19 / 54
本編
第19話 カチンときたから
しおりを挟む
仲睦まじく話すアルベルクとマリアンヌを見つめていたサナは、小さく息を吐く。
「ご挨拶に伺いましょう」
エリルナが頷く。アルベルクとマリアンヌがいる場所に向かうべく、歩を進める。
サナは、トリンプラ侯爵の娘であるマリアンヌを知らなかった。結婚式には、トリンプラ侯爵と侯爵夫人も訪れていたし、挨拶もした。しかし、その時マリアンヌは不在だった。ほかの傘下の家は、令息や令嬢を連れていたのに、だ。体調が悪く出席できなかったのだろうか。それとも別の理由、例えば、アルベルクがほかの女と結婚するところを見たくないと出席を拒否したのだろうか。
なんとも言えない気持ちに苛まれたサナは、軽く溜息を吐いたのであった。
悶々とした気持ちに支配されるまま歩いていると、いつの間にか目的地に到着したらしい。長い階段を下り、正面の扉からトリンプラ侯爵とマリアンヌを笑顔で出迎えようと決意したその時、正面の扉が開かれる。そこから入ってきたのは、アルベルクとマリアンヌ、トリンプラ侯爵だ。
「アルベルク様」
アルベルクに声をかけると、僅かに驚いた様子の彼と目が合った。優雅に、そしてなけなしの気品をなんとかアピールしながら、階段を下りる。アルベルクの隣に立ち、マリアンヌとトリンプラ侯爵に微笑みかける。
「トリンプラ侯爵、お久しぶりですね」
「これはこれは……エルヴァンクロー公爵夫人。お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
トリンプラ侯爵は微笑みながら挨拶する。
「こちらは私の娘、マリアンヌです」
「お初にお目にかかります、エルヴァンクロー公爵夫人。私はマリアンヌ・ダ・トリンプラと申しますわ。以後、お見知り置きを」
トリンプラ侯爵の紹介を受け、優美に挨拶するマリアンヌ。見た目が麗しいだけでなく、声も美しいとは。サナは感心する。
「お会いできて光栄です、トリンプラ侯爵令嬢。サナ・ド・エルヴァンクローと申します。いつも夫がお世話になっております」
「………………」
マリアンヌはキラキラとした笑みを浮かべるだけで、何も言わない。その姿に恐怖を感じたサナは、そーっと目を逸らしたのであった。
「サナ。トリンプラ侯爵には、今日からこの城に一ヶ月ほど滞在してもらう予定だ」
「そうなのですね。大切なお仕事ですか?」
「リーユニアの新たな観光業についての話し合いのためだ。お前には極力苦労をかけないようにする。トリンプラ侯爵のことは空気とでも思ってくれ」
「……く、空気、ですか?」
アルベルクの言葉に、サナは小首を傾げた。明らかに怒っているトリンプラ侯爵が目に入るが、アルベルクはそれに気がついていない。彼は突然、距離をぐっと詰め、トリンプラ侯爵とマリアンヌには聞こえぬよう、小声で話しかけてきた。
「お前が気にかける必要はない。いつも通りに過ごしてくれたらいい」
「……分かりました」
小声で言うべきことは、空気云々の話のほうだと思うが……。そう思ったサナだったが、引き攣った笑顔で頷いたのであった。
「あの、アルベルク」
マリアンヌの声が聞こえた。ふたりの親密な一時は、彼女の言葉のハンマーによって叩き割られた。
(今、アルベルクと、呼んだの?)
