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第37話 舞い上がる心

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「あ、それと、失敗した初夜のやり直しもしたいのですが」

 ラダベルの衝撃的な一言に、ジークルドは盛大に水をこぼした。幸い、軍服は濡れていない。彼の顔から血の気が引く。妻の前で動揺して水をこぼすという失態が余程ショックであったらしい。ラダベルはギョッとした顔をする。

「ジークルド様っ! 大丈夫ですか!? 今すぐ侍女を呼んで参ります!」

 ラダベルは席を立ち、厨房ちゅうぼうへ繋がる扉を大きく開け放った。するとすぐに異変に気がついた侍女たちが駆け寄ってくる。

「テーブルを拭いてくださる?」
「かしこまりました」

 侍女たちは、布巾ふきんでジークルドがこぼした水を綺麗に拭いていく。彼女たちは、我ここに在らずの状態のジークルドに視線を送る。ジークルドが水をこぼしたことがあまりにも衝撃的だったようだ。ひと仕事を終えた侍女たちは、一礼して間を出た。

「申し訳ございません。私のせいで……」
「気にするな。水をこぼした俺が悪い」
「そんな……。私が急に初夜のやり直しをしたいと言ってしまったから……」

 ジークルドはゴホンッと激しく咳払いをした。言ったそばから……とでも言いたげな表情で、嘆息を吐いた。傍らで思い悩む彼を気にも留めず、ラダベルはひとり反省をした。初夜のやり直しをしたいというのは、彼女の本音だ。初夜は、酒の飲みすぎでまともにジークルドの相手もできないという醜態しゅうたいを晒してしまったのだ。思い出すのも気が引ける。離婚されないためにも、ジークルドとは、ある程度の関係を築かなければならない。それにはもちろん、体の繋がりも含まれているだろう。夜伽よとぎの相手もできない嫁だと思われたら、早々に見切りをつけられてしまうかもしれない。それは不本意だ。何よりジークルドは、ラダベルの好みの男性である。体を繋げること自体の抵抗は、ほとんどないと言ってもいい。問題は、ジークルドにその気があるかどうか、という点なのだが……。ラダベルはチラリと、彼を見る。すると、視線がかち合ってしまう。ジークルドは頬を赤らめながら顔を背け、食事と向き直った。

(案外、心配はいらないのかもね)

 ラダベルは口元に指先を押し当て、クスクスと笑った。戦場だけではなく、夜のほうも百戦錬磨ひゃくせんれんまであろうジークルドも、意外と可愛らしい反応をするのだと微笑ましくなる。軍人の妻、それも大将という地位を持つ“剣王”の妻となったからには、彼がほかの女性と夜を共にすることとなっても、黙って寛大かんだいに受け止めなければならない。今の社交界では、それが当たり前のこと。転生する前の世界では、絶対にありえないことだが、この世界の貴族は一夫多妻制が当たり前なのだ。人としての倫理観を疑ってしまうが、仕方がない。それが、この世界の常識だ。
 ジークルドはラダベルのタイプのイケメンであるが、ラダベルは別に彼を好きなわけではない。彼がほかの女性と夜を共にしても、ほかの女性を好きでいたとしても、別に構わない……はず……。ラダベルは、自身の胸が痛んだことに違和感を覚えながらも、無理やり自分に言い聞かせたのであった。

「一週間後、一緒に過ごせるのを楽しみにしている」
「………………はい」

 ジークルドの言葉に、ラダベルは内心舞い上がる。一週間後のジークルドの生誕祭が待ち遠しい。

「明日、元帥が皇都へと帰還される」
「……そうなのですね」

 ラダベルの声が心做しか低くなる。先程まで舞い上がっていた気分は、一気に急降下を遂げた。はっきり言って、彼女にとってアデルのことなど、もはやどうでもいい。別にいちいち報告をしてくれなくても、と心中で悪態あくたいを突く。

「見送りをしなければならない。乗り気ではないかもしれないが、来てくれるか?」
「………………」

 ラダベルは口を噤む。ルドルガー伯爵夫人として、アデルの見送りに顔を出さなければならない。乗り気ではないからと無視を決め込んでしまえば、ジークルドの顔に泥を塗ってしまうかもしれないのだ。ラダベルは、かぶりを振りたい気持ちをグッと抑えて、頷いた。

「分かりました」

 ジークルドはどこか安堵した様子で、注ぎたての水を飲んだのであった。
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