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第三話 大食い企画とマネージャー

12 睫毛を追う指先とエレベーター前の宣戦布告

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  ソファの上で丸くなったレックスはしばらくの間目を閉じたまま背中を摩られ続けていた。月はストップの合図が入らないので止め時が分からず、レックスの顔色を見ながらひたすら手を動かし続けた。そうしている内に、辛そうに眉間に力を入れたり体を力ませたりする回数が減っていき、表情が和らいでいくのが分かった。

「少しは楽になりましたか?」

 なるべく刺激にならないように静かに問うと、レックスが薄く目を開けて微笑んだ。

「うん。薬とムーちゃんの介抱が効いてきた」

 月はほっと胸を撫で下ろした。

「まだ摩っていた方がいいですか?」

「もうちょっと、いい?」

 力の抜けたとろりとした上目遣いに、ノーという返事が出てこなかった。男の癖に、弱っている癖に、無駄に色気があり過ぎだと月が内心で唸ったとき、不意にレックスの手が月の頬に伸びてきた。何を、と身を硬くして構えた月の右目の下にレックスの指が躊躇なく触れる。

「……ムーちゃん睫毛付いてる」

「えっ? あの、自分で取りま――――」

「動かないで、もうちょいで取れそう」

 動くなと言われて反射的に言うことを聞いてしまって後悔する。

 自分の指より太くて存在感のある指が爪を立てないようにしているのか何度も睫毛を取り逃がして、頬のあちこちに触れていく。その感覚がどうにもくすぐったく、それと同時に何故だか首筋や背中までソワソワゾクゾクしてしまう。

 そのおかしな感覚が異様に恥ずかしさを増幅させてしまい、堪らなくなってきた月は目を伏せてより全身を力ませる。

「松田さんっ、まだですか?」

「んー、まだ」

 睫毛を取ろうとする指先だけが頬に触れていればよいものの、いつの間にか力があまり入っていない複数の指先が月の頬を掠めるようになる。すると、それまで分からなかったレックスの指の体温までが分かるようになり、より羞恥が募る。となれば必然的に頬に熱が集まってくる。

 顔が赤くなっているのがバレてしまうだろうか。

 そう思うと変に緊張してしまい、ドキドキとソワソワに耐えられなくなった。月はそろりと下げていた視線を上げた。

「自分で取りますから、もう大丈夫ですっ」

「待って、今取れそうだから」

 一生懸命取ろうとしてくれているのか、月の声は右から左に聞き流されてしまう。よりしっかりと人差し指で睫毛を取ろうとしたのか、レックスの手がぐっと頬に近付く。親指が月の唇の端を掠め、小指が顎の下のラインをなぞるようにした。

 瞬間、首筋が粟立って、月は思いっきり肩を竦めてきつく目を閉じた。

 するとレックスがくすっと笑む気配がして――――

「――――めちゃくちゃ可愛いな」

「えっ?」

 ぽつりと小さく呟かれた台詞が上手く聞き取れず、何となく聞こえてきた言葉が信じられないまま、月は目を開けて聞き返した。するとレックスはにっこり微笑んで「睫毛取れたよ」と手をあっさりと引っ込める。

 何が何だか分からず、頬に熱を溜めたまま目を白黒させる。そんな月を満足そうに見つめたレックスはまたソファに顔を沈めて目を閉じて「ムーちゃん、もう少しだけ背中摩って」と可愛らしくお願いしてくる。

 混乱する頭は断りの文句を捻出することも、雰囲気を変化させることも出来なかった。なので、またレックスの広い背中を大人しく摩る。けれども、頬に触れられる前とは違い、やたらと手に触れるレックスの体温を意識してしまっていた。

 月は自分自身に落ち着け、取り乱すな、レックスは善意で睫毛を取ってくれただけだと言い聞かせ、自分がレックスに今触れているのはただの介抱だと脳内で何度も確認する。そうせずにはいられなかった。それほど、レックスの事を強く意識してしまっていた。

 そんな心持ちの時だった。

 ガチャリとドアが開く音がした。反射的に音がした方を見上げると、口をあんぐりと開けて顔面蒼白で自分達を見下ろしている種田が立っていた。

 月は種田が何を目の当たりにして今の表情になったのかに想像を巡らせた。横になって心地よさそうに目を閉じるレックスにその背中を摩る月。そう想像してすぐに種田の脳内補正を予想して加える。すると、体調不良で動けなくなっているレックスに無理矢理触れている月、という映像が出来上がった。

 月は慌てて現状の説明をし、自分に代わってレックスを介抱してやって欲しいと伝えるために口を開き掛けたとき、種田の顔色が急変して真っ赤に染まった。次いで瞬き一つの間で距離を詰められ、レックスの背中を摩っていた手首を掴まれ、思いっきり払い除けられる。勢いそのまま体が傾いで月は尻もちをついた。