サナは驚いた面持ちでマリアンヌを見遣る。彼女だけでなく、アルベルクもトリンプラ侯爵も、そして空気と化していたエリルナさえも、マリアンヌを凝視していた。
同じ家門出身、昔馴染みの友人とはいえ、家門の主、貴族階級の中でもトップに君臨する公爵家の当主を呼び捨てするなどあってはならないこと。それも、夫人がいる前で。
「マリアンヌ!」
トリンプラ侯爵に咎められたマリアンヌは、口元を押さえて肩を震わせた。
「申し訳ございません……エルヴァンクロー公爵。昔の癖で名を呼んでしまいました……。何卒ご無礼をお許しください」
マリアンヌは、深く頭を下げて謝罪する。
「次からは気をつけてくれ」
アルベルクが冷々とした声色で告げると、マリアンヌは恐る恐る頭を上げる。
「エルヴァンクロー公爵。私も、お父様と一緒に、この城に滞在させていただけませんか?」
マリアンヌの突然の頼みにも、アルベルクは特に驚かなかった。そんな彼とは反対に、サナは心中でかなり焦っていた。
アルベルクに未だ気持ちがあるかもしれないマリアンヌが、父であるトリンプラ侯爵と共にエルヴァンクロー公爵城に滞在する。それがどれほど、危険なことか。アルベルクの妻であり彼に想いを寄せているサナは、その危険性を重々理解していた。
「ご当主様、娘の度重なる無礼をお許しください」
「……どういうことだ、侯爵」
「実は……家門の一員である娘にもリーユニアが誇る観光業を学ばせたいのです。女性ならではの柔軟な思考力と豊かな発想力が、リーユニアのさらなる発展に繋がるのではないかと考えております」
トリンプラ侯爵の真剣な表情に、アルベルクは考え込む仕草を見せる。
「烏滸がましい頼みであることは重々承知しておりますわ……。エルヴァンクロー公爵もお困りになるでしょうし……何より公爵夫人からしたら、公爵の幼馴染である私を滞在させるなど、嫌ですわよね? いくら夫婦仲が上手くいっていないと言っても……」
マリアンヌのどこか違和感の残る言葉に、サナの堪忍袋の緒が切れかかる。
「アルベルク様、私は構いません」
「サナ、俺は、」
「おふたりが幼馴染であることは事実でしょうけど、間違ってもおふたりの間に何かあるなんてことはございませんよね?」
サナは、アルベルクとマリアンヌを交互に見る。当たり前だと頷くアルベルクに笑いかけた。
「それでしたら構いませんよ。トリンプラ侯爵、侯爵令嬢、ようこそ、エルヴァンクロー公爵城へ。公爵夫人である私がおもてなしいたしますね」
悪女の時の血が騒ぐのを感じ、サナは笑みを深めたのであった。
「ご挨拶に伺いましょう」
エリルナが頷く。アルベルクとマリアンヌがいる場所に向かうべく、歩を進める。
サナは、トリンプラ侯爵の娘であるマリアンヌを知らなかった。結婚式には、トリンプラ侯爵と侯爵夫人も訪れていたし、挨拶もした。しかし、その時マリアンヌは不在だった。ほかの傘下の家は、令息や令嬢を連れていたのに、だ。体調が悪く出席できなかったのだろうか。それとも別の理由、例えば、アルベルクがほかの女と結婚するところを見たくないと出席を拒否したのだろうか。
なんとも言えない気持ちに苛まれたサナは、軽く溜息を吐いたのであった。
悶々とした気持ちに支配されるまま歩いていると、いつの間にか目的地に到着したらしい。長い階段を下り、正面の扉からトリンプラ侯爵とマリアンヌを笑顔で出迎えようと決意したその時、正面の扉が開かれる。そこから入ってきたのは、アルベルクとマリアンヌ、トリンプラ侯爵だ。
「アルベルク様」
アルベルクに声をかけると、僅かに驚いた様子の彼と目が合った。優雅に、そしてなけなしの気品をなんとかアピールしながら、階段を下りる。アルベルクの隣に立ち、マリアンヌとトリンプラ侯爵に微笑みかける。
「トリンプラ侯爵、お久しぶりですね」
「これはこれは……エルヴァンクロー公爵夫人。お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
トリンプラ侯爵は微笑みながら挨拶する。
「こちらは私の娘、マリアンヌです」
