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第4話 ローションでドッキリとドキドキ

18 ローションでふざけた結果

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 開き直った後は二人はワーワー騒ぎながら、とにかく滑って転んでを繰り返して掃除を進めた。

 雑な作業ではあったが、勢いよく雑巾掛けをすると丁寧にやるよりも何倍も早く動くことが出来た。廊下へのドアを開け放ちそこへ向かってローションを排出し、室内は思ったより早くそれなりに綺麗になった。

 となれば当然廊下のローションの量がとんでもないことになる。それを眼下に見た月は隣で同じように廊下を見下ろしていたレックスにぼそりと声を掛けた。

「松田さん」

「ん? なぁに?」

「……あの、恥を忍んで一つお願いしたいことがございまして」

「ん?」

 神妙な口調にレックスが振り向く、月は思いきって顔を上げた。

「一回でいいんで端っこから思いっきり滑ってみてもいいですかぁ!?」

 一瞬きょとんとしたレックスが次の瞬間思いっきり吹き出した。その反応に月は恥じ入りつつも、言い訳を並べる。

「だっ、だって何度も転んで転がってを繰り返してここまでドロドロになっちゃったから、もうここは思い切ったほうが良いかなって思ってっ。それに見て下さい、この廊下! もの凄く長いですよ! スケートみたいに長い距離を滑れそうですよっ。ほらっ、松田さんも滑りたくなりません!?」

 子どもっぽい願望に囚われている自覚はあった。けれども、既にふざけて一部屋分の掃除をした後では、眼下にあるもの凄く滑りそうな廊下を勢いよく滑ったらどうなるのだろうという好奇心を抑えることが出来なくなってしまっていた。それに、共にいる相手がレックスだということも月に思い切った事を言わせた要因の一つだ。

 過去に千穂と一緒に観てきた動画とこれまで一緒に過ごして直接見たレックスはどう考えても楽しい事好きだ。そんなレックスがこの長いローション増し増しの廊下で遊ばないはずがない。そんな確信を持っていたからこそ月は自分の幼い願望を口に出来たのだ。

 月はソワソワしながらレックスを見上げて返答を待った。

 数秒の後に返ってきたのは声でなく、スマホだった。レックスはキッチンカウンターの上に置いていた自らのスマホを回収してカメラを起動させ、月に差し出してきたのだ。

「玄関に向けてカメラ構えて。でもって俺が合図したら撮影ボタン押して。いい感じの撮れたらショート動画にでも上げようかな」

「えっ? あっ、はい」

 手についていたローションをまだ乾いているズボンの一部で拭い取り、言われるがまま受け取って構えたスマホ。自分が撮った動画が投稿される可能性にわたわたと落ち着かない気持ちでいる間に、レックスはドアの境に立っていた月より数歩後ろに下がる。スマホを構えたまま振り返ると、レックスの顔面には子どもみないな悪戯顔が浮かんでいた。

「よぉ~い」

 発声すると同時にレックスは体勢を低くした。

 もしかして――――と月が思った瞬間、レックスは思いっきり踏み出した。

「どん!!」

 慌てて指示された通りに録画ボタンを押したスマホの画面越しにレックスが長い廊下を凄い勢いで滑っていく。

「うおっ、やばっ、めっちゃ滑る!!」

 楽しそうにスルスル滑っていたレックスだったが、勢いがつき過ぎて上手く止まることが出来ない。どうにか停止するために、玄関の少し手前で廊下の壁に思いっきり肩をぶつけてすっころんだ。月は再び慌てて録画の停止ボタンを押す。

「大丈夫ですか!?」

 レックスは肩を摩りつつも、全開の笑顔で振り返った。

「これ超楽しい! ほら、ムーちゃんもおいで!!」

 立ち上がったレックスに手招きで促され、月は手に持っているスマホをキッチンカウンターの上に戻した。そして、心の中で「この後真面目に掃除をするから一回だけ」と言い訳して、思いっきり飛び出した。

「ひゃぁあああっ、ちょっ、やばいっ!! 止まれないぃいい!!」

 レックスが転んだのを見た直後だったので少し加減して飛び出したつもりだった。しかしスケートのように滑っている内に想定よりも勢いがついてしまい、自力では止まれなくなってしまう。

