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第91話 カトリーナの謝罪

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 物音がした方向には、カトリーナが立っていた。

「チェスター伯爵令嬢……」

 ラダベルが名を呼ぶと、カトリーナは唇を噛みしめた。それを見たラダベルは、できるだけ平常心を保ちながら、肩にかかった艶やかな黒髪を払い除ける。

「そんなに噛んでしまっては、ご自慢のぷるっぷるの唇が可哀想ですよ」

 ラダベルがカトリーナの唇をいたわると、彼女は悔しげに拳を握った。反論しようと口を開くが、思い留まったのか、再び口を噤んでしまった。ラダベルは彼女をまっすぐと見つめる。財力の象徴である煌びやかなドレスは着ておらず、質素なワンピースに身を包んでいる。相変わらず髪はクルクルと巻いているが、よく見ると毛先が傷んでしまっている。肌ツヤはあまりなく、美しい顔は浮腫むくんでしまっていた。ウルトラマリンブルーの瞳は潤んでおり、目元はパンパンにれていた。
 姿形から察するに、昨晩も泣いたのだろう。傷心でかなりの間、客室から出ることができなかったと聞いている。そう思うと、日光の下に出ている今は、前よりだいぶ回復したのだろう。ラダベルはなぜか、ホッと安心してしまった。驚くべきことに彼女は、カトリーナにかつての自分を重ねてしまったのだ。
 アデルと婚約者であった時、彼に冷たい態度を取られる度にラダベルはひとり部屋に引きこもって泣いていた。しかし、自分は大丈夫だと、アデルと必ず結婚して幸せになれるのだと、いつかはアデルも自分を好きになってくれるのだと……何度も何度も言い聞かせていた。惨めなまでに。
 ラダベルの心は、既に限界を迎えていたのだ。カトリーナを見ていると、かつての自分を思い出してしまう。報われない恋心。一方通行の恋心。それを分かっていてもなお、好きなのを止められない、哀れで可哀想な、自分を――。

「知ってるわ」

 ラダベルは呟く。カトリーナは、恐る恐る顔を上げる。

「知ってるわよ、そんなこと。辛くて、悲しいでしょう。信じていた人に裏切られ、淡い恋心を砕かれて……それでも、それでも……好きという感情を忘れられない自分に絶望する。いっそのこと、この想いなんて消えてしまえと思うくらいに」

 ラダベルのトパーズ色の瞳がカトリーナを捉えて離さない。黄金に光り輝くその眼光は、激しく左右に揺れていた。悲哀を滲ませた目。それを目の当たりにしたカトリーナは、唇を噛みしめるのをやめ、自身の瞳から涙を溢れさせた。叶わない恋をし続けたラダベルだからこそ、カトリーナの気持ちがよく分かるのだ。カトリーナの心境しんきょうを見事に言い当てて見せたラダベルに、隣に座っていたセリーヌや、カトリーナの侍女は肝を潰した。

「あぁ、嫌ね……。かつての自分を透かして見ているみたいだわ……」

 ラダベルは大きな溜息をついて、カトリーナから目を逸らした。
 アデルへの執着じみた恋心から抜け出せてよかったのかもしれない。苦しい思いから解放されたのだから。それに比べて今は随分幸せだ。ジークルドという素敵な男性を、愛することができている。彼が戦争に向かう前夜、少し不穏な空気が漂ったが、何も問題はない。彼の無事を祈る心に変わりはないし、彼と自身を繋ぐ関係に変わりはない。たとえジークルドがラダベルを好きにならなかったとしても、ふたりは、神の御前にて誓い合った夫婦なのだから――。その時、心に暗い靄が生まれたのに対して、ラダベルは見て見ぬふりを決め込む。

「あなたも……こんな思いをしていたのですわね」

 カトリーナは震える声を絞り出した。自身の心臓辺りに両手を添える。

「第二皇子殿下と許嫁であったあなた様が心底羨ましかったのです。わたくしも、あのお方をお慕いしているのに、どうしてあなた様だけ、と……。嫉妬したわたくしは、ルドルガー伯爵夫人の陰口を叩きましたわ」

 カトリーナは自ら白状はくじょうした。

「申し訳ございません。心から、謝罪いたします」

 カトリーナはまっすぐとラダベルを見据えて、彼女をざんしたことを謝罪した。深く頭を垂れる。心底憎かった女に頭を下げているなど、なんとも惨めで屈辱的なことだろう。

「それで、私が許すとでも?」
「……いいえ。わたくしがやってしまったことは、決して許されるものではないでしょう。それは、分かっておりますわ。ですが、わたくしも……貴族の娘。失態に対しての謝罪はしますわ。許していただかなくても結構です。許されるつもりも、ございませんから」

 カトリーナの言葉に、ラダベルは無表情となる。
 許されるつもりはない。だが、謝罪はする。ここひと月でだいぶ人が変わったらしい。考えを、気持ちを整理することができたのだろう。カトリーナはアデルに比べて、頭が良い。そう納得したラダベルは彼女の謝罪に無視を決め込み、立ち上がる。

「ならば帰ってくださる? ここはあなたの休む場所ではございませんので」

 ラダベルが振り向きながら、そう言った。カトリーナは肯定するように、そっと目を閉じたのであった。
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