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第89話 溝

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 秋が本格化してきた頃、レイティーン帝国からアレシオン教国に派遣された内通者の存在により、ヴォレン王国の背後にいたのがアレシオン教国という確固たる証拠を掴むことに成功した。そしてレイティーン帝国は、ヴォレン王国に大々的に宣戦布告せんせんふこくしたのであった。
 今晩は、レイティーン帝国の極東部軍が戦地に向けて出発する前日。明朝、日が昇る前に、軍は戦地に向けて出発する。軍の総司令官であるアデルの援軍も、戦力に加わるらしい。アデルも戦争に参加すると意気込んでいたが、ジークルドが「城に残ってほしい」とお願いをしたという。レイティーンの極東部が手薄だと知った他国の軍が攻めてきた際、死力を尽くして東部を守らねばならないからだ。アデルがいるのと、いないとでは、安全性の差は歴然れきぜんとしているだろう。

「ジークルド様」

 ラダベルは、ジークルドに声をかける。寝室の窓辺、美しい星空を拝むことができる特等席を陣取っていたジークルドは、結っていない長い髪をなびかせて振り向く。

「そこから眺める星空は、お綺麗ですか?」

 ラダベルが問いかけながら彼に近寄る。

「あぁ、綺麗だ」

 ジークルドは頷く。別に自分に言われてるわけではないのに、なぜだか照れてしまう。彼の瞳があまりにもラダベルを鮮明に映しているから、ラダベルは周章狼狽してしまった。羞恥心を隠すために、長い黒髪で不自然に顔を覆う。

「まるで、お前の瞳のような輝きを放っている」
「え?」
「ほら、美しい」

 ジークルドはラダベルの髪を優しく払い除け、頬に手を添える。トパーズ色の双眸が見開く。きらり、と流れ星の如く輝いた。

(あなたのほうが、ずっと美しいです)

 なぜかラダベルは無性むしょうに泣きたくなった。部屋は暗い。目尻に滲んだ涙は見られなくて済むだろうか。ジークルドは彼女の頬から手を放し、両手に触れた。

「ラダベル。元帥と……第二皇子殿下とふたりきりにしてしまってすまない」

 ジークルドは心底申し訳なさそうな顔で、謝罪する。仕方のない決断だ。戦争に私情はいらない。私情や情けを見せた者が真っ先に散りゆく墓場なのだ。ラダベルも、それは分かっていた。
 万が一、ウィンシュタイン帝国の東部に、他国が攻めてきたとしたら、城に残るアデルが対処してくれるだろう。戦争とは無縁に育ったラダベルひとりでは厳しくとも、アデルがいればこの東部は比較的安全だ。ジークルドの決断は正しい。
 ラダベルはかぶりを振る。

「……ふたりきりじゃないですよ」

 実際にふたりきりではない。驚くことに、アデルの最有力婚約者候補のカトリーナも未だ滞在中であるし、ティオーレ公爵とラディオルも滞在している。噂によればティオーレ公爵とラディオルが帰還の準備をしているらしいが、それでもまだ、アデルとふたりきりというわけではない。彼との間で危険なことは、何ひとつとして起こらないだろう。
 ラダベルの否定の言葉に、ジークルドは少し思案したあとに頷いた。

「そうだな。だが、ティオーレ公爵と次期公爵は帰還の準備を始めているらしい。あと数日もすればここを旅立つだろう」
「………………」

 どうやらふたりが帰還するという噂は本当だったらしい。ラダベルは、微笑む。

「女主人としての役目はしっかりと果たしますので、ご心配なさらず」
「……そう、か。辛いことがあったらすぐに言ってくれ」

 ジークルドが強い瞳で訴えかけてくる。ラダベルは彼の澄んだ目を直視できず、不自然に目を逸らした。

「戦争からご無事に帰還してくださらなければ……言えません」

 ラダベルが唇を噛みしめながら本音を吐露する。ジークルドは、目を瞑りながら首肯した。彼女の本音を甘んじて受け入れているようだ。

「そうだな……。必ず、何がなんでも、ここに帰ってくる。信じてくれ、ラダベル」

 ラダベルはジークルドに、目を向ける。彼女の胸が激しく高鳴った。ジークルドは、美しい笑みを浮かべていた。パープルダイヤモンド色の瞳に、虚偽はない。それを見たラダベルは再度、唇を噛む。

「信じています」

 ラダベルはジークルドに思いっきり抱きついた。ジークルドは、彼女の腰に腕を回し、強く抱きしめ返してくれる。ジークルドの温もりに、全身で触れる。

(久々に、あなたに抱いてほしい……)

 ラダベルは顔を紅潮させる。彼の髪をするりと指に絡ませて、撫でる。そして彼のうなじを指先でツーッと触った。ピクリと反応を見せるジークルド。もうひと押し、とほくそ笑んだその時、彼は突然ラダベルを押し退けた。ラダベルの目が見開く。

「明日は早い。俺はもう眠りたいんだが……」

 ジークルドは、恐縮きょうしゅくそうな表情をする。それを見たラダベルは、自然と彼の心情を察する。

(私、今……断られたんだ……)

 断られたのだと自覚した途端、ラダベルは哀惜を抱く。途方もない悲しみに支配されそうになったが、必死にそれを抑え込む。ジークルドも人間なのだからそういう日もあるだろう、と思い込むことにした。明日は早いのに、それを察してあげられなかった自分に非がある。

「申し訳ございません……。自分の部屋に戻りますね」

 ラダベルは無理に笑顔を作る。ふたりの間にできた歪みは、刻一刻こくいっこくと大きくなっていく。
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