「お初にお目にかかります、エルヴァンクロー公爵夫人。私はマリアンヌ・ダ・トリンプラと申しますわ。以後、お見知り置きを」
トリンプラ侯爵の紹介を受け、優美に挨拶するマリアンヌ。見た目が麗しいだけでなく、声も美しいとは。サナは感心する。
「お会いできて光栄です、トリンプラ侯爵令嬢。サナ・ド・エルヴァンクローと申します。いつも夫がお世話になっております」
「………………」
マリアンヌはキラキラとした笑みを浮かべるだけで、何も言わない。その姿に恐怖を感じたサナは、そーっと目を逸らしたのであった。
「サナ。トリンプラ侯爵には、今日からこの城に一ヶ月ほど滞在してもらう予定だ」
「そうなのですね。大切なお仕事ですか?」
「リーユニアの新たな観光業についての話し合いのためだ。お前には極力苦労をかけないようにする。トリンプラ侯爵のことは空気とでも思ってくれ」
「……く、空気、ですか?」
アルベルクの言葉に、サナは小首を傾げた。明らかに怒っているトリンプラ侯爵が目に入るが、アルベルクはそれに気がついていない。彼は突然、距離をぐっと詰め、トリンプラ侯爵とマリアンヌには聞こえぬよう、小声で話しかけてきた。
「お前が気にかける必要はない。いつも通りに過ごしてくれたらいい」
「……分かりました」
小声で言うべきことは、空気云々の話のほうだと思うが……。そう思ったサナだったが、引き攣った笑顔で頷いたのであった。
「あの、アルベルク」
マリアンヌの声が聞こえた。ふたりの親密な一時は、彼女の言葉のハンマーによって叩き割られた。
(今、アルベルクと、呼んだの?)
サナは驚いた面持ちでマリアンヌを見遣る。彼女だけでなく、アルベルクもトリンプラ侯爵も、そして空気と化していたエリルナさえも、マリアンヌを凝視していた。
同じ家門出身、昔馴染みの友人とはいえ、家門の主、貴族階級の中でもトップに君臨する公爵家の当主を呼び捨てするなどあってはならないこと。それも、夫人がいる前で。
「マリアンヌ!」
トリンプラ侯爵に咎められたマリアンヌは、口元を押さえて肩を震わせた。
「申し訳ございません……エルヴァンクロー公爵。昔の癖で名を呼んでしまいました……。何卒ご無礼をお許しください」
マリアンヌは、深く頭を下げて謝罪する。
「次からは気をつけてくれ」
アルベルクが冷々とした声色で告げると、マリアンヌは恐る恐る頭を上げる。
「エルヴァンクロー公爵。私も、お父様と一緒に、この城に滞在させていただけませんか?」
マリアンヌの突然の頼みにも、アルベルクは特に驚かなかった。そんな彼とは反対に、サナは心中でかなり焦っていた。
アルベルクに未だ気持ちがあるかもしれないマリアンヌが、父であるトリンプラ侯爵と共にエルヴァンクロー公爵城に滞在する。それがどれほど、危険なことか。アルベルクの妻であり彼に想いを寄せているサナは、その危険性を重々理解していた。
「ご当主様、娘の度重なる無礼をお許しください」
「……どういうことだ、侯爵」
「実は……家門の一員である娘にもリーユニアが誇る観光業を学ばせたいのです。女性ならではの柔軟な思考力と豊かな発想力が、リーユニアのさらなる発展に繋がるのではないかと考えております」
トリンプラ侯爵の真剣な表情に、アルベルクは考え込む仕草を見せる。
「烏滸がましい頼みであることは重々承知しておりますわ……。エルヴァンクロー公爵もお困りになるでしょうし……何より公爵夫人からしたら、公爵の幼馴染である私を滞在させるなど、嫌ですわよね? いくら夫婦仲が上手くいっていないと言っても……」
マリアンヌのどこか違和感の残る言葉に、サナの堪忍袋の緒が切れかかる。
「アルベルク様、私は構いません」
「サナ、俺は、」
「おふたりが幼馴染であることは事実でしょうけど、間違ってもおふたりの間に何かあるなんてことはございませんよね?」
サナは、アルベルクとマリアンヌを交互に見る。当たり前だと頷くアルベルクに笑いかけた。
「それでしたら構いませんよ。トリンプラ侯爵、侯爵令嬢、ようこそ、エルヴァンクロー公爵城へ。公爵夫人である私がおもてなしいたしますね」
