ありもしない君へ

明里露草

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蜃気楼

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誠司は華とベッドで寝ていた。華はすやすや寝ていた。彼女は少し疲れきっていたのだ。誠司もまた疲れていてよく寝ていたつもりだった。

ただ遠くで男性の叫ぶ声がする。それから女性が囁くように言う。
「絶対開けちゃダメよ。ヨリちゃんも――」
絶対に。誠司は夢の中の言葉をしっかり聞いていた。絶対に絶対にここから出てはいけない。光が消えていく。それから意を決したように小走りで母が去る音だけがした。



起きると華は困惑した様子で誠司を揺り起こしていた。
「誠司さん、起きて。誠司さん」
体がガクガクと震えている。息を止めていたのか、一気に息を吐き、無意識に強く吸い込む。それからはぁはぁと息を吸い続けるしかなかった。
「また? 嫌な夢?」
華は一生懸命何かをしようと手を握る。彼女の包帯がまだ痛々しかった。
「嫌な、夢じゃない」
誠司はそう震える声で言ったが、とても華にはそう思えない。
「華がいるから大丈夫だよ。夢にも華が出てくれば無敵でしょ」
そう子供のような励ましをする。



慎という作家はいわゆる幻想文学を書くが、唯一全く違う作品がある。『田舎の家』という短編だ。鬱屈した青年が人の幸せを妬み、最後に田舎の集落の数件を襲うというホラー作品で雑誌に掲載された。それきり文庫化されていない。
さまざま説はあるがこの作品のモデルは二十年前の集落連続殺人事件ではないかと言われている。実際の事件は結果として精神疾患を患っていた犯人が四軒を襲い、五人が殺された。一番悲劇的だったのは幼い子供のいる家庭で、両親は自分が囮になり犯人に殺され、子供は押し入れの中で助かったという話だ。ただ、田舎の閉鎖的な雰囲気と相まって犯人を差別していた集落の人々に犯人が復讐したという噂がある。そんな事件の犯人と短編作品の主人公はよく似ていた。
理解されたいと主人公は家々を訪ねるが、誰からも理解されずその家を皆殺しにする。理解されるはずもない。主人公は出刃包丁を持っているのだ。
そして主人公は死を望む。しかし作品の最後はこう締めくくられる。
「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律の定める処遇とする」
いわゆる医療観察法という法律の適用だ。

文体からの恐怖感は凄まじく、さらに死の描写が生々しいことからホラーやスプラッタ作品が何作品か出るのではないかと噂されたがついにその一作品だった。

誠司は華の手を握り返した。
「華くん、大丈夫だよ。寝て」
誠司は自分は以前書いた作品の夢を見ているはずだと思った。遠くでまた叫び声がする。



亮は誠司がベッドで寝込んでいるところを見ながら、「またあの夢か」と呟くように言った。
「大丈夫。以前ほど怖くないんだ。文字にして良かったと思う。フィクションに思えるから」
亮は布団を直しながら言う。
「あの短編はフィクションだけどさ」
起き上がろうとする誠司を彼は制し、もう一度寝かせる。
「それにあの夢だけだ、もうなんにも覚えてないんだから」
誠司は布団をぎゅっと握る。
「もう思い出せないんだ」
白昼の白々しい光が眩しい。少しこの時期にしては涼しい曇り空の日だった。
「大丈夫だよ、セイ」
忘れていいとはとても言えず、亮はそう言いたくなる衝動ぐっと堪えた。
「亮、愛してるよ」
やはり誠司はそう言って虚しかった。愛を語ることが自分には許されないようで。どこかに何かを忘れたのか、それとも元々欠けていたのか分からない。
でも、それがあれば、もっと満たされるはずだと思った。きっとこの感情は愛ではない。愛を感じることはもう二度とないのかもしれない。


亮は市販の粉をお湯で溶かすタイプのコーンスープを作って誠司に渡すと誠司はゆっくり飲んでいた。この夢を見ているときの誠司は子供が風邪をひいたときに食べるものを大概食べることができる。胃が驚くので固形物で重湯に近い粥くらいが限界だが、放っておくとハンバーグを買って食べていたときもあった。そのあと吐いたので亮は食べさせないが、ともかく普段食べないものを食べる。
誠司は亮に不思議そうに聞いた。
「亮、仕事は?」
「定休日だよ。俺を過労死させるな」
「なら咲さんは?」
そうコーンスープを眺める。
「実家で今日は寝る、って言ってたな。たまにリフレッシュしてるらしい」
「本当にいい人だね」
咲のことを誠司は好んでいた。少し申し訳ない。夫の休みを他人の看病に費やされて嬉しい人はいないだろう。亮は衝立の向こうに行き、パソコンを立ち上げた。
「やっぱり仕事疲れか? いつもこのくらい書くと体調を崩す」
亮は作品のデータの進みだけ見てすぐに閉じた。
「そうなのかな。とにかくもう大丈夫だよ」
「三十九度ある人間が何言ってるんだ」
「いつもこうなるけど、そんなにつらくない」
誠司の額に氷を押し当てて亮は言った。
「体はつらいんだよ」
誠司は大人しく目を閉じた。氷が心地よい。
「そうだね」
夢の中ですら、もう会えないのだから、と誠司は皮肉に笑った。



