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46 番外編① その後の二人
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「「はあ!?」」
「ちょっと、声がでかいっ」
冬も本番を迎え、営業先で分厚いコートを手に掛ける回数が増えたころ。
久々に一日内勤オンリーだった私は、同期の美香とその彼氏兼先輩の森さんと食堂の隅で優雅にランチライム――とはいかず、何とも気まずい心持ちで尋問めいたものを受けていた。
「何それ! あんた達が付き合い始めたって聞いたの一ヵ月くらい前のはずなんだけどっ」
「有り得ん! 良い歳をした大人のカップルだろお前ら!」
「まぁ、そうなんですかどぉ」
興奮状態の二人に捲し立てられるように言われたところで事実なのだからしょうがない。
というのも、一ヵ月程前に晴れてお付き合いすることになった『我らが一課の鬼』こと榊課長と私だったのだが、今の今までカップルらしいお出掛けをしたのはたった一回。
しかも、お世話になっている近所の居酒屋『酒のみや』に赴き、飲み食いするついでに付き合いを報告するという至って淡白もの。
デートと言って良いのかちょっと疑問に思う様なお出掛けをしただけだった。
個人的には別に付き合いを焦ることはないと思っていた。
何たって互いに忙しいのは嫌という程分かっている。
真面目に働いている課長の姿を仕事中に見てしまうと、邪魔をしたくないという気持ちが一番に湧く。
さらに、そんな頑張っている姿を見るのも結構好きだったり、あの人が自分の恋人だと思うだけで嬉しかったり――
「どこの高校生よっ」
照れる気持ちをどうにか我慢しながらも、現在の心境を語っていたところを思いっきり遮られる。
目の前に座っている美香は狐うどんに箸を突っ込んだままもの凄く不満顔だ。
「イイコト陸、良く聞きなさい」
どこのお嬢様だ、という突っ込みは心の中だけに留めて、逆らえない空気に食べかけの定食から箸を離して背筋を伸ばす。
「マイペースなお付き合いをすることに文句はないわ。その辺は人それぞれだって事は私も分かってる。だ・け・ど、あんた達みたいなのは駄目よ! 二人で会うチャンスが無いわけでもないのに、仕事の忙しさにかまけて恋愛を疎かにするにも限度があんのよ。てか、仕事辞めたり部署変わったりしない限り二人の忙しさなんて変わりっこないんだから、今からそんなんじゃいつまで経っても恋人としての関係なんて進展しないわよ!」
「うっ」
ぐうの音も出ないご高説に私はのけぞり気味になり、そこに森さんが追い打ちを掛けてきた。
「てかさ、どんなに忙しくても土日くらいは時間作れんだろ。何でそこでデートって話にならないんだよ」
「ううっ」
痛いところを突かれて、私は完全に追い込まれてしまった。
実は二人には言ってないことがある。
「出かけるお誘いがない訳じゃないんです……」
私は柄にもなくモジモジしながらどう伝えようか思い悩む。
出来れば話したくない。
けれども、森さんはともかく美香は絶対に自分が納得出来るまで話を畳んではくれないであろうことは容易に想像できた。
仕方なく、私は包み隠さず困った現状を恐る恐る口にした。
「ただ、私が馬鹿みたいに色々意識しちゃって……。二人きりになるのが恥ずかしいというか緊張するというか……」
「「はあ?」」
うじうじと話す私の前で二人は同時に首を傾げた。
その視線に耐えきれなくなった私は両手で顔を覆って情けない己の心境を暴露した
「今までただの上司だった課長に恋人としてどう接して良いのかが分からなくて、誘いを適当にはぐらかしておりましたぁあ!!」
「「…………」」
そう私はまたもや課長を避けていた。
何故か?
だって課長ですよ。
我らが一課の鬼課長の榊恭介様ですよ。
鬼のように仕事が出来て、人に厳しくそれ以上に自分に厳しく、責任感も抜群の出世頭で、社内きっての女子が群がるようなイケメンさんで――。
そんな人が私の恋人!?
