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本編
第1話 前世を思い出す
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西の空。燃え滾る炎のように赤い。一日中大地を照らし続けた太陽が役目を終える寸前の黄昏時は、美しく、そしてどこか憂いを帯びている。
海岸。西の空に沈みゆく太陽を眺めるのは、ひとりの可憐な女性だった。ローズブロンドの長髪は緩く巻かれ、赤色の髪飾りで彩られている。整った細い眉毛に、髪色と同色の長い睫毛。ルビー色の瞳は、本物の宝石と見まがうほど輝いている。小ぶりで高い鼻に、桃花色に色付いた唇。吹き出物や毛穴ひとつない肌は、陶器のように滑らかだった。豊満な胸の下、腰はくびれているが、肉付きはいい。まさしく、全女性が憧れる均整の取れた体だった。
「奥様。そろそろお時間です」
「……帰りたくないけど、仕方ないわね。今行くわ」
侍女に呼ばれ、女性は踵を返す。道端に停車していた馬車に向かおうとした瞬間、何かを踏んだ。ぐにゅり、とした感覚。女性は震えながら足元を見下ろす。最近購入したばかりの靴。今日初めて履いたそれは、茶色に染まっていた。犬のフンである。否、犬ではないかもしれない。何者かのフンかもしれないが、今はそんなこと言っている場合ではない。
「!?!?!?」
驚いた女性が後退る。フンから逃れようとしたが、運悪く滑ってしまった。それはもう鮮やかな転び方。巷で話題の広告や雑誌に起用されて一躍流行りのポーズとなるであろうと予測できるくらい、美しく宙を舞ったのだ。しかし現実はそう上手くいかず。盛大に転けた女性はたまたま落ちていた石に後頭部を激しく打ちつけてしまった。
「お、奥様っ!!!」
侍女の叫び声が聞こえるが、ろくに返事もできない。意識が朦朧とする。視界が段々と暗くなり、女性はそっと目を閉じたのであった。
世界的に大人気となった小説〝レオンに恋して〟。ヒロインのリリアンナがヒーローのレオンに恋をして、様々な障害を乗り越えて愛し合う恋愛物語だ。とにかく純愛、純愛、純愛。読んでいる側が思わず恥ずかしくなってしまうほどの綺麗な愛なのだ。ドロドロとした愛情はない。辛うじて唇と唇をくっつけるだけのお子様のようなキスシーンはあるものの、体を繋げるシーンは皆無だった。大人向けの恋愛小説が市場を支配していた中、突如として放り込まれた異質な小説。却ってそれがファンたちの心を擽ったのだ。
一般企業に勤める新社会人、照川紗南も、恋愛小説〝レオンに恋して〟のファンであった。
(実写映画公開、ついに明日ね。楽しだわ……! 俳優さんも豪華だし、主題歌も最高だし。公開日に合わせてわざわざ休み取ったんだから楽しまないと損よ!)
夕焼けに向けて拳を突き上げる。行き交う人々が訝しげな目を向けてくるが気にしない。
〝レオンに恋して〟の実写版映画の公開日が明日に迫る中、紗南は浮かれていた。そう、足元に転がっていたフンを踏みつけてしまうくらいに。
「っ!?」
購入したばかりのヒールの底にフンがべったりと付着してしまった。明日は映画の公開日だというのに不運だと嘆くと、すぐ後ろから車の音が聞こえる。
「え?」
振り返った時には、もう遅かった。何が起こったかも分からないまま、気がついたら地面に倒れていた。じわりと地面に滲む血。全身に広がる激痛。指一本も動かせない。体が焼けるように熱い。頭が割れそうだ。車に轢かれたのだと認識するまでに、そう時間はかからなかった。駆け寄ってくる人々が何かを言っているがまったく聞こえない。慌ただしく動く人たちを見つめる中、徐々に意識が朦朧としていく。消えゆく意識。霞む視界。投げ出されたヒールの底に付着したフンを見たのを最期に、紗南は暗闇に呑まれた。
(明日、映画の公開日なのに)
残念ながら、映画を観に行くことは叶いそうになかった。
照川紗南。待ちに待った日を明日に控えながら、儚く短い一生を終えたのであった。
目を覚ます。長い眠りから覚めたような、そんな感覚。両親より先に天国に来てしまったのか、と思いながら見を起こした。起き上がった拍子に、後頭部に鈍痛が走る。フンを踏んづけたと思ったら車に轢かれるなど笑えない話だ。それをなんとか鼻で笑い飛ばし、ベッドから下りる。ところでここは天国だろうか、はたまた病院だろうか。自分は助かったのか。そう考えたところで、とあることに気がついた。
「あれ……」
ふたつの記憶が交錯していることに――。
自身の手を恐る恐る見つめたあと、景色を見渡す。病院ではない。こんな中世の城の内装をした落ち着かない病院があってたまるか。怪我をした直後の体に無理を言って、走り出す。シミひとつない鏡の前に立ち、自身の姿を見つめた。
「私、前世の記憶を思い出したの?」
なぜ、そう思うのか。それは、鏡に映る人物を見れば、一目瞭然だった。
