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第五章 そして繭になる

三十一話 敵を知り、己の中の怖れを知る

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 除葛(じょかつ)姜(きょう)軍師は、間もなく北辺、翼州(よくしゅう)か角州(かくしゅう)の北の国境沿いに出立してしまう。
 周囲の人は彼のことを良く言わないけど、私は別れる前に一言でも、挨拶をしておこうと思った。

「ちょっと中書堂に行って字典を借りて来てくれないかしら。玄兄(げんにい)さまのお手紙にお返事を書きたいのよ」
「ハイ、かしこまりました」

 折良く翠(すい)さまから用事を仰せつかって、私は早足で中書堂に向かう。
 可能ならば除葛さんには、世間話以上に、少し踏み込んだことも聞きたい。
 なぜなら私にとって、彼は理想の人だからだ。
 いやもちろん、男女の感情とか、恋愛的あるいは性的な意味ではない。
 やると決めたらやりきる判断力と、それを可能にする知力、実行力の持ち主だと思ったからだ。

「私に足りないのは、前に一歩、踏み出す決断力と行動力なんだ」

 だから煙の充満する商店ビルから逃げられなかったし。
 覇聖鳳(はせお)に焼かれた神台邑(じんだいむら)の惨状を前にしても、全くの無力だった。
 私は、なにもできないのだ。
 それは、知識や力があるなし以前の問題だった。
 やるのだと心に決めて、やりきるための一歩を踏み出す、一挙を前に伸ばす勇気が、私にはきっと、欠けているのだ。

「除葛軍師は、きっとそれを全部持ってるんだ。だから周りになんと言われても、自分のやるべき仕事をやりきったんだ」

 故郷である尾州(びしゅう)の反乱を直ちに察知し、敵情を分析して迅速果断に鎮圧して。
 なおかつその事後処理として、荒れた尾州の復興に自ら取り組んだ。
 自己完結の化物である。
 でも私は、そんな化物にこそなりたいと思う。
 そういう自分になれれば、きっと。
 神台邑の仇討ちも果たせるだろうし。
 私は私自身を、今よりもっと、好きになれるに違いない。

「おや、央那(おうな)ちゃんやんけ。今日はどないしたん?」

 中書堂を五階まで登ると、目的の人は机の上を片付けていた。
 相変わらず、誰もその作業を手伝おうとはしていなかった。
 百憩(ひゃっけい)さんとか、マブダチなんだから手伝ってやれよと思うけど、お出かけ中なのかな。
 危ない危ない、除葛さんは明日あたりに出発する予定だったのだろう。

「こんにちは。北辺に軍師どのが向かう前に、ご挨拶をと思いまして」
「おおきに、おおきに。せやけど、僕の出番なんて、ないほうがええねん。なんもせんで尾州にとんぼ返りするつもりでおるよ」

 殺戮の軍師が動けば動くだけ、人が死ぬ数は増える。
 そんな局面にならない方がいいと自覚している除葛軍師は、正真正銘、根っからの「作戦屋」なのだろうな、と私は思った。
 彼になにを託せるわけでもないだろうけど、私は頭を下げて、こう言った。

「私が住んでいた翼州の神台邑というところは、戌族(じゅつぞく)の覇聖鳳(はせお)率いる青牙部(せいがぶ)に、鏖(みなごろし)にされました。どうか、私の思いをわずかでもいいので、北辺まで持って行ってください」

 なんとか涙を流さずに言えた。
 私の言葉を聞いた除葛軍師は、金魚のようにぱくぱくと口を開閉し。

「覇聖鳳を、見たんか?」

 私を慰めるでも労わるでもなく、まずそのことを訊いた。
 ははは、この人、絶対モテないわ。
 でも私は、それがかえって嬉しい。
 稀代の軍師に、私が経験した惨劇を聞いてもらえることが、嬉しかった。

「はい。それほど体は大きくありませんでしたけど、堂々とした首領、という感じで、部下をよくまとめていました」

 神台邑を襲撃していた大混乱の中で、覇聖鳳は意気軒昂ながらも、冷静を保っていた。
 腹の立つ話だけど、奴らは単なる考えナシの暴力盗賊集団ではないのだ。

「中書堂の資料やと、神台邑が襲撃された状況の記述が少ないんや。まだ日が浅いから中央まで情報の整理が追い付かんのやろな」
「小さい邑ですので、仕方ないことかと」
「でも僕はどうしてもそこが気になってなあ。なんか知ってることがあるなら、教えてくれへんか」

 そう言えば、玄霧(げんむ)さんもその部分を気にしてたな。
 なぜ、初夏のあの日なのか。
 なぜ、神台邑でなければいけなかったのか。

「私が知っていることなら、なんなりと。最初からお話しましょうか」
「ぜひ頼むわ。翼州からこっちに上がってくる情報だけやと、どうしても、覇聖鳳がなしてあんな半端な季節に、小さな邑を徹底的に殺し尽くしたんか、説明がつかへんねん」