付き合う前までは変な意地があり自意識過剰なナルシスト男などと心の中で罵っていたからまだよかった。
けれど今となっては、なんて人が恋人になってしまったのだろうとこっちが戸惑うばかり。
勿論、嬉しい。
とっても幸せだ。
でもでも、どうしても落ち着かない。
上司と部下以外の新しい関係になってどうやって接してよいのかさっぱりわからない!
「どこの中学……いや小学生よ」
「哀れ榊……。頑張れ榊……」
顔を覆った指の間から覗き見た二人は心底呆れた表情と憐れむような表情を浮かべている。
森さんが溜息を吐きながらさらに聞き捨てられない事を呟く。
「どおりで最近のアイツ、また機嫌が悪いはずだよ」
「……やっぱりそうですよね」
それには私も気がついていた。
自分が原因だとは敢えて考えないようにしていた、けれども、ここ最近の課長はいつもにも増して眉間の皺が多い。
社員に対する接し方もいつも以上にピリリとしたものになっているし、何より仕事中でも私が接するときの視線が恐い……。
公私混同するタイプの人ではないとわかっているけれど、その視線がどうにも仕事以外の不満を表しているような気がしてならない今日この頃だった。
どうにかしなくてはとは思っている。
たかがデートだと。
だーけーれーどーもー。
そこまで考えて私は頭を抱えた。
そんな感じに私が自分の世界に入って悶々と思い悩んでいる間、目の前のカップルが荒療治を実行しようともくろみ始めていた。
勿論私はそんなことには微塵も気がつかない。
「おーい川瀬。お前去年のこの会社の資料持ってるか?」
その日の残業中、森さんが唐突に私のデスクまでやってきた。
どうやら、去年私が担当していた企業に関する営業データをご所望のようだった。
「すいません。去年のデータは資料にまとめて全部資料室です」
「マジかー。すぐに必要ってわけじゃないんだけどさ、今ちょっと余裕なくて、川瀬がデータ持ってたら借りときたかったんだけど」
心底困った表情を浮かべた森さん。
手元の自らの仕事の進み具合を確認する。
うん、大丈夫だ。
「もしよかったら私が代わりに資料室からデータ持ってきますよ。自分でまとめたデータなので少しは早く見つけられると思いますし」
「えっ、ほんとに!? 超助かる!」
なんだか大げさに感じられるほど喜んだ森さんにほんの少し違和感を覚えたが、気にするほどのものではなかったので、私はすぐに立ち上がった。
「じゃあすぐ取ってきますね」
「あっ、いや、ゆっくりでいいから。とにかくよろしく」
背中を押すように促され手を振って見送ってくる森さん。やっぱり変だとは思いつつもキーボックスをチェックする。
第一資料室の鍵がない。
どうやら先客がいるようだ。
それが誰だがなんて全く考えもせずに私はなんの気構えもなく資料室に向かい、何の躊躇もなくそのドアを開けた。
「失礼しま――」
「使用中だとわかってるんなら、ノックくらいして入れ」
「すいません!」
部屋に一歩踏み入れると同時に飛んできた注意に条件反射で謝罪する。
あれっ?
この威厳のおありになる聞き慣れたお声は……。
恐る恐る首だけ動かして声が聞こえた方向を見やる。
「なんだ、川瀬か」
「かっ課長」
突然訪れた二人きりの時間に私はこれ見よがしに固まった。
課長は資料棚の前で資料を開いて仕事モードだったので、手元を見ながら淡々と声を掛けてきた。
「資料探しか?」
「はっ、はい。ちょっとN社のデータを……」
「N社?」
私の答えに課長は何故か首を傾げて訝し気な顔をする。
「もしかして、森に頼まれたか?」
「へっ? そうですけど」
ずばり言い当てられて緊張も忘れて驚く私の前で課長はこれ見よがしに溜息を吐いた。
「なるほどな」
言うなり手元に持っていた資料をパタンと閉じて棚にしまう。
どういうことだろうかと首を傾げることしか出来ない私に課長は説明してくれた。
「N社の資料を森のところに持っていく必要はない。何故なら、アイツはその資料を一昨日確認して、昨日もう一度見ようと思ったら資料室からなくなっていたと俺に報告してきたからだ」
えっ? もう確認済み? でもってなくなっている?
