よくやったな、一誠(いっせい)』
『一誠は偉いわねぇ』

 突然、父さんと母さんの上機嫌な声が蘇ってきた。よく聞いた声色だ。そして、一度も俺に向けられることがなかった声色でもある。
 思い出す。広く寒々しい食卓の隅で、一人身をすくめてやり過ごしていたことを。紙粘土でも食べているかのように何一つ感じなかった夕飯の味を。
 思い出す。ドア越しに聞こえる和気藹々とした会話を聞いた後、一人部屋に閉じこもって機械的に流し込んだ夕飯の冷たさを。静まり返った自室の中で気味悪く響く俺の咀嚼音を。
 俺は家で食べる夕飯が嫌いだった。美味しいと思ったことなんて一回もない。そもそもろくに味を感じたことすらない。俺にとって家でとる食事とは、生命維持のために仕方なく流し込むものでしかなかった。

 こんなに温かい夕飯なんて、ただの一度も食べたことがない。

「……一樹くんの口には、合わなかったかな」

 千冬くんのお父様が恐々と問いかけてきた。俺は首を横に振って口を開く。だけど何も言葉が出てこなくて、出てくるのは震える吐息ばかり。俺は一度唇を噛んで、俯いて、身体の底から湧き上がってくるものを堪えてから言葉を絞り出した。

「美味しい、です。すごく」

 橘家の食卓はわっと沸いた。俺の言葉で。お父様は「よかった! お母さんの作る味噌汁は美味いだろ?」と笑い、お母様は「おかわりはいくらでもあるからね」と優しく言って、千冬くんは「いっぱい食べろよー、一樹。ところで俺の分もおかわりある?」と冗談めかして聞いて、千夏ちゃんは「お兄はおかわり禁止ですー。一樹さんの分がなくなっちゃうでしょ」なんてはしゃいだ声でわざとらしく言う。
 賑やかな食卓は嫌いだった。疎外感で胃がむかむかするから。だけど、この食卓には俺の居場所が用意されていて、俺の分のおかわりなんてものまで用意されていて。
 温かいもので胸が詰まる。もう駄目だった。俺は箸と茶碗を置いて、さらに深く俯く。

「……一樹? え? お前どしたの? 大丈夫? なんか嫌なことでもあった?」

 不意に慌てた様子で千冬くんが尋ねてきた。俺は強く首を横に振る。違う。むしろ逆なんだ。すごく嬉しくて、温かくて、美味しくて。だから俺は。
 俺の中に溢れる感情は何一つまともな言葉にならなくて、ただ視界を滲ませて机をぼたぼたと濡らすばかり。こんな様子じゃ皆を困らせるって分かっているのに。駄目だな、俺。

「ご、っ……ごめんなさ、俺、」
「謝んなくていいから。な?」

 千冬くんは手を伸ばして俺の背中をそっとさすってくる。彼の手は相変わらず温かかい。
 千冬くんからはもちろん、その他の三人からも俺を案じる気配が伝わってくる。心配、してもらっている。俺はしゃくり上げながらも、なんとか言葉を絞り出した。

「俺、……ずっと実家に、い、居場所がなくて、それで……初めて、なんです。こんなに、あったかいご飯。だ、から、おれ……すごい、うれしくて……っ」

 一樹、とほとんど息だけで千冬くんが呟く。気づけばあんなに賑やかだった食卓が静まり返っていた。俺は手の甲で目元を乱暴に拭いて、箸を手に取り、無理やり言葉を繋ぐ。

「え、へへ。ごめんなさい、なんか変な空気にしちゃって。ええと……だから、美味しいです、全部。おいしいなー。あ、あと……そう、お味噌汁。お味噌汁好きです、俺。それから、えっと」

 箸を持つ俺の手に優しく手が重ねられる。千冬くんの手だった。顔を上げると、彼は眉尻を下げて俺を見つめていた。彼の大きく澄んだ瞳はなんだか潤んで見える。

「ごめん、上手く言葉出てこないんだけど……大丈夫だから。温かいご飯なんてこれからいくらでも一緒に食べられるし、それに……」
「――一樹くん!」

 不意にお父様が大声を出した。驚いてそちらを見ると、彼はなぜか大げさなくらいに目をうるうるとさせている。

「君はもう、家族だ! 橘家の一員だ! だから、ここを実家だと思って存分に甘えてくれ!」
「え? い、いや、そういうわけには……」
「お父さんったら。でも、そうだね。お父さんの言う通り、うちをもう一つの実家だと思って過ごしていいよ、一樹さん」
「そうねえ。うちはいつでも一樹くんを歓迎するから」

 次々に信じられないくらい温かい言葉が手渡されていく。見ると、皆優しい眼差しで俺のことを見つめていた。温かいのは慣れていないから、どうしていいか分からないし怖い。
 俺は困って千冬くんと目を合わせた。彼はとびっきりやわらかい表情をしている。

「こういう家族なんだよ、うち。だから大丈夫。安心してたくさんおかわりしてくれよな!」

 皆の言葉があんまりにも温かくて、俺はもう一度だけ泣いてしまった。少しだけ塩っ気の強い夕飯は、それでも温かくて美味しかった。







 朝の温泉街は静かで清々しい。俺と千冬くんは朝の光を浴びながら、石畳の上を二人で歩いた。

「俺の家族、どうだった? 皆うるさかっただろ?」

 千冬くんがやや苦笑しながら言う。俺は勢いよく首を振った。

「そんなことないよ! すごくいい家族だった」
「ほんとに?」
「本当だよ。なんていうか、だから千冬くんみたいな人が育ったんだなって思った」

 俺は笑みを口元に浮かべた。
 橘家は全員優しくて、家を出る時なんか「またいつでもおいで、一樹くん!」なんてにこにこ見送ってくれた。
 いきなり現れて息子の恋人だなんて名乗るコミュ障の男をこんなに歓迎してくれるだなんて思ってもみなかった。実の家族よりもずっと温かい。

 俺は橘家で、初めて温かい食卓を囲んだし、初めて家族と「おはよう」と「おやすみ」を言い合ったし、初めて家族団欒の輪に入れてもらえた。
 たった一日泊まっただけなのに、たくさんの初めてをもらってしまった。こんな温かい日常が当たり前にあって、家族からたくさんの愛をもらいながら育ったんだから、そりゃあ温かく心優しい人が出来上がる訳だ。

「俺みたいな人って? どういう意味?」
「優しくて、温かくて、いつも前向きで心が広い素敵な人、って意味」
「えー? めっちゃ褒めてくれんじゃん」
「これでも控えめに言った方だよ」

 千冬くんが照れくさそうに笑う。晴れ渡った朝の青空みたいに綺麗な笑顔だ。俺はちょっと笑った後、ふと呟いた。

「……俺も橘家みたいな家で育ってたら、もうちょっとマシな人生になってたのかな」

 成績が悪くても殴らず、上手く話せなくても怒鳴らず、学校で俺がいじめられたら一緒になって悲しんだり怒ったりしてくれて、俺の性的指向をそのまま受け入れてくれて、一度でもいいから「大好き」って言ってくれるような家族が俺にもいたなら、一体どうだっただろう。
 帰ったら「おかえり」って笑顔を向けてくれて、食事の時は「美味しい?」って聞いてくれて、寝る時は慈しむように「おやすみ」って囁いてくれて、朝起きたら「おはよう」って明るい声で言ってくれるような、そんな家族だったなら。
 ……一度でいいから、親に褒めてほしかったな。

 千冬くんは黙った。石畳の上を歩く硬質な音が響く。やがて彼はおもむろに口を開いた。

「……家族ってさ、生まれた時にはもう決まっちゃってるからどうにもできないけど……でもさ、一樹がもし違う家に生まれてたら、俺たちは出会えてなかったかもしれないだろ? だから悪いことばっかじゃないよ、きっと」

 俺は立ち止まった。千冬くんは遅れて立ち止まり、俺の方を振り向いた。

「……君と出会えない人生は嫌だなあ」
「だろ? だから、忘れたい過去とか嫌な家庭環境はどうしようもないけどさ、その先の人生を俺と正解にしていこうぜ」

 鼻の奥がつんとした。千冬くんは輝くような笑顔を浮かべている。逆光だからか彼の後ろから光が差していて、すごく綺麗だ。
 最悪な環境で育ってきて、最悪な過去をたくさん抱えている俺だけど、千冬くんと出会えて付き合えただけでこの人生には意味があると思える。
 俺は「そうだね」と笑って、朝日が輝く方向へと歩き始めた。
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感想 8

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みんなの感想(8件)

tim
2024.01.20 tim

もぉもぉもぉめちゃくちゃ良かった!!!!!!!!
1回読んで「すごく好き!」って思って、3回読み返しました!!
一樹が千冬と出会って本当に良かった。
IFストーリーが切なすぎたから、より本編が刺さった…。
この小説を書いてくれてありがとうございます!
本当に今までで1番私に刺さった…。

解除
もくれん
2024.01.01 もくれん

一樹が千夏ちゃんにも認められて良かった🥰
千冬そっちのけで仲良し義兄妹になりそう🤭

解除
静葉
2023.12.30 静葉

そういえば ファストラバーズ の名前の由来って結局なんなんです?

解除

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