3 / 9
ドライヤー
しおりを挟む
誠司は亮の隣で横になったまま嘔吐いた。胃酸が込み上げてくるばかりでなにかを吐くことはない。亮はそれをじっと見守るだけだ。沈黙が続く。
いつものことだ。誠司は接触を嫌う。それで体が拒否し、気持ち悪さになって表出する。その強い嫌悪感を亮は知っていた。――それでいて、それでも彼を亮は抱くのだ。欲望より祈りに近いが、その祈り自体が欲なのである。
「大丈夫、亮。そろそろおさまる」
誠司は体を丸めてそっぽを向いている。本当は背中をさすってやりたいが、それこそが苦しみだと知っている亮は静かに返す。
「ゆっくりでいい」
緊張しきった身体がカタカタと小刻みに震えていて、亮は表情に出せなかったが心底怖かった。
自分がこうしたのだ。守るべき彼を傷つけたのは紛れもなく自分だ。今の亮の苦しみは亮自身が与えている。あまりに愚かだった。
誠司は甘いただ少し調子の悪そうなやや掠れた声で言った。
「ねぇ、亮。寒い、温めて」
その口が言うな、と亮は思う。触れたときの嫌悪感を体すべてで溢れださせているのに。肌の色はより青くなり、筋肉は緊張しきっている。息は浅く、少し過呼吸になりかけている。
その口で、悪化させてくれと言うのだ。
「ゆっくり息を整えろ」
触れないように慎重に毛布を肩までかける。
「違う、亮が」
そう声がして、苛立ちさえ覚えた。ただ抱きしめて、撫でて宥めるそれができない。
いつだか、誠司は亮に打ち明けていた。触れられることの嫌悪と、その嫌悪で苦しむ快楽――いわば「触れて欲しい」は快楽を伴った自傷行為だ。亮は自分が誠司に振り回されていることがわかる。理解しているが、どうにもならない。
亮は躊躇う。自分の欲のために、彼を宥めたいという、聞き入れたいという欲のために彼をまた傷つけていいのか。手を伸ばせばそこにいて、温かくてほかの人間と変わりない体を持った彼を愛することはなぜか難しい。何度試しても当たり前の幸福を彼は受け入れてくれない。
抱きしめられる幸せは赤ん坊すら持ち合わせているはずなのに。
「誠司、お前ってさ」
いつか、そんな幸せが肯定が目の前の彼に届かないのかと期待している。期待しても無理なことはよくわかる。わかるが、望まずにはいられない。
亮は誘惑に負けた。恐る恐るただ物理的には確実に手を伸ばした。そして誠司を引き寄せる。誠司は冷たくて冷や汗をかいていた。亮の手は温かく、せめて少しだけでも体温を渡せないかと亮は誠司を引き寄せた。
「このままいなくなりたいな」
上機嫌に誠司は言った。亮はなんで自分がどう感じるかなど少しも考えないのかと不満だった。そしてここからいなくならないでくれと強く抱きしめた。
「亮、僕はぬいぐるみじゃないよ」
そう誠司は笑う。その目から涙が零れていた。
それは雨の日だった。本屋からの帰り道、アパート前にいた女の子はひどく痩せて、季節に合わない薄着で、誠司はその子の手を思わず引いた。
「僕の家においで」
足にひどい傷跡が見える。かなり大きい傷で目を引いた。誠司はそれを見ながらも今まさに雨に濡れて風邪を引きそうなことが気がかりだった。
彼は部屋に彼女を引っ張り込み、風呂を沸かす。普段シャワーしか使わないがユニットバスがあることに初めて感謝した。
「お兄ちゃん、あのね」
呆然とした顔の女の子はそう呟く。抑揚のない声が痛々しい。
「とりあえずお風呂温まりな」
そう誠司は彼女の声を遮る。それからお湯がある程度溜まるとほぼ放り込むように風呂に入れた。
「亮、どうしよ。女の子拾っちゃった」
そう亮に彼が電話すると
『はぁあ!?』
という驚きと呆れが入り交じったうめき声が聞こえる。
『とりあえず警察だな』
「いや、今お風呂入れた。で、亮。なにかごはん買ってきて」
『お前なぁ』
そう亮は言ったがまもなく、コンビニで親子丼と思いつきで買ったジュースとお菓子を持って亮が部屋に来た。
これが華のふたりの出会いだった。
出会った日、誠司は彼女の髪をドライヤーで乾かし、亮は夕飯を与えた。それは今も変わっていない。
ドライヤーを華は嫌いだ。だが、誠司の家でお風呂に入ると誠司は率先してドライヤーをかける。華のために少し高いシャンプーすら用意されている。
「誠司さん、もういいよ」
耳が熱くなって華は喚く。
「まだ生乾き」
誠司は楽しそうに髪を乾かしている。誠司には妹と呼ぶ人間がふたりいて、――今は疎遠だが、それゆえ人の髪を乾かすことが好きだという。
「でも本当にツヤツヤ」
少し誠司にもたれて華は呟いた。誠司の選んだシャンプーはいい香りがする。華は可愛らしいものが好きではあるが、少し無頓着なところもあり、髪はてきとうに束ねているだけだ。だから華は誠司の手入れに満足して呟く。