説明されたところで意味がわからなかった。
「どういうことですか?」
課長は私の質問には答えず、訳の分からないことを言う。
「因みに今俺が棚にしまったのがN社の資料だ」
増々疑問しか浮かばなくて体ごと傾げそうになったとき、課長が再び大きな溜息を吐いた。
「アイツはさっき、 俺のところにわざわざ来て、あるはずの資料が見当たらなかったと相談してきた。一課の責任者として俺が取るべき行動は何だと思う?」
突然の問いに面食らったが、一応真面目に考える。
「他の誰かが借りてるっていう可能性もなくはないですけど、そんなに頻繁に見られるような資料でもないですし。無くなっているとなると大問題になりますから、責任者だったらその所在を確認するべき、でしょうか?」
私の回答は合っていたらしく、課長は頷く。
「だから俺はここに居る。そしてN社の資料はあっさり見つかった。そしたら川瀬が森に頼まれてその資料を探しに来たと言っている」
「おかしな話ですね」
純粋にそう思ったから出た台詞だったが、このタイミングで室内の空気が一変した。
何故そう思ったか。
目の前で課長の表情がガラリとかわったからだ。
「仕事に関することで嘘を吐いたことについては森に厳罰が必要。でも、まあ今回は特別に許してやることにする」
普段だったら絶対に有り得ない譲歩発言をした課長は何だか腹黒い笑みを浮かべてこちらを見ていた。
思わず一歩後ずさる。
すると退いた分以上に大きな一歩で課長に距離を詰められる。
「で、では私は仕事に戻り――」
「まあ、そんなに慌てることないだろう。折角森が気を使って俺達のために時間を作ってくれたんだから」
「どっどういうことでございましょうか?」
課長はにっこり微笑んでいるというのに、背中に寒気しか感じない。
そして、このとき私はやっと森さんの思惑に気がついた。
ああ、やばい。
そう思ったときには完全に互いの間にあった距離を詰められてしまっていた。
「自分の胸に聞いてみたらどうだ?」
「あはははは」
乾いた笑いでは何も誤魔化せなかった。
その後、私は残業の途中だったにも関わらず映像資料室に連れ込まれ、あろうことかソファの上で課長の膝の上横抱きに座らされた状態で散々誘いを断ってきたことに関して説教された。
挙句の果てに――
「お前どうせ週末暇だろう。四の五の言わずに俺のマンションに来い。一泊な」
「そっそんな急に無理です!!」
二回目の、しかも初めての二人きりのデートが泊まりなんて有り得ない!!
私はそんなに恋愛偏差値も経験値も高くない!!
なのに課長は自分のペースで話を進める。
「夜はお前が飯作れよ。この際和食でもイタリアンでもどっちでもいいから」
「ごっご飯を作るのはいいですけど、いっいきなりお泊まりはっ」
「別にいいじゃねーか。散々俺を避けてきた罰だ」
あまりの言いように思わず、言わなくてもいい本音が出てしまった。
「だっダメです! きっキスだってほとんどしたことないのに!!」
「――ほう」
あっ、墓穴。
そう思ったときには時すでに遅し。
私は終業後の会社の一角で普段は恐ろしいくらい真面目ははずの上司から獣のようなキスを何度も繰り返された。
「二人で考えた作戦上手くいってると良いですね和臣さん!」
「そうだなぁ。でも、あいつ仕事中じゃお堅いまんまかもしれないし。前途多難かもなぁ」
「あら、そうですか? 榊課長はそりゃ真面目な人ですけど、男としても隙がなさそうだし、大丈夫なんじゃないですかね」
「そうだといいなー」
「もしかしたら、たった今資料室でめちゃくちゃイチャイチャしてるかもですよー」
「阿保か美香! そんなのうちの課長様がするわけないだろう」
「えー、そうかなぁ」
とあるカップルの帰り道。
この会話が勝負場合、軍配はあなたに上がります、美香さん。