 くく、くくく。
 いいぞ、思った通りだ。
 除葛軍師は、最高だ。
 この人に私の見聞きしたことと、邑が滅ぼされた怒りを上乗せすれば。
 覇聖鳳を殺す、その一撃が、決して夢では終わらないぞ。

「まずは、村の長老たちが不安がっていたことから話しますね」

 私は邑のみんなとの思い出や、邑が襲撃されたそのときの様子を、除葛軍師に包み隠さず伝えた。
 話を聞き終えて除葛軍師は、ウームと唸り。

「神台邑の外周は、お濠で囲われてたんやったね?」
「はい、環濠が掘られて、水が張っていました。邑への出入り口は少なかったので、戌族の侵入を一度許してしまった後では、逃げることも難しかったと思います」

 神台邑の殺戮が徹底的になってしまった理由。
 それは皮肉にも外敵、怪魔の侵入を防ぐ邑の周囲の水濠(すいごう)が、邑人の逃走、脱出の妨げになったからだ。
 私は邑の内部に入る前に無我夢中で逃げ出したので、生き延びることができた。
 なるほど、という顔で除葛軍師は話を受け。

「これは僕が整理した青牙部の商売の大きさ、昂国との取引額の移り変わりなんやけどね」

 と、一枚のメモ書きのような紙を私に見せた。
 左から右に年代が進むように書かれた、一種の年表だろう。
 時代が進むにつれて、付記された数字が大きくなっていることに、私は気付く。

「昂国の邑や街を相手に商売をしてた金額が、十年前と今とを比べると、倍くらいになってますね」

 シンプルに数字が整理された表なので、私でも難なく読み取れた。
 敵の経済動向から状況を分析し、未来を予測しようとは。
 さすがに名うての軍師とあって、地味ながらもやるべきことはちゃんと抑えてるんだな。
 学びだワ~。

「せやせや。おそらく青牙部は、ここ十年の間に人口が激増したんやね。せやから戌族同士の商売では食料が足りひんで、国境を越えて昂国に米だの麦だの買いに来とったっちゅうわけや」

 草原の騎馬民族である戌族は、田畑を大きく作ることはできない。
 人口が増えてしまったら、遊牧して育てている貴重な羊や馬を食いつぶすか、よそから食料を買い入れるしかない、ということだ。
 覇聖鳳が神台邑を襲って物資を奪った動機が、自分たちのグループの人口爆発だとして。
 私には一つ、腑に落ちない点がある。

「でも、覇聖鳳は神台邑の食料を焼き払い、金銀や絹なんかの貴重品だけを奪って去ったはずです。食料問題で邑を襲ったとしては、不自然ではないでしょうか」
「僕もそれが気になるんや。腹が減ってるなら食料を手に入れたいと思うんが生き物の性(さが)やからね。僕はこれ、重要なことやと思うんやけど、なんか手がかりはあるやろか?」

 単純に、食べ物を獲得するだけではない、別の目的が。
 食料獲得以上に、達成しなければならない目的や狙った効果が、覇聖鳳にはあった、ということだ。
 私はそのヒントを探るべく、忌まわしきあの日のことを、さらに深く思い出す。
 あの日あのとき、私はどう思い、どう感じたか。
 神台邑が襲われ、馬上で刀槍(とうそう)を振るう戌族の荒武者たちを見て、どんな印象を持ったのか。

「手がかりになるかどうか、わかりませんけど」

 そう前置きして、私は続けた。

「とにかくあのとき、私は言葉が出ないくらい、驚きました。最初は、なにが起こっているのか、わからなかった」

 正直な感想と言えば、まずそれだった。
 なんで神台邑が?
 なんで、あんなに優しい、雷来(らいらい)おじいちゃんや、可愛い石数(せきすう)くんたちが?
 疑問と驚愕、後から湧いてきた怒り。
 あの頃の私の心を要約すると、それしかなかった、と言っていい。
 私の見解を聞いて、除葛軍師は目を見開いた。

「それや」
「どれです」

 べたなボケを返してしまったけど、わざとじゃない。

「覇聖鳳の目的は、翼州の北辺の邑を、それか他の戌族の氏部(しぶ)を、とにかくびっくりさせたかったんや」
「いやそんな、年末年始の隠し芸じゃあるまいし」

 びっくり、とは。
 昂国びっくりショーかよ。
 そんなバカな理由で邑ひとつ滅ぼされちゃ、たまらない。
 唖然としている私にわかるように、除葛軍師は続けた。

「覇聖鳳がよそから食料を調達したくても、その商売が常に上手く行くとは限らんやろ。むしろ、貧して窮しとるなら尚更、足元を見られるわな。そないな状態で商売ってのは上手く行かんもんや」 
「それは、わかります。相手が困っているなら困っているほど、値段を吹っ掛ける方が、いい商売になりますね」

 満腹の状態ならタダでも要らないカップめんでも、登山や砂漠で遭難中の飢餓状態なら一万円、いや百万円払う場合があるかもしれない。
 カップめんに一万円を払うような状態に、覇聖鳳たちが置かれていたのだとしたら。
 