悪女の時の血が騒ぐのを感じ、サナは笑みを深めたのであった。
137
お気に入りに追加
527
あなたにおすすめの小説
この朝に辿り着く
豆狸
恋愛
「あはははは」
「どうしたんだい?」
いきなり笑い出した私に、殿下は戸惑っているようです。
だけど笑うしかありません。
だって私はわかったのです。わかってしまったのです。
「……これは夢なのですね」
「な、なにを言ってるんだい、カロリーヌ」
「殿下が私を愛しているなどとおっしゃるはずがありません」
なろう様でも公開中です。
※1/11タイトルから『。』を外しました。
記憶をなくしたあなたへ
ブラウン
恋愛
記憶をなくしたあなたへ。
私は誓約書通り、あなたとは会うことはありません。
あなたも誓約書通り私たちを探さないでください。
私には愛し合った記憶があるが、あなたにはないという事実。
もう一度信じることができるのか、愛せるのか。
2人の愛を紡いでいく。
本編は6話完結です。
それ以降は番外編で、カイルやその他の子供たちの状況などを投稿していきます
たとえ番でないとしても
豆狸
恋愛
「ディアナ王女、私が君を愛することはない。私の番は彼女、サギニなのだから」
「違います!」
私は叫ばずにはいられませんでした。
「その方ではありません! 竜王ニコラオス陛下の番は私です!」
──番だと叫ぶ言葉を聞いてもらえなかった花嫁の話です。
※1/4、短編→長編に変更しました。
竜王の花嫁は番じゃない。
豆狸
恋愛
「……だから申し上げましたのに。私は貴方の番(つがい)などではないと。私はなんの衝動も感じていないと。私には……愛する婚約者がいるのだと……」
シンシアの瞳に涙はない。もう涸れ果ててしまっているのだ。
──番じゃないと叫んでも聞いてもらえなかった花嫁の話です。
愛されない花嫁はいなくなりました。
豆狸
恋愛
私には以前の記憶がありません。
侍女のジータと川遊びに行ったとき、はしゃぎ過ぎて船から落ちてしまい、水に流されているうちに岩で頭を打って記憶を失ってしまったのです。
……間抜け過ぎて自分が恥ずかしいです。
今日は私の結婚式
豆狸
恋愛
ベッドの上には、幼いころからの婚約者だったレーナと同じ色の髪をした女性の腐り爛れた死体があった。
彼女が着ているドレスも、二日前僕とレーナの父が結婚を拒むレーナを屋根裏部屋へ放り込んだときに着ていたものと同じである。
邪魔者はどちらでしょう?
風見ゆうみ
恋愛
レモンズ侯爵家の長女である私は、幼い頃に母が私を捨てて駆け落ちしたということで、父や継母、連れ子の弟と腹違いの妹に使用人扱いされていた。
私の境遇に同情してくれる使用人が多く、メゲずに私なりに楽しい日々を過ごしていた。
ある日、そんな私に婚約者ができる。
相手は遊び人で有名な侯爵家の次男だった。
初顔合わせの日、婚約者になったボルバー・ズラン侯爵令息は、彼の恋人だという隣国の公爵夫人を連れてきた。
そこで、私は第二王子のセナ殿下と出会う。
その日から、私の生活は一変して――
※過去作の改稿版になります。
※ラブコメパートとシリアスパートが混在します。
※独特の異世界の世界観で、ご都合主義です。
※誤字脱字など見直して気を付けているつもりですが、やはりございます。申し訳ございません。
村娘になった悪役令嬢
枝豆@敦騎
恋愛
父が連れてきた妹を名乗る少女に出会った時、公爵令嬢スザンナは自分の前世と妹がヒロインの乙女ゲームの存在を思い出す。
ゲームの知識を得たスザンナは自分が将来妹の殺害を企てる事や自分が父の実子でない事を知り、身分を捨て母の故郷で平民として暮らすことにした。
村娘になった少女が行き倒れを拾ったり、ヒロインに連れ戻されそうになったり、悪役として利用されそうになったりしながら最後には幸せになるお話です。
※他サイトにも掲載しています。(他サイトに投稿したものと異なっている部分があります)
アルファポリスのみ後日談投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる