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第三十話『朝の一幕』

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 3日程はそんな調子で、寝たまま過ごした。ルークは家から出ずに、ベッドから見えるところで、薪を割ったり、蔦のようなものを編んで籠を作ったりしていて、呼んでも呼ばなくても、食事を食べさせたり、痺れて寝がえりがうてないクロエの身体の向きを変えに来たりと、甲斐甲斐しく身の世話をしてくれる。
  
 赤ちゃんに戻ったみたいだわ、とクロエは苦笑した。他にすることもないので、起きている間はルークの動きを見ていた。普段は狼の姿で、細かい作業をするときだけ人間の姿に戻るようだ。作業が終わると床でそのまま寝るか、たまに人の姿になって笛のようなものを吹いている。

(――演奏、なんかするのね)

 妙に感心して聞いた。

「それは、笛?」

「そうだ。焼いたんだ」

 ルークが見せてきたのは、丸い形の陶器のような塊で、表面にいくつか穴が空いたものだった。屋敷でも客人を招くときなどに楽団を呼んで演奏してもらっているのを見たり聞いたりしたころはあったが、この楽器は目にしたことがなかった。

「――見たことないわ」

「そうか。うるさかったか?」

 首を振る。聞こえてくる曲は聞いたことがない曲だったが、その音はどこか温かみがある音で、耳に心地よかった。

「――1日家にいていいの?」

 ルークは「なんで」と首を傾げた。

「しばらく前に、大きな熊を獲ったから、しばらくは特に何もしないよ。野菜の収穫もこの前終わったばっかりだし」

 4日目になると、痺れもとれて、手足を動かせるようになった。刺された右足の太腿にじんわりとした痛みがあったが、朝早く起きて寝るまで屋敷内の雑事で動き回っていたクロエは、1日横になっているのは落ち着かなかった。

「何か、することある?」

「まだ動くの辛いだろ。寝てろよ」

「でも」

「いいんだよ、別に。寝たいときに寝て、食べたいときに食べて、好きにしてくれれば」

 布団をかけ直され、仕方がなくそこに埋もれる。
 ルークはベッド脇に寄りかかると、何気なく笛を吹き始めた。
 耳に聞こえてきたその曲は、今まで彼が演奏していたものと違って、クロエの耳に聞き覚えがあるものだった。それは、ずっと幼いころに母親が歌ってくれていた子守歌だった。

(あれ)

 気がつくと、ボロボロと涙が頬を流れていた。嫌だ、と思った。何もしないでいると、やたらといろいろと考えて、感傷的になってしまう。ずずっと鼻を何度かすすると、その音に気付いたルークは笛を吹くのを止め、いぶかし気に寝台に近づいた。
 
「……どうした?」

 「何でもないわ」と丸まったクロエの布団をはがし、そのぐしゃぐしゃになった顔を見て戸惑う。

「――傷が痛い?」

「その曲、なんで」

「リーシャがよく子どもに歌ってるやつだけど……」

「私のお母様もよく歌ってくれてたわ」

 きっと外ではよくある曲なのだろうとルークは頷いたが、クロエが泣いている理由がわからなかった。揺り籠のような森の中では、心を乱して泣きじゃくるのは子どもだけだ。

 少し考えて姿を狼に変えると、クロエの横に腰掛け髪を撫でた。クロエはふかふかした灰色の毛並みに頭を埋める。そうすると、小さいころ、転んで泣いた時やそんな時はいつもコディが近くにいてくれたわ、とまた別のことが頭に浮かんできて余計に涙が出てきた。ルークは無言で壁によりかかって座ったまま嗚咽おえつを漏らすクロエの髪を指でいた。

 しばらくそうしてから、クロエは鼻をすすりながら顔を上げた。狼の青い目が心配そうに見ているのに気づき、握った拳で目元を拭った。

 急に気恥ずかしくなり、俯いた。

「ごめんなさい、急に取り乱して。……こんなに、じっとしてることなんてなかったから、何もしないでいたら、いろいろ考えちゃって」

 最後に声を出して泣いたのはいつぶりだったか、思い出そうとしても思い出せなかった。

「いいんだ。――母親は?」

「大分前に死んだわ。私が8歳の時かしら」

「そうか」

「ルークのお父様とお母様は?」

「2人とも、元気だよ。そこの川を下ったあたりに住んでる」

「それは、いいわね」
 
 ずっと鼻を吸い込む音が部屋に響いて、ルークは立ち上がった。クロエの心情はわからなかったが、気を晴らすことをしてやりたいと思った。

「じっとしてても、つまんないよな。ちょっと出るか」

「でも、足がまだ」

 ずきずきする痛みは感じなかったが、糸でまだ縫われたままであったし、動く時は引きずらないと歩けなかった。

「いいよ、歩かなくて」

 ルークは立ち上がるとよいしょと、クロエを背負った。銀色の毛が鼻先にあたる。

「ちょっと」

「気分が晴れそうなところに連れてってやる」

 窓の外を見ると、日が低く西に傾いていた。

 クロエを担いだまま、家の外に出ると、裏道を登って山の獣道に入って行った。ずんずんと森の奥に進む。草はルークの腰の高さに茂っていて、背負われたクロエは木々の間の景色が見えた。連れてこられた時と違い、日の光があったので、森の中が見渡せた。景色がするすると視界を流れていく。途中で、ぐにゃりと目の前の木が歪んだ気がした。瞬きをすると、先ほどまで周りにあった茶色のごつごつした幹の木が消え、今周りにあるのは白い模様のある幹の木がだった。