「はっはっはっ、俺の胸に飛び込んでおいで」

「そんな事出来ませんっ!!」

 腕を広げてふざけた台詞を言って笑っているレックスに言われるがまま飛び込むわけには当然いかない。となれば壁に手を突いて止まるしかない。ただ、体は壁につけられない。何故なら手はそこまで濡れていないが、体の方はどこもかしこもぐっしょりとローションを吸い込んでいるため、触れると思いっきり壁を汚してしまうからだ。それに手も軽く拭ってある程度で完全に綺麗なわけではない。綺麗な壁に汚れた手で触れる事を本来は掃除をする為にこの場にいる月は今更ながら躊躇した。

 廊下の長さに魅入られて、完全に判断を間違った!

 そう後悔しても時既に遅し。

 レックスにぶつかる前に壁に指先で触れ、抵抗を作ってスピードを落とそうとするがそう上手くはいかない。

 そこで月はレックスに勢いよく衝突してしまうよりもその前に自分から転んでしまった方がマシだと瞬時に判断する。壁に伸ばそうとしていた手を床に突こうと前屈みになった。

「ああっ、そんな転び方したら膝か顔面打つよっ!!」

 レックスが慌てた様子で倒れ方が良くないと指摘したのは聞き取れたが、前屈みになってしまっている月はもう体勢を立て直せなかった。

「どうにも出来ませんっ、このまま倒れますぅ!」

 どうにか顔面強打だけは避けようとへっぴり腰で膝を突こうとする。月はこれから倒れようとしている床を見ていてレックスの動きに全く気を向けていなかった。その結果――――

「うりゃっ」

「えっ? きゃぁあああああ!! ちょっ!? まっ松田さんっ!? 何して!?」

 その日一番の悲鳴を上げた月は気が付いた時にはレックスの上に思いっきり倒れ込んでいた。しかも、倒れかけの体勢時にスライディングするように体の下に滑り込まれたので、受け身も何もない状態でベチンとレックス剥き出しの胸の上に顔を打ち付けてしまう。

 レックスはそれなりの勢いで突っ込んできたらしく、少しの距離を二人は折り重なったまますーっと滑った。後、停止。

 一瞬、妙な静寂が廊下に落ちる。その短い間に、月は顔と上半身の下にある自分のではない人間の体温と自分とは全く違うがっしりとした体、いつの間に背中に回されていた腕をこれでもかという程意識してしまう。

 月はそのコンプレックス故に恋人を作った事がない。恋人と言えば名前で呼び合う、そんなイメージが先行して恋愛する事を恐れていたが故だ。恋をした事がない訳ではなかったが、積極的ではなかった。よって男の肌に直接触れた事などない。少なくとも記憶にない。父親との接触ですら思い出せないくらい なのだ。

 そんな月がレックスの肌に、しかも剥き出しになった上半身の上に寝そべっている今の状況は異常事態以外の何物でもなかった。

「ごっ、ごごごごごっごめんなさいっ!! だっだだだっ大丈夫ですかぁあっ――――ぎゃっ、ぶっ!!」

 これでもかという程動揺して動転してどもった月は勢いよくレックスから離れようと腕を床に突っ張り、その手がつるりと滑った事によって再びレックスの胸にダイブするという間抜けをやらかした。しかも、さっきまでは頬がレックスの肌に触れていただけだったのに、一度持ち上げた顔は正面から落ちてしまう。するとあろうことか口がレックスの肌に直接触れてしまう。そして、転びそうな月をその身を挺して受け止めたときは声一つ上げなかったレックスが唇が当たった瞬間「うっ」と僅かに声を上げた。

 それまで死守していた髪や顔がローションで濡れることを気にする余裕が月には一切無くなった。今度はしっかりと床に手を突いて体を離し、レックスの上に再び落ちないことを最優先にして滑る前に自ら床にごろりと転がった。そのまま出来る限り勢いをつけて廊下の壁に背中が付くまで移動する。さっきまで汚す事を懸念していたはずの壁にビタンッ背中をぶつけ、鈍い痛みが走る。しかし、そんなことは些細なことだった。月は両手で自らの口元を覆い、口の中に僅から入り込んだローションの苦味を意識して頭を沸騰させた。