「ちょっと、声がでかいっ」
冬も本番を迎え、営業先で分厚いコートを手に掛ける回数が増えたころ。
久々に一日内勤オンリーだった私は、同期の美香とその彼氏兼先輩の森さんと食堂の隅で優雅にランチライム――とはいかず、何とも気まずい心持ちで尋問めいたものを受けていた。
「何それ! あんた達が付き合い始めたって聞いたの一ヵ月くらい前のはずなんだけどっ」
「有り得ん! 良い歳をした大人のカップルだろお前ら!」
「まぁ、そうなんですかどぉ」
興奮状態の二人に捲し立てられるように言われたところで事実なのだからしょうがない。
というのも、一ヵ月程前に晴れてお付き合いすることになった『我らが一課の鬼』こと榊課長と私だったのだが、今の今までカップルらしいお出掛けをしたのはたった一回。
しかも、お世話になっている近所の居酒屋『酒のみや』に赴き、飲み食いするついでに付き合いを報告するという至って淡白もの。
デートと言って良いのかちょっと疑問に思う様なお出掛けをしただけだった。
個人的には別に付き合いを焦ることはないと思っていた。
何たって互いに忙しいのは嫌という程分かっている。
真面目に働いている課長の姿を仕事中に見てしまうと、邪魔をしたくないという気持ちが一番に湧く。
さらに、そんな頑張っている姿を見るのも結構好きだったり、あの人が自分の恋人だと思うだけで嬉しかったり――
「どこの高校生よっ」
照れる気持ちをどうにか我慢しながらも、現在の心境を語っていたところを思いっきり遮られる。
目の前に座っている美香は狐うどんに箸を突っ込んだままもの凄く不満顔だ。
「イイコト陸、良く聞きなさい」
どこのお嬢様だ、という突っ込みは心の中だけに留めて、逆らえない空気に食べかけの定食から箸を離して背筋を伸ばす。
「マイペースなお付き合いをすることに文句はないわ。その辺は人それぞれだって事は私も分かってる。だ・け・ど、あんた達みたいなのは駄目よ! 二人で会うチャンスが無いわけでもないのに、仕事の忙しさにかまけて恋愛を疎かにするにも限度があんのよ。てか、仕事辞めたり部署変わったりしない限り二人の忙しさなんて変わりっこないんだから、今からそんなんじゃいつまで経っても恋人としての関係なんて進展しないわよ!」
「うっ」
ぐうの音も出ないご高説に私はのけぞり気味になり、そこに森さんが追い打ちを掛けてきた。
「てかさ、どんなに忙しくても土日くらいは時間作れんだろ。何でそこでデートって話にならないんだよ」
「ううっ」
痛いところを突かれて、私は完全に追い込まれてしまった。
実は二人には言ってないことがある。
「出かけるお誘いがない訳じゃないんです……」
私は柄にもなくモジモジしながらどう伝えようか思い悩む。
出来れば話したくない。
けれども、森さんはともかく美香は絶対に自分が納得出来るまで話を畳んではくれないであろうことは容易に想像できた。
仕方なく、私は包み隠さず困った現状を恐る恐る口にした。
「ただ、私が馬鹿みたいに色々意識しちゃって……。二人きりになるのが恥ずかしいというか緊張するというか……」
「「はあ?」」
うじうじと話す私の前で二人は同時に首を傾げた。
その視線に耐えきれなくなった私は両手で顔を覆って情けない己の心境を暴露した
「今までただの上司だった課長に恋人としてどう接して良いのかが分からなくて、誘いを適当にはぐらかしておりましたぁあ!!」
「「…………」」
そう私はまたもや課長を避けていた。
何故か?
だって課長ですよ。
我らが一課の鬼課長の榊恭介様ですよ。
鬼のように仕事が出来て、人に厳しくそれ以上に自分に厳しく、責任感も抜群の出世頭で、社内きっての女子が群がるようなイケメンさんで――。
そんな人が私の恋人!?