誠司は当時十二歳だった。まさに十二歳になった日だった。二歳の妹がいて名前を依子という。年の離れた妹を母が妊娠したとき誠司は戸惑ったが、今では彼は妹を溺愛していた。
「お着替え終わった? セイちゃん」
そう母が部屋に入ってきて着替えさせた依子を抱っこしていた。ピンクのワンピースは依子によく似合っていた。
これからファミレスに行って昼ごはんを食べて、ショッピングモールに行き、最後にケーキ屋に行ってホールケーキを買って帰る、そんな特別な日だ。誠司はもう小学校六年生だったが、二歳児の育児を久しぶりにしてる母は多少混乱しておりもっと幼い子に言うよな口ぶりで誠司によく話している。
「うん着替え終わった」
「じゃあ最後はお父さんだね」
母も手早く支度した様子だった。父親はさっきまで仕事の電話をしていて支度が随分遅れている。
「パパ~、みんな支度できたよ」
「分かった、今電話終わったから、着替える」
一軒家はあまり広くなくちょっと大きな声で話せば三つ遠い部屋にも聞こえた。母はその間に誠司の部屋の散らかった本を片付けはじめた。母は誠司にそうしながら聞く。
「セイちゃん、何食べる?」
「ハンバーグ!」
誠司は目を輝かせてそう言った。来年中学生になる男児となれば随分前にお子様ランチから卒業していそうなものだが誠司は食が細く、最近やっとお子様ランチから通常メニューになった。
「大人用頼もうね」
それが誠司は嬉しくて力いっぱい返事をした。
「うん!」
そんな話をしながら父親を待つ。

突然玄関が開く音がして、父が玄関に行く足音がした。それから聞いたことのない音がする。大人が揉み合い、玄関のタイルが軋む音だ。
それから父親の悲痛な強い声がした。
「美央!」
そう父は叫んだ。それまで不安そうにその音を聞いていた母は咄嗟に誠司と依子の手を掴んだ。ふたりを押し入れに入れて、母は一度玄関のほうを見て言った。
「絶対開けちゃダメよ。ヨリちゃんも泣いちゃダメ。声を出さないでじっとして」
母はそう言い終わると、音を立てないように押し入れを静かに閉じた。

それから父の怒鳴り声がし、その声に足音はかき消された。一度手前の部屋のドアが開く音がして、強く走る音がした。誠司はそのとき依子が喋りそうになったので、口を抑えた。もう片方の手で自分の耳を覆う。――絶対開けてはいけない。声を出さず、じっとする。そうすれば母も父も戻ってくるだろう。
いつの間にか、世界は静寂していた。それでも誠司はじっと静かにしていた。


絶対ここから出てはいけない、と言われどれほどの時間が経ったか忘れた。知ってる声がして、誠司は目を開けた。いつの間にか目を閉じていたのだ。
「貴紀! 美央さん! 貴紀!」
近くに住む祖母の声だった。それから別の声がする。
「野間のおばさん、今日学校休みだよね。子供たちは……誠司くん! 依子ちゃん! おばさん大丈夫、今嫁さんが救急車も警察も呼んだ」
祖母の家の隣に住む十色のお兄さんと呼んでいた男性だった。誠司は依子を抱えたまま、押し入れを少し開けた。ガタン!という音がして男性は部屋に飛び込んできた。ところどころに血をつけた彼はふたりを見つけると泣き崩れた。
「よっ、良かった。怪我はないかい?」
そうふたりの頭を撫でて押し入れから出した。
「お母さんは?」
誠司は聞く。廊下に続くドアは閉じてある。何も見えない。
「お父さんは?」
どちらにも答えがなかった。ただ「部屋から出ちゃいけない」と言うだけで両親の声はしない。なぜ十色のお兄さんがここに来たか聞いても彼は答えなかった。
「貴紀、美央さん」
そう両親の名前を呼ぶ祖母の声が微かに聞こえた。彼の耳にも届いたようで、彼は大声で叫んだ。
「おばさん! 誠司くんも依子ちゃんも生きてる!」
ドタッと立ち上がる音がして、祖母が部屋に来た。そのとき濃い血の香りがして、祖母はほとんど血だらけで、その手も血で濡れていた。――息子と義理の娘の遺体に縋って泣いていたのだ。その手で誠司と依子を抱きしめた。祖母は温かいはずなのに濡れて冷たくて、深い深い血の香りに誠司はくらりとした。そして遠くでサイレンの音がした。


あれから光がさすことは誠司にはない。どこかでこれが終わればファミレスに行って、ショッピングモールに行って、ケーキ屋に行くんだ、と夢の中で思考する。来ることのない未来を今でも望むことはあまりに馬鹿らしかった。それでもときどき夢の続きを見る。ファミレスでチーズインハンバーグを食べて、ショッピングモールのゲームセンターで父が景品をとってくれて、帰りの車で眠くなりながら最後にケーキ屋に行く。家に帰ると朝までに母が用意してくれたご馳走とケーキを食べるのだ。ケーキのろうそくはもちろん誠司が消す。11歳の誕生日まで毎回していたことだ。



亮は誠司が一度その夢を見るとそれを繰り返すことを知っていた。熱が出てる間は少なくともそうだった。まだ高い熱を確かめて、寝ている誠司の頬を拭う。
「ヨリちゃん、そんなに食べたらお腹痛くなるよ」
そう寝言を誠司は言った。

もし今、幸せな夢を見ているのであれば、ずっとそのままでいて欲しいと亮が願った。それから部屋を出た。
「咲、今帰る」
『誠司さん大丈夫?』
「寝たよ。大丈夫。今どこ?」
亮は玄関を出て合鍵で鍵を締める。
『まだ実家。でもそろそろ帰る。旭が寝ちゃっただけなのよ』
「ならこっちのほうがはやく帰るから何か作ってるよ」
そう言うと咲は喜んだ。
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