紗南が暮らしていた世界ではない。〝レオンに恋して〟の世界の悪役。ベルガー帝国名門エルヴァンクロー公爵家の夫人、サナ・ド・エルヴァンクローだったから――。
海岸。西の空に沈みゆく太陽を眺めるのは、ひとりの可憐な女性だった。ローズブロンドの長髪は緩く巻かれ、赤色の髪飾りで彩られている。整った細い眉毛に、髪色と同色の長い睫毛。ルビー色の瞳は、本物の宝石と見まがうほど輝いている。小ぶりで高い鼻に、桃花色に色付いた唇。吹き出物や毛穴ひとつない肌は、陶器のように滑らかだった。豊満な胸の下、腰はくびれているが、肉付きはいい。まさしく、全女性が憧れる均整の取れた体だった。
「奥様。そろそろお時間です」
「……帰りたくないけど、仕方ないわね。今行くわ」
侍女に呼ばれ、女性は踵を返す。道端に停車していた馬車に向かおうとした瞬間、何かを踏んだ。ぐにゅり、とした感覚。女性は震えながら足元を見下ろす。最近購入したばかりの靴。今日初めて履いたそれは、茶色に染まっていた。犬のフンである。否、犬ではないかもしれない。何者かのフンかもしれないが、今はそんなこと言っている場合ではない。
「!?!?!?」
驚いた女性が後退る。フンから逃れようとしたが、運悪く滑ってしまった。それはもう鮮やかな転び方。巷で話題の広告や雑誌に起用されて一躍流行りのポーズとなるであろうと予測できるくらい、美しく宙を舞ったのだ。しかし現実はそう上手くいかず。盛大に転けた女性はたまたま落ちていた石に後頭部を激しく打ちつけてしまった。
「お、奥様っ!!!」
侍女の叫び声が聞こえるが、ろくに返事もできない。意識が朦朧とする。視界が段々と暗くなり、女性はそっと目を閉じたのであった。
世界的に大人気となった小説〝レオンに恋して〟。ヒロインのリリアンナがヒーローのレオンに恋をして、様々な障害を乗り越えて愛し合う恋愛物語だ。とにかく純愛、純愛、純愛。読んでいる側が思わず恥ずかしくなってしまうほどの綺麗な愛なのだ。ドロドロとした愛情はない。辛うじて唇と唇をくっつけるだけのお子様のようなキスシーンはあるものの、体を繋げるシーンは皆無だった。大人向けの恋愛小説が市場を支配していた中、突如として放り込まれた異質な小説。却ってそれがファンたちの心を擽ったのだ。
一般企業に勤める新社会人、照川紗南も、恋愛小説〝レオンに恋して〟のファンであった。
(実写映画公開、ついに明日ね。楽しだわ……! 俳優さんも豪華だし、主題歌も最高だし。公開日に合わせてわざわざ休み取ったんだから楽しまないと損よ!)
夕焼けに向けて拳を突き上げる。行き交う人々が訝しげな目を向けてくるが気にしない。
〝レオンに恋して〟の実写版映画の公開日が明日に迫る中、紗南は浮かれていた。そう、足元に転がっていたフンを踏みつけてしまうくらいに。
「っ!?」
購入したばかりのヒールの底にフンがべったりと付着してしまった。明日は映画の公開日だというのに不運だと嘆くと、すぐ後ろから車の音が聞こえる。
「え?」
振り返った時には、もう遅かった。何が起こったかも分からないまま、気がついたら地面に倒れていた。じわりと地面に滲む血。全身に広がる激痛。指一本も動かせない。体が焼けるように熱い。頭が割れそうだ。車に轢かれたのだと認識するまでに、そう時間はかからなかった。駆け寄ってくる人々が何かを言っているがまったく聞こえない。慌ただしく動く人たちを見つめる中、徐々に意識が朦朧としていく。消えゆく意識。霞む視界。投げ出されたヒールの底に付着したフンを見たのを最期に、紗南は暗闇に呑まれた。
(明日、映画の公開日なのに)
残念ながら、映画を観に行くことは叶いそうになかった。
照川紗南。待ちに待った日を明日に控えながら、儚く短い一生を終えたのであった。
目を覚ます。長い眠りから覚めたような、そんな感覚。両親より先に天国に来てしまったのか、と思いながら見を起こした。起き上がった拍子に、後頭部に鈍痛が走る。フンを踏んづけたと思ったら車に轢かれるなど笑えない話だ。それをなんとか鼻で笑い飛ばし、ベッドから下りる。ところでここは天国だろうか、はたまた病院だろうか。自分は助かったのか。そう考えたところで、とあることに気がついた。
「あれ……」
ふたつの記憶が交錯していることに――。
自身の手を恐る恐る見つめたあと、景色を見渡す。病院ではない。こんな中世の城の内装をした落ち着かない病院があってたまるか。怪我をした直後の体に無理を言って、走り出す。シミひとつない鏡の前に立ち、自身の姿を見つめた。
「私、前世の記憶を思い出したの?」
なぜ、そう思うのか。それは、鏡に映る人物を見れば、一目瞭然だった。
紗南が暮らしていた世界ではない。〝レオンに恋して〟の世界の悪役。ベルガー帝国名門エルヴァンクロー公爵家の夫人、サナ・ド・エルヴァンクローだったから――。
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