 手首に痛みを感じ、何をするんだと見上げた先で種田は肩で息をしていた。そして、大きく息を吸い込んだ。何事かを言おうとしているのが分かり、月は本能的に身構えた。

「んあっ? 種ちゃん、電話終わった? ごめんねぇ、任せちゃって。どんな内容だった?」

 種田が拳を力ませ、第一声を発するための空気を短く吐いた絶妙なタイミングでレックスが上体を軽く起こして、種田を仰いだ。その様子と声色から月が払い除けられた事には気が付いていないようだった。

 まだ数回しかやり取りをしていなかったが、種田がレックス至上主義であるのは疑う余地がなかった。案の定、種田は吐き出そうとした言葉を喉奥深くに飲み込んでレックスの問いに応えることを優先した。

 そこから、レックスの顔色が改善している事を確認した月はすぐさま帰り支度を整えた。無論、種田から逃げるためだ。具体的に何を言おうとしていたのかは分からなかったが、払い除けられた手の感覚から間違いなく良くないことを言われるだろうことは予想出来た。

 キッチン清掃の最終チェックをして、荷物を抱え、種田と話をしているレックスに声を掛ける。するとレックスは仕事の話を中断してわざわざ座る態勢になった。そして、ドアの前に立っている月に対して介抱の礼と長く引き留めてしまった事への詫びを律儀に口にする。

 体調不良で覇気が無いせいなのか何なのか、向けられた笑顔がやたらとふんわりと柔く見えて、月の心臓がまたトクンと小さな音を立てた。けれども、直ぐにその傍らにいる種田の今にも歯ぎしりを始めそうな顔が視界に入って、ほんわりとした空気が一気に氷点下の冷たさに変わる。

 口角が引き攣りそうになるのをどうにか堪えて、退出の挨拶に加えてレックスにまた「お大事に」と声を掛け、月はそそくさと玄関に向かった。

 見送る必要はないといつも言っているので、レックスは追って来ないはず。仕事の話をしていたし、種田もわざわざ追って来ることはないだろう――――と思いつつも、月は急いでスリッパから靴に履き替える。そして逃げるように玄関を出た。

 室内よりも空調の効きが悪いエレベーターホールにたどり着き、やっと息をつく。先程までは感じなかった湿気に軽い不快感を覚えたが、こっちの方が居心地がよい、そう思った時だった。

 自らの後方でガチャリとドアが開く音がした。ギクリとした月はそれに気が付かない振りをして、エレベーターのボタンを押そうと指を伸ばした。その指がボタンに届く直前で内廊下の奥から声が張られた。

「待て。帰るな。アンタには言っておかなきゃならないにことがある」

 はっきりと発声された声にピシリと身を硬くした月は恐る恐る振り返った。

 振り返った先にはずんずんと大股で月に向かって歩み寄ってくる種田の姿。その目は完全に月を睨み据えていた。

「なっ何ですか?」

 あまりの迫力に若干逃げ腰になりつつ、沈黙を貫いて怒鳴らるのも嫌なのでなんとか声を絞り出す。そんな月の目の前で種田は腕を組んで仁王立ちをした。

「家事代行の分際で調子に乗るなよ。絶対に、レックスの事を、アンタなんかに渡さないからな!!」

「えぇ?」

 迫力に圧倒されつつも意味が分からず、情けない声を漏らした月の眼前に種田がビシッと人差し指を突き付けた。

「何が嬉しくてアンタみたいなチンチクリンにレックスを取られなくちゃいけないんだ!! 絶対に認めん!! 少し気に入られているからって優位に立ったと思うなよ! 俺とレックスの信頼関係の厚みを舐めるな! 気心だってこっちの方が何倍も知れているんだ。アンタの付け入る隙なんて直ぐに無くして見せる! 俺の方が何倍もレックスの隣に居るのに相応しいんだからな!!」

「はっ…………えっ?」

 言われていることの意味が分からず、唖然としている月の横に種田が乱暴に手を伸ばし、エレベーターのボタンを押した。

 次いで、ギリギリ音がしそうな程歯を噛みしめた憎らしそうな顔と割と近い距離で目が合う。

「女だからって有利だと思ったら大間違いなんだからなっ。俺の方がアンタなんかの何倍もレックスの事が好きなんだ! 絶対に渡さない!!」

 チーン、と呑気なエレベーターの到着音が背後で響き、月は肩を押されて開いた扉の中に押し込められた。

「直ぐに契約解除してやる!」

 捨て台詞が閉まるドアの向こうに側で言い放たれ、次の瞬間にはドアがピタリと閉まっていた。セキュリティー性能が高いエレベーターは他の階には目もくれず自然と一階まで下降を始める。

 そんな無機質な箱の中で月は一人固まったまま。

「…………えっ? どういうこと?」

 その場で種田の発言の意味が理解できなかった月。それから少し経過した帰路の途中、唐突に全てを理解して人目も憚らずに声を上げた。集めたくもない注目を集めてしまったが、それを気にしている余裕はなかった。
 
「えぇっ!? 種田さんって、つまり、そういうことなのぉ!?」


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