 なんてことをしてしまったんだ、と身も心も茹で上がりそうになった瞬間、レックスが上体を起こした。定まっていなかった焦点を合わせてその顔色を窺う。

 すると、見上げた先で水も滴るイイ男、ではなくローションが滴るレックスが自らの体を見下ろして唖然としていた。その視線は明らかに月の唇がくっ付いた箇所に向いている。

 若干頬が赤いのは気のせいか?――――そんなことを恐れ多くも考えた月は次の瞬間レックスとバチリと目が合ってしまう。すると、ナチュラルだった男の表情がガラリと変わる。

「ローション塗れで男女で縺れ合うってメチャクチャエロいね」

「なっ!?」

 双眸が細められ、片方の口角が蠱惑的に上がった。女性向け雑誌で時々見る男性のセクシー系ショットを目の当たりしている気分になり、思考が一秒間ほど現実から離れてく。しかし、そのままどこかに行ってしまったままでよかった思考力はあっという間に戻ってくる。

 エロいという免疫がなさ過ぎる単語に月の頬は火を付けられたかという程熱くなり、その熱があっという間に全身に広がった。

 どう反応して良いのか皆目見当もつかない月はあたふたすることしか出来ず、手で隠した口をはくはくと開けたり閉じたりを繰り返す。そんな月の顔をレックスが見下ろして数秒。

「ぶふっ、ムーちゃんメチャクチャうぶだね」

 突然レックスがそれまでで一番激しく吹き出す。蠱惑的な表情がどこかに引っ込んで、代わりに口元を手の甲で押さえながら笑いを堪えて若干震えていた。その姿に月は自分がからかわれたのだと判断し、勢いよく体を起こした。今度は滑らずに済んだ。

「別に初なんかじゃないです!!」

 自分に出来る限りの反撃を口にしてもレックスには何のダメージもないらしく、堪えていた笑いがいつしか大きな笑い声に変化する。

「だって、真っ赤になってキョドッちゃってさぁっ。どんだけピュアなんだよっ。その反応は天然記念物級だわ!」

「天然記念物!? 別にピュアなんかじゃないですっ」

 ツルやイリオモテヤマネコが陽気に脳裏を過った後に子どもだと言われたような心持ちになってボキャブラリーの無い反論をする。直後、ビシッと指を差されズバリと事実を当てられた。

「だって、ムーちゃん彼氏居たことないでしょ? 俺の勘が正しければ恋愛経験も毛が生えた程度だね。かわええなぁ。何歳だっけ? ほんと、今まで俺の周りには居なかったタイプ」

 似非関西弁まで飛び出してきて、月は子どもっぽいと分かっていても精一杯の不機嫌を示さずにはいられなかった。

「二十一歳で彼氏いた事ない人なんて別に珍しくもなんともないですからねっ!! 松田さんみたいなモテて当たり前な人間の方がレアキャラなんですよ!」

 顔周りまでもがローション塗れの状況でからかわれるとなれば、月の仕事モードも雀の涙。

 自らを無遠慮に指差す指を取って返した無遠慮で軽く叩いて、目の前のイイ男を頬を膨らませて睨みつけた。どうせ直ぐにからかわれ返されるだけだと思っての行動だった。

 しかし、月は次のレックスの発言がからかっているのかどうかの判断が出来なかった。

 レックスの愉快そうな笑顔が穏やかなものに変化する。

「いんや、ムーちゃんの方が絶対にレアキャラだね。こんないい子が今までずっとフリーだったなんて、ちょっと信じらんない」

 それはつまりどういう意味だ、額面通り受け取っていいのか? それとも子ども扱いでからかっているのだろうか? 

 月にはレックスの真意が分からなかった。ただ自らを見てくる表情には嫌な感情は込められていないように見える。

 となると、自覚はないが実際にピュアで対人スキルが高くない月が気恥ずかしくなるのは必定。

「何言ってるんですか……」

 目を逸らしつつ、顔についてしまったローションを比較的乾いている手の甲で拭う。

 クスリと笑う声が耳に届いた気がした。けれども、レックスの表情を見ると気恥ずかしさが膨れ上がりそうだったので、それには気が付かない振りをした。

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