付き合う前までは変な意地があり自意識過剰なナルシスト男などと心の中で罵っていたからまだよかった。
けれど今となっては、なんて人が恋人になってしまったのだろうとこっちが戸惑うばかり。
勿論、嬉しい。
とっても幸せだ。
でもでも、どうしても落ち着かない。
上司と部下以外の新しい関係になってどうやって接してよいのかさっぱりわからない!
「どこの中学……いや小学生よ」
「哀れ榊……。頑張れ榊……」
顔を覆った指の間から覗き見た二人は心底呆れた表情と憐れむような表情を浮かべている。
森さんが溜息を吐きながらさらに聞き捨てられない事を呟く。
「どおりで最近のアイツ、また機嫌が悪いはずだよ」
「……やっぱりそうですよね」
それには私も気がついていた。
自分が原因だとは敢えて考えないようにしていた、けれども、ここ最近の課長はいつもにも増して眉間の皺が多い。
社員に対する接し方もいつも以上にピリリとしたものになっているし、何より仕事中でも私が接するときの視線が恐い……。
公私混同するタイプの人ではないとわかっているけれど、その視線がどうにも仕事以外の不満を表しているような気がしてならない今日この頃だった。
どうにかしなくてはとは思っている。
たかがデートだと。
だーけーれーどーもー。
そこまで考えて私は頭を抱えた。
そんな感じに私が自分の世界に入って悶々と思い悩んでいる間、目の前のカップルが荒療治を実行しようともくろみ始めていた。
勿論私はそんなことには微塵も気がつかない。
「おーい川瀬。お前去年のこの会社の資料持ってるか?」
その日の残業中、森さんが唐突に私のデスクまでやってきた。
どうやら、去年私が担当していた企業に関する営業データをご所望のようだった。
「すいません。去年のデータは資料にまとめて全部資料室です」
「マジかー。すぐに必要ってわけじゃないんだけどさ、今ちょっと余裕なくて、川瀬がデータ持ってたら借りときたかったんだけど」
心底困った表情を浮かべた森さん。
手元の自らの仕事の進み具合を確認する。
うん、大丈夫だ。
「もしよかったら私が代わりに資料室からデータ持ってきますよ。自分でまとめたデータなので少しは早く見つけられると思いますし」
「えっ、ほんとに!? 超助かる!」
なんだか大げさに感じられるほど喜んだ森さんにほんの少し違和感を覚えたが、気にするほどのものではなかったので、私はすぐに立ち上がった。
「じゃあすぐ取ってきますね」
「あっ、いや、ゆっくりでいいから。とにかくよろしく」
背中を押すように促され手を振って見送ってくる森さん。やっぱり変だとは思いつつもキーボックスをチェックする。
第一資料室の鍵がない。
どうやら先客がいるようだ。
それが誰だがなんて全く考えもせずに私はなんの気構えもなく資料室に向かい、何の躊躇もなくそのドアを開けた。
「失礼しま――」
「使用中だとわかってるんなら、ノックくらいして入れ」
「すいません!」
部屋に一歩踏み入れると同時に飛んできた注意に条件反射で謝罪する。
あれっ?
この威厳のおありになる聞き慣れたお声は……。
恐る恐る首だけ動かして声が聞こえた方向を見やる。
「なんだ、川瀬か」
「かっ課長」
突然訪れた二人きりの時間に私はこれ見よがしに固まった。
課長は資料棚の前で資料を開いて仕事モードだったので、手元を見ながら淡々と声を掛けてきた。
「資料探しか?」
「はっ、はい。ちょっとN社のデータを……」
「N社?」
私の答えに課長は何故か首を傾げて訝し気な顔をする。
「もしかして、森に頼まれたか?」
「へっ? そうですけど」
ずばり言い当てられて緊張も忘れて驚く私の前で課長はこれ見よがしに溜息を吐いた。
「なるほどな」
言うなり手元に持っていた資料をパタンと閉じて棚にしまう。
どういうことだろうかと首を傾げることしか出来ない私に課長は説明してくれた。
「N社の資料を森のところに持っていく必要はない。何故なら、アイツはその資料を一昨日確認して、昨日もう一度見ようと思ったら資料室からなくなっていたと俺に報告してきたからだ」
えっ? もう確認済み? でもってなくなっている?