「場所が、変わった?」

 呟くと、「ああ」とルークは何気ない様子で頷いた。

「森は繋がっているから」

「繋がっている?」

 うん、と頷きながらも、ルークは迷うことなく藪を進んで行く。

「行きたい方向へ行けば、そこに出られる」

 クロエは彼の言葉の意味が解らず、首を傾げた。

「行きたい方向って?」

 ルークはいったん立ち止まって考えた。自分も周りと同じように、知らず知らずのうちに森を渡る感覚を身につけていた。外から来たリーシャも叔父の番として、ブルーノの感覚を共有しているのか、初めからその感覚を知っていた。改めて言葉で説明するとなると難しい。

「獲物の匂いがする方向とか――だな、」

「ルークたちはやっぱり鼻がいいのね」

 クロエは微笑んだ。「いや」とルークは唸る。リーシャたちは自分たちのように鼻は効かないと思う。前の茂みを見つめると、背中に向かって聞いた。

「どっちに行くと思う?」

 獣道が左右に分かれている。クロエは困ってしまって、首をひねった。

「――右?」

 適当に言うと、ルークは首を振る。

「左に行く」

 それからまた道が分かれる度に同じように、聞いてきた。当たる時もあれば、当たらない時もある。だんだんと繰り返す度に、クロエはなんとなく、どちらに行くのかがわかるようになってきた。

「真っすぐ」

「――そうだ。わかってきた?」

 ルークは驚いたように唸った。

「……草が揺れるの。――匂いがする方っていうのも、そういうことかしら、その方向から、微かに、風が吹いている気がするわ」

 目を凝らすと、確かに行くべき方向の木の枝に下がった葉が少しだけ不自然に揺れていた。

「今まで、気づかなかった。すごいな」

 感覚に頼って移動していたので、言われたような現象が起きているというこに今まで気づかなかった。感心して背中を振り返ると、得意げな顔をしていたクロエと目が合う。彼女はさっと表情を戻して、視線をずらした。その様子にルークは目を細める。彼女は時折、子どものような様子を見せることがある。
 
「何?」

「いや、もう少しだよ」

 がさごそと草をかき分け登り道を登っていく。ルークの背より高い茂みに入る。顔に葉が当たるので、クロエは頭を下げて、目の前の狼の背に顔を埋めた。やがて頭に葉が当たる感触がなくなり、頬を風が抜けた。

「ここ、ここ」

 ルークの声で、クロエは顔を上げた。視界の先は開けていて、岩肌が見える。高い場所だ。眼下には、一面の緑がどこまでも広がっている。それは森の海だった。その海に、夕陽が沈もうとしていた。

「わあ」

 クロエは感嘆の声を上げた。よいしょ、とルークは彼女を近くに転がっていた丸太の上に座らせた。

「見晴らしがいいだろ。狩りの途中で見つけたんだけど。鹿追いかけてたら」

 クロエは目を凝らした。人里のようなものは見えない。

「――私の来た方は、どこかしら」

「わからない。森を抜けていると、外の人間に出くわすこともあるけど」

  ルークは首を傾げる。森の海を自由に動くことができる彼らは、地図を持っていなかった。

「そう」と呟いたクロエを見て、ルークは聞いた。

「元のところに、戻りたい?」

  クロエは表情を歪めて黙った。

「――」

  その様子を見て、ルークは言いにくそうに口を動かす、

「なあ、背中の傷は……」

「奥様の気が済まなかったから、叩かれただけよ」

「オクサマ……」

「私は使用人で、仕えているから。他に行く場所もないし」

 狼は唸り声を上げた。森の中でいつか出くわした、山賊の連中も、命令する者と、命令される者がいた。そういうことだろうか。

 ルークはその外の感覚が理解できなかった。人は誰かに仕えるものでも、誰かを従えるものでもないのに。何かのために行動するとしたら、それは番と家族と一族のためだ。気が済むとか済まないとかそういうことで、他人を好きにしていいことなどあり得ない。

(どちらが獣だか)

 ルークはクロエをじっと見つめた。森の外で、色々自分にはわからないような、経緯があったのだろう。運命の片割れに出会ったとか、そんな劇的な感覚はなかったが、何かの匂いをたどったとことに、彼女がいて、自分は彼女に泣くような思いをしてもらいたくないと感じていることはわかった。言葉は自然に口から出た。

「――ここにいるか?」

 小声で言うと、「え」とクロエは顔を上げた。

「傷が治っても、いればいい」

「いいの」

「――いいよ」

 クロエは俯くと、ぐすっと鼻を鳴らした。ルークは焦って顔を覗き込んだ。

「どうした? また、何か思い出した?」

 クロエは目元を拭うと、笑った。

「違うの。今は、嬉しくて。ありがとう」

 ルークは夕日で赤く照らされた彼女の笑顔に、一瞬視線を奪われて、遅れて「そうか」と呟いた。

『リーシャが嬉しければ、俺も嬉しくなるし。相手の気持ちが直接伝わってくるんだ。俺たちは番だから』

 叔父の言葉を思い出す。クロエの気持ちはわからなかったが、彼女が笑顔なのは、泣き顔よりも嬉しいと思った。

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