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第95話 キス

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 ルカがベアトリーチェに襲撃を受けている頃、ヴィオレッタは別の休憩室にいた。
 鮮明ではない視界。ゆっくり浮上する意識は、現状を理解しようと必死であった。視覚だけでなく、聴覚も覚醒しつつある。なんだか、男の声が騒がしい。眉間に皺を寄せながら、何度か瞬きを繰り返す。

「お! 起きたぜ」
「やっとお目覚めか」
「マジでこの体、好きにしていいんだよな?」

 眼前に現れたのは、三人の大柄な男。彼らは、視界に入れることすら吐き気を催す見た目であった。体だけは鍛えているのか、どの男も強靭な肉体を誇っていた。もちろん、ルカには劣るが。
 ヴィオレッタはすぐさま現状を理解する。皇城の休憩室。見知らぬ男が三人。こんな状況の時は、大体手足を拘束されているのがオチだ。ヴィオレッタは冷静を保ち、自身の手足に目を向ける。彼女の予測通り、手足には鎖が巻きついていた。彼女のか弱い力だけでは、引きちぎることはほぼ不可能。

(なるほど。…………詰んだわね)

 少しも焦慮しょうりょを見せない顔色のヴィオレッタは内心、諦念ていねんを抱いていた。だが、黙ってやられる彼女ではない。泣きじゃくって許しを乞うたところで、それは男たちを興奮させる薬にしかならない。ならば助けが来るまでとことん、焦らして、乱して、掻き回してやるしかない。
 ヴィオレッタは真っ赤に彩られた唇を三日月形に歪ませる。その艶美えんびを目の当たりにした男たちは、ゴクリと生唾を呑み込む。

「縛りプレイがお好きだなんて、随分と趣味が悪いこと。一体どなたに頼まれたのかしら」
「……テメェは今から俺たちに犯されんだ。余計なことは言わないほうがいいぜ」

 ひとりの男が口端を吊り上げ、下品に笑う。

「あらあら、何を勘違いなさっているの?」

 ヴィオレッタの口から呆れ混じりの言葉が漏れ出す。彼女の表情から、感情が抜け落ちた。取り囲むオーラは瞬時に色を変える。プリムローズイエローの双眸には、鮮烈なほむらが浮き出ていた。

「私が、あなたたちを犯すのよ。私と一晩を過ごすことを光栄に思えない男なんて、下衆以下だわ」

 威風堂々とした発言に、男たちは震撼する。
 男たちの目の前にいるのは、悪女ヴィオレッタ。ヘティリガ帝国で、彼女の右に出る悪女はいないとも噂されるほどの女性だ。ヴィオレッタの魅了にかかれば、男でも女でも、全てを投げ出し彼女にひれ伏す。ひとりの人生を潰すことなど、ヴィオレッタにとっては造作でもない。今この瞬間も、弄ばれているのは男たちのほう。ヴィオレッタにとっては、ただの、遊びだ――。
 何を勘違いしていたのだろうか。先程までの威勢のよさを消し去った男たちは、その場に両膝をついた。簡単に配下に下った彼らを見て、ヴィオレッタはつまらない男たちだと鼻で笑い飛ばした。

「まずはこの鎖を解いてくださる?」
「は、はいっ!!!」

 ヴィオレッタに頼みという名の命令を受けた男は、大声で返事をして、彼女の手足に痕が残らないよう鎖を丁寧に解いた。ヴィオレッタは凝り固まった筋肉を解して、乱れたドレスを直すと、ベッドに腰を掛ける。

「それで、どなたに頼まれたの?」

 ヴィオレッタの問いかけに、男たちは息を呑み、顔を見合わせる。
 ここで彼女の機嫌を損ねてしまえば、極上の夜を過ごすことはできなくなってしまうかもしれない。男たちの胸の中を渦巻く懸念は徐々に大きくなり、とうとうひとりの男が耐えきれず、口火を切る。

「サンロレツォの令嬢です!」

 男は、ヴィオレッタの想像通りの人物の名を吐いた。
 皇帝の即位一周年記念の大舞踏会に泥を塗るなんて、さすがはベアトリーチェだ。企むことがぶっ飛んでいる。ヴィオレッタが気を失う前、なかなかルカが見つからなかったのもベアトリーチェが関連しているのだろう。ルカが心配だ。ヴィオレッタがこの有様なのだから、彼も唆されてしまっているかもしれない。
 ヴィオレッタは、嘲笑する。

(自分で自分の首を絞めていることに、気づいてもいないのでしょうね)

 近いうちに、ベアトリーチェの父であるサンロレツォ公爵がルクアーデ公爵を陥れた大罪人として、然るべき処罰を受ける。それに伴って、サンロレツォ公爵家の一族もなんらかの裁きを受けるだろう。そしてさらに、ベアトリーチェには、神聖なる皇城での犯罪行為、大舞踏会を土足で踏み躙る行い、ヴィオレッタを陥れようとした罪が課せられる。ベアトリーチェは、よかれと思ってやったことが自らの首を絞めているとは、思いもしないのだろう。なんて滑稽なのか。
 ヴィオレッタが悲哀の混じる笑みを湛えていると、男たちがソワソワと体を動かし始める。

「ヴィオレッタ嬢……。俺たちもう、我慢できませんっ!!!」
「話すことは話しました!!!」
「早くあなたに触れさせてくださいっ!!!」

 飼い慣らされた獣の如く吠える男たちを見て、ヴィオレッタは堂々と足を組んだ。ドレスの裾から見える彼女の美しい足に、男たちは群がりたい衝動に駆られる。

「死にたいならいいわよ」

 優美な笑顔を浮かべたヴィオレッタ。男たちが「へ」と間抜けな声を漏らした、瞬間のことであった。頑丈に閉めてあったはずの扉が木端微塵に砕かれる破壊音が鳴り響く。ヴィオレッタにとっても、男たちにとっても、青天せいてん霹靂へきれきであった。皇城の休憩室の扉を粉砕したのは、ルカだった。騎士服は乱れており、荒い息を吐いている。ヴィオレッタと男たちが呆気に取られていると、ルカはおぼつかない足取りで歩く。そして、正座をして震える男たちに拳を叩きつけた。ひとり、またひとり、最後のひとり。華麗なまでに、四方八方に吹っ飛ぶ男たち。血飛沫が舞い、ルカの頬や服を穢す。
 
「無事で……よかっ、た……」

 酷く乱れた髪の隙間。ターコイズブルーの瞳は、安堵と淫欲いんよくを携えていた。あまりにも熱い目に見つめられたヴィオレッタは、身動きが取れなくなる。ルカはフラフラと近寄り、彼女を強く抱きしめる。ルカの愛しい温もりを感じて、ヴィオレッタの目尻に涙が浮かぶ。ルカの背中に手を回した。

「薬を、飲まされた……。危険だ、俺から離れろ……」
「あなたが抱きしめてきたんじゃない……。それに、危険な目に遭うのはもう懲り懲りだわ。あなたから、離れたくないの……」

 ヴィオレッタの甘い言葉を聞いて、カッとなったルカはベッドに彼女を押し倒す。枕元で揺らめく灯りが、突如として空気を読んだように消えかけた。
 暗がりの中、視界を埋め尽くすルカの美貌。唇に触れた優しげな温もりと、長い睫毛の下から垣間見えた瞳。ヴィオレッタは、彼を逃がしたくないと、強く思った。
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