「ここに住んでもいいかも」
誠司は吹き出した。
「どこに寝るの?」
誠司は空きスペースを作ることがかなり苦手でダイニングすら本だらけにしているのだ。一軒家たがふたり住むことは困難だった。
「誠司さんのベッドでいいや」
「僕が眠れないでしょ」
「キングサイズにすればいい」
誠司はドライヤーを止めてから言い返す。
「ベッドが入りきらないよ」
「ならダブル?」
髪に櫛を入れながら困り笑いした。
「だーめ。仕事で昼夜逆転したらお互いうるさいでしょ。今のアパートだって悪くないよ」
華は少し不満そうにした。うー、と眉間に皺を寄せる。
「誠司さんが借りてくれてるのは嬉しいけどさ、このお家だって、広いんだし勿体ないよ」
華が今住んでいるアパートは元々大学時代誠司が借りていたものだ。大学を卒業して格安で買ったこの平屋に暮らし始めても誠司は借りっぱなしにしている。それは元々華の避難所として使われ、高校三年生のころ、養母である伯母に絶縁されてからは華の住まいになっている。養母の華への最後の言葉は「このアバズレ」だった。確かに大人の男性の家に入り浸り、肉体関係もある姪を良くは思わなかっただろうと、誠司はあとになって思う。ただ、華の背中と足の傷をつけた彼女には言われたくなかった。
「やっぱり、医者に行ってその足の傷治せないか相談したら?」
そう誠司は髪を弄りながら言った。
「嫌! なんでそんな話するの?」
「薄くなるならミニスカートとか履けるよ?」
華は不満そうに傷をさする。
「ミニスカだって別に私は気にないもん」
「でも履かないでしょう」
実際彼女は傷が見えないように気を遣っている。気持ち悪い、そう小学校のころクラスメイトに言われてから、傷は彼女にとって他人を不快にするものと刷り込まれた。
「私に似合わないだけ」
子供っぽく言い訳して彼女はそっぽを向く。
「それに誠司さんは、この傷あるから気持ち悪いとか言わないじゃん。亮さんも。ふたりが気持ち悪くないならそれでいい」
華は傷をそのままにしたかった。愛されなかった証も、それを直そうとしてくれる愛も全部消えて欲しくなかったのだ。
誠司は嫌だった。彼女がいつか、それから、傷から伯母から解放されて欲しいと願っている。
いつものことだ。誠司は接触を嫌う。それで体が拒否し、気持ち悪さになって表出する。その強い嫌悪感を亮は知っていた。――それでいて、それでも彼を亮は抱くのだ。欲望より祈りに近いが、その祈り自体が欲なのである。
「大丈夫、亮。そろそろおさまる」
誠司は体を丸めてそっぽを向いている。本当は背中をさすってやりたいが、それこそが苦しみだと知っている亮は静かに返す。
「ゆっくりでいい」
緊張しきった身体がカタカタと小刻みに震えていて、亮は表情に出せなかったが心底怖かった。
自分がこうしたのだ。守るべき彼を傷つけたのは紛れもなく自分だ。今の亮の苦しみは亮自身が与えている。あまりに愚かだった。
誠司は甘いただ少し調子の悪そうなやや掠れた声で言った。
「ねぇ、亮。寒い、温めて」
その口が言うな、と亮は思う。触れたときの嫌悪感を体すべてで溢れださせているのに。肌の色はより青くなり、筋肉は緊張しきっている。息は浅く、少し過呼吸になりかけている。
その口で、悪化させてくれと言うのだ。
「ゆっくり息を整えろ」
触れないように慎重に毛布を肩までかける。
「違う、亮が」
そう声がして、苛立ちさえ覚えた。ただ抱きしめて、撫でて宥めるそれができない。
いつだか、誠司は亮に打ち明けていた。触れられることの嫌悪と、その嫌悪で苦しむ快楽――いわば「触れて欲しい」は快楽を伴った自傷行為だ。亮は自分が誠司に振り回されていることがわかる。理解しているが、どうにもならない。
亮は躊躇う。自分の欲のために、彼を宥めたいという、聞き入れたいという欲のために彼をまた傷つけていいのか。手を伸ばせばそこにいて、温かくてほかの人間と変わりない体を持った彼を愛することはなぜか難しい。何度試しても当たり前の幸福を彼は受け入れてくれない。
抱きしめられる幸せは赤ん坊すら持ち合わせているはずなのに。
「誠司、お前ってさ」
いつか、そんな幸せが肯定が目の前の彼に届かないのかと期待している。期待しても無理なことはよくわかる。わかるが、望まずにはいられない。
亮は誘惑に負けた。恐る恐るただ物理的には確実に手を伸ばした。そして誠司を引き寄せる。誠司は冷たくて冷や汗をかいていた。亮の手は温かく、せめて少しだけでも体温を渡せないかと亮は誠司を引き寄せた。
