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第134話 逃亡

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 次の日の夜。ラダベルはセリーヌの力を借りながら、準備を始めていた。それは極東から去る準備である。極東どころか、レイティーン帝国を去る気でいるのだが。アデルと結婚する気もないし、実家に帰る気もない。自らレイティーン帝国を出て、ひとりで生きていく決意を固めたのだ。

「奥様……」
「何?」
「本当に、出ていかれるのですか……?」
「えぇ。本当よ」

 セリーヌの問いかけに、ラダベルはあっけらかんと答えた。もう二度と、ジークルドには会えないというのに、案外平気な自分に驚いていた。まだ実感が湧いていないだけかもしれないが。
 ラダベルは準備を推し進める。高価なドレスは一着、平民としても問題なく着用できる質素なドレスは何着か詰め込んだ。宝石類は、お金に困った際に高値で売ることができるため、たんまりと持った。それに万が一、盗賊とうぞくに襲われたとしても、宝石を渡せば、命だけは助けてもらえそうだ。

「こんな感じかな……」

 ラダベルは、ありとあらゆる物を詰め込んだ鞄を持ち上げる。それを見たセリーヌは、一歩前へ出る。

「奥様、やはり私は容認できません……! お願いです、どうか、お考え直しを……!」

 膝をつき、深く頭を下げる。額を地面に擦りつけるセリーヌの姿に、ラダベルは複雑な心境となる。セリーヌを悲しませたいわけではないのだ。だがラダベルの決断は、結果的に彼女を悲しませることとなる。それが、心苦しくて仕方ない。だからと言って、出ていくことを諦めるわけにはいかない。

「考え直さないわ。私はもう決めたの。この城を出るって」

 堂々と宣言する。セリーヌは恐る恐る顔を上げる。そして、強い意志の灯るトパーズ色の瞳を見て、何を言っても無駄だと察してしまった。

「では……最後に、旦那様とお話をしてください。無理やりにでも、どうか……! 私が今から旦那様を呼んで参ります! ですからっ」
「ごめんね、セリーヌ」

 セリーヌの必死の訴えを棄却ききゃくするラダベル。黄玉の瞳に浮かぶのは、喜びでも涙でも悲しみでもない。ただ、諦めだった。困り眉をする彼女に、セリーヌは「ぁ……」と小さな声を漏らす。


「もう、耐えられないみたい」


 ラダベルは一言そう言った。何が悲しくて、何が辛くて、ジークルドとアナスタシアの幸せな生活を間近で見なければならないのか。この城でふたりが愛し合っているのに、ずっとここにいろなど、もはや拷問ごうもんだろう。ジークルドはラダベルと離婚するつもりはない。ならば、ラダベルがここから出ていくしか、解放の道はないのだ。
 大丈夫。これは幸せになるための一歩。ジークルドがいない生活もきっと耐えられる。まだ彼と出会って一年も経っていない。すぐに、忘れられるから。
 ラダベルは鞄を置いて、セリーヌの手を握る。

「ねぇ、セリーヌ。私は大丈夫。幸せに生きる。だからあなたも、ウィルと幸せになるのよ。きちんと、想いを伝えるの」

 ラダベルは、セリーヌに言い聞かせる。大きな瞳から涙がこぼれ落ちた。彼女の頬を流れる涙を拭い、額と額を合わせる。

「もし、ジークルド様に咎められても……知らないふりをすればいいわ。幸せになって、セリーヌ」

 優しいラダベルの言葉に、セリーヌはしゃくり上げながら涙を流した。ラダベルは、彼女から離れる。そして背を向けて、部屋を出た。今夜のために、見張りの軍人たちには暇を出した。
 廊下の窓から空を見る。時間帯は、真夜中。誰にも見つからない時間帯だ。空にぽっかりと浮かぶ三日月に、作戦通りに行きますように、と願いを込めた。
 伯爵夫人が住まう宮をあとにした時、千鳥足ちどりあしで歩く人間が目に入る。暗闇の中、目を凝らす。なんと、アデルだった。

(なっ、なんでここにいるの……!?)

 心の中でアデルに向かって叫ぶ。泥酔するほど酒を飲んだらしく、彼の足取りはおぼつかない。非常事態とは言え、何も焦ることはない。ラダベルは、アデルの視線に止まらないように細心の注意を払いながら、城の裏口に向かう道を急ぐ。

「んぇ……らだべる?」

 引き止められてしまった。ラダベルは思わず立ち止まってしまう。

「なにをしているんだ、こんなところで……」

 ラダベルは大荷物の鞄を小柄な体で隠しながら、振り返り、にっこりと笑う。今にも眠ってしまいそうなアデルを前にして、大丈夫だと、バレないと自分に必死に言い聞かせた。

「少し野暮用があるのです。殿下もおひとりですか?」
「ぼくはもとからひとりだ……。おまえにフラれたからな!」

 ビシッ、とこちらを指さすアデル。会話が通じないみたいだが、都合が良いとラダベルはほくそ笑む。

「では、私は急いでいるのでこれで」

 ラダベルは一礼して背を向けた。

「待て」
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