「おそらくやけどな、覇聖鳳は食料を確保するために方々駆けずり回ったはずやで。それでも部族のみんなを食わせていくに足りひんから、バクチを仕掛けたんや。周りの連中をとにかく『びっくり』させるための、バクチをな」

 神台邑の長老衆が、会堂で話していたことに繋がる。
 邑の外の何者かと商売を持ちかけられているけど、昂国の規定を超える額の取引はできない、と。
 それは国境の外から食料を求めてやって来た、覇聖鳳たちだったのだ。
 法をたがえてでも、国にばれないようにこっそりとでも、神台邑が覇聖鳳たちに食料を分け与えていたら。
 その続きを、私は聞きたくなかった。
 でも、聞かねばならない。
 私の視線から真剣さを汲み取ってくれた除葛軍師は、遠慮なく、こう言った。

「央那ちゃんには酷な話やけどな。覇聖鳳は神台邑を『みせしめ』にしたんや。あんまり舐めとったら、他の連中もボテくり回したるど、ってな」
「ああ、やっぱり、そうなりますか」
「事実、その後で覇聖鳳の青牙部が大人しくなったんは、みんなが覇聖鳳を恐れたおかげで、商売が上手く行くようになったんやろな」

 本当だよ。
 酷な話にも、ほどがあるよ。
 こんなひどい話を、年端もいかない、ちんちくりんの小娘にハッキリ言ってしまえるあんたも、たいがい、おかしいよ。
 でも私は、除葛軍師の話を聞いて、後悔はなかった。
 知らないということは、無力であるということだ。
 知れば、それは力になる。
 私は涙も出ない、乾いた感情で述べる。

「神台邑を見せしめの標的に選んだ理由は、水濠(すいごう)で囲われていて、邑人が逃げ出しにくかったからですね」
「おそらくそうやろ。周辺の他の小っさい邑は、そんなに立派な水濠なんてないはずや。空濠(からぼり)ならなんぼでも走って逃げられるさかいな」

 全滅。
 鏖殺。
 その苛烈なインパクトこそが、覇聖鳳にとって、必要なことだったのだ。
 翼州北辺はその衝撃があったからこそ、多くの住民を南に避難させたほどだ。
 人のいなくなった邑から、覇聖鳳は置き去りにされた物資を、どさくさまぎれの火事場泥棒よろしく、必死でかき集めたのかもしれない。
 また、視点を国境の外に移せば、戌族諸部の面々は、その後も覇聖鳳と付き合いを続けなければいけない。
 青牙部のやらかしたことは、それなりの恐怖感を、他の戌族たちにも蔓延させただろう。
 食料などの商取引で覇聖鳳が有利な条件を勝ち取ったであろうことは、想像に難くないことだ。
 神台邑から奪った金銀も、それなりにあるからね。

「昔の偉い人が、お濠の工事を取り仕切って、怪魔を寄せ付けない結界を張ってくれたって、邑の入り口に石碑がありました。そこから中に立ち入らなかったから、私は逃げて生き延びることができたんです。あべこべな話ですね」

 ああ、ありありと思いだせる。
 神台邑でみんなが楽しそうに、忙しそうに動き回っていた光景も。
 全部焼かれてしまって、翼州左軍の兵士さんたちが、遺体を黙々と運んでいた光景も。
 私があらかた語り終えて、除葛さんはおもむろに、私の肩と、頭を優しく撫でた。

「辛かったやろ。話してる間も、張り裂けそうやったな。でもなあ、話してくれておおきに、おおきに。わからんことが一個、片付いたわ。ほんまに、おおきに」

 同氏殺しの首伐り魔人にも、情はあるようだ。
 いや、違うかな。
 この人は情を持ち合わせていながらも、必要に応じてそれを引っ込めて来たんだろう。
 その苦しみは、はなから感情を持ち合わせていない冷酷漢の比ではあるまい。

「軍師どのも、お辛いお務めかと思いますけど、どうかお体を大切に」

 誰からも別れの挨拶を貰えない、孤独な軍師に、私はそう告げた。

「しょぼくれた作戦屋ごときに、大仰な呼び方はやめてんか。姜(きょう)でええよ。僕ら、友だちやろ」

 爽やかな微笑みを残し、姜さんは北辺へ向かった。
 喰らえ。
 覇聖鳳とその仲間たちよ。
 愛らしい笑顔の裏に、怒涛、瀑布の如き殺意を抱え持つ首狩りの軍師が、北へ放たれたぞ。
 巷の噂や武勇伝、悪評しか、私は姜さんを知らないけど。
 姜さんの中に眠る災厄の度合いは、覇聖鳳なんかメじゃないくらいに、大きいと確信できる。
 殺戮には、より大きな殺戮をぶつけてやる。

「はは、ふふふ、あっはっはっは!」

 愉快、痛快、気分爽快。
 私は笑いながら朱蜂宮に戻り、すれ違った宦官たちに気味悪がられた。
 そして帰りが遅くなったので、翠さまにしこたま怒られた。
 もちろん、字典を借りるのも忘れた。
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