説明されたところで意味がわからなかった。
「どういうことですか?」
課長は私の質問には答えず、訳の分からないことを言う。
「因みに今俺が棚にしまったのがN社の資料だ」
増々疑問しか浮かばなくて体ごと傾げそうになったとき、課長が再び大きな溜息を吐いた。
「アイツはさっき、 俺のところにわざわざ来て、あるはずの資料が見当たらなかったと相談してきた。一課の責任者として俺が取るべき行動は何だと思う?」
突然の問いに面食らったが、一応真面目に考える。
「他の誰かが借りてるっていう可能性もなくはないですけど、そんなに頻繁に見られるような資料でもないですし。無くなっているとなると大問題になりますから、責任者だったらその所在を確認するべき、でしょうか?」
私の回答は合っていたらしく、課長は頷く。
「だから俺はここに居る。そしてN社の資料はあっさり見つかった。そしたら川瀬が森に頼まれてその資料を探しに来たと言っている」
「おかしな話ですね」
純粋にそう思ったから出た台詞だったが、このタイミングで室内の空気が一変した。
何故そう思ったか。
目の前で課長の表情がガラリとかわったからだ。
「仕事に関することで嘘を吐いたことについては森に厳罰が必要。でも、まあ今回は特別に許してやることにする」
普段だったら絶対に有り得ない譲歩発言をした課長は何だか腹黒い笑みを浮かべてこちらを見ていた。
思わず一歩後ずさる。
すると退いた分以上に大きな一歩で課長に距離を詰められる。
「で、では私は仕事に戻り――」
「まあ、そんなに慌てることないだろう。折角森が気を使って俺達のために時間を作ってくれたんだから」
「どっどういうことでございましょうか?」
課長はにっこり微笑んでいるというのに、背中に寒気しか感じない。
そして、このとき私はやっと森さんの思惑に気がついた。
ああ、やばい。
そう思ったときには完全に互いの間にあった距離を詰められてしまっていた。
「自分の胸に聞いてみたらどうだ?」
「あはははは」
乾いた笑いでは何も誤魔化せなかった。
その後、私は残業の途中だったにも関わらず映像資料室に連れ込まれ、あろうことかソファの上で課長の膝の上横抱きに座らされた状態で散々誘いを断ってきたことに関して説教された。
挙句の果てに――
「お前どうせ週末暇だろう。四の五の言わずに俺のマンションに来い。一泊な」
「そっそんな急に無理です!!」
二回目の、しかも初めての二人きりのデートが泊まりなんて有り得ない!!
私はそんなに恋愛偏差値も経験値も高くない!!
なのに課長は自分のペースで話を進める。
「夜はお前が飯作れよ。この際和食でもイタリアンでもどっちでもいいから」
「ごっご飯を作るのはいいですけど、いっいきなりお泊まりはっ」
「別にいいじゃねーか。散々俺を避けてきた罰だ」
あまりの言いように思わず、言わなくてもいい本音が出てしまった。
「だっダメです! きっキスだってほとんどしたことないのに!!」
「――ほう」
あっ、墓穴。
そう思ったときには時すでに遅し。
私は終業後の会社の一角で普段は恐ろしいくらい真面目ははずの上司から獣のようなキスを何度も繰り返された。
「二人で考えた作戦上手くいってると良いですね和臣さん!」
「そうだなぁ。でも、あいつ仕事中じゃお堅いまんまかもしれないし。前途多難かもなぁ」
「あら、そうですか? 榊課長はそりゃ真面目な人ですけど、男としても隙がなさそうだし、大丈夫なんじゃないですかね」
「そうだといいなー」
「もしかしたら、たった今資料室でめちゃくちゃイチャイチャしてるかもですよー」
「阿保か美香! そんなのうちの課長様がするわけないだろう」
「えー、そうかなぁ」
とあるカップルの帰り道。
この会話が勝負場合、軍配はあなたに上がります、美香さん。
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