「このままいなくなりたいな」
上機嫌に誠司は言った。亮はなんで自分がどう感じるかなど少しも考えないのかと不満だった。そしてここからいなくならないでくれと強く抱きしめた。
「亮、僕はぬいぐるみじゃないよ」
そう誠司は笑う。その目から涙が零れていた。
それは雨の日だった。本屋からの帰り道、アパート前にいた女の子はひどく痩せて、季節に合わない薄着で、誠司はその子の手を思わず引いた。
「僕の家においで」
足にひどい傷跡が見える。かなり大きい傷で目を引いた。誠司はそれを見ながらも今まさに雨に濡れて風邪を引きそうなことが気がかりだった。
彼は部屋に彼女を引っ張り込み、風呂を沸かす。普段シャワーしか使わないがユニットバスがあることに初めて感謝した。
「お兄ちゃん、あのね」
呆然とした顔の女の子はそう呟く。抑揚のない声が痛々しい。
「とりあえずお風呂温まりな」
そう誠司は彼女の声を遮る。それからお湯がある程度溜まるとほぼ放り込むように風呂に入れた。
「亮、どうしよ。女の子拾っちゃった」
そう亮に彼が電話すると
『はぁあ!?』
という驚きと呆れが入り交じったうめき声が聞こえる。
『とりあえず警察だな』
「いや、今お風呂入れた。で、亮。なにかごはん買ってきて」
『お前なぁ』
そう亮は言ったがまもなく、コンビニで親子丼と思いつきで買ったジュースとお菓子を持って亮が部屋に来た。
これが華のふたりの出会いだった。
出会った日、誠司は彼女の髪をドライヤーで乾かし、亮は夕飯を与えた。それは今も変わっていない。
ドライヤーを華は嫌いだ。だが、誠司の家でお風呂に入ると誠司は率先してドライヤーをかける。華のために少し高いシャンプーすら用意されている。
「誠司さん、もういいよ」
耳が熱くなって華は喚く。
「まだ生乾き」
誠司は楽しそうに髪を乾かしている。誠司には妹と呼ぶ人間がふたりいて、――今は疎遠だが、それゆえ人の髪を乾かすことが好きだという。
「でも本当にツヤツヤ」
少し誠司にもたれて華は呟いた。誠司の選んだシャンプーはいい香りがする。華は可愛らしいものが好きではあるが、少し無頓着なところもあり、髪はてきとうに束ねているだけだ。だから華は誠司の手入れに満足して呟く。
「ここに住んでもいいかも」
誠司は吹き出した。
「どこに寝るの?」
誠司は空きスペースを作ることがかなり苦手でダイニングすら本だらけにしているのだ。一軒家たがふたり住むことは困難だった。
「誠司さんのベッドでいいや」
「僕が眠れないでしょ」
「キングサイズにすればいい」
誠司はドライヤーを止めてから言い返す。
「ベッドが入りきらないよ」
「ならダブル?」
髪に櫛を入れながら困り笑いした。
「だーめ。仕事で昼夜逆転したらお互いうるさいでしょ。今のアパートだって悪くないよ」
華は少し不満そうにした。うー、と眉間に皺を寄せる。
「誠司さんが借りてくれてるのは嬉しいけどさ、このお家だって、広いんだし勿体ないよ」
華が今住んでいるアパートは元々大学時代誠司が借りていたものだ。大学を卒業して格安で買ったこの平屋に暮らし始めても誠司は借りっぱなしにしている。それは元々華の避難所として使われ、高校三年生のころ、養母である伯母に絶縁されてからは華の住まいになっている。養母の華への最後の言葉は「このアバズレ」だった。確かに大人の男性の家に入り浸り、肉体関係もある姪を良くは思わなかっただろうと、誠司はあとになって思う。ただ、華の背中と足の傷をつけた彼女には言われたくなかった。
「やっぱり、医者に行ってその足の傷治せないか相談したら?」
そう誠司は髪を弄りながら言った。
「嫌! なんでそんな話するの?」
「薄くなるならミニスカートとか履けるよ?」
華は不満そうに傷をさする。
「ミニスカだって別に私は気にないもん」
「でも履かないでしょう」
実際彼女は傷が見えないように気を遣っている。気持ち悪い、そう小学校のころクラスメイトに言われてから、傷は彼女にとって他人を不快にするものと刷り込まれた。
「私に似合わないだけ」
子供っぽく言い訳して彼女はそっぽを向く。
「それに誠司さんは、この傷あるから気持ち悪いとか言わないじゃん。亮さんも。ふたりが気持ち悪くないならそれでいい」
華は傷をそのままにしたかった。愛されなかった証も、それを直そうとしてくれる愛も全部消えて欲しくなかったのだ。
誠司は嫌だった。彼女がいつか、それから、傷から伯母から解放されて欲